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光さんの言葉に従って、階段を嫌々上がっていった。
それにしても思うのは、こんな広くて部屋の多い家を、光さんの親族は借りることが出来たなってことだ。
未だに収まらない嫉妬はそういったことを思い起こさせる。ここに住んでいる人の作品じゃなくて、その作品に伴った報酬に目が行くなんてあまりにも恥ずかしい。
気持ちが悪くて吐き気がする。
同時に何も成せない自分に呆れる。
そして、諦めきれない自分が馬鹿々々しく感じる。
「くだらない感傷だ。こんなことを感じるくらいだったら、もっともっと自分の絵にのめり込めという話だ。僕は僕にしかできないことがあるはずなんだから……」
虚無的な檄を自分に掛けながら、階段を上がっていると扉の前に着いた。
僕はどことなく冷たい印象を受ける灰色の扉の前に立つ。どうして、この家に満ちる非人間らしさはこの部屋から発せられているような気がしてならない。ここが温床であり、ここが僕が今抱く嫉妬のすべてに思える。
だからか僕の手には自然と力が入る。いつの間にか握りしめられた拳には、青い血管が浮かんでいる。そんな馬鹿らしい手で、銀色のドアノブを握って捻る。
「……広い」
扉を開けた先は、これまでの玄関と同じくらい広くて、天井も高くて、電灯もついていない。けれど、リビングと違って採光のためか窓ガラスは一般男性の背丈の僕よりも高く、大きい。このおかげで街灯の明かりが部屋に差し込み、アトリエはほのかに照らされている。そして何よりリビングと違うのは、ここは人の雰囲気があることだ。打ちっぱなしのコンクリートも、ここは温もりが籠っている。
白い布が掛けられた六つのキャンバス、床に散乱する画材と素描、極彩色に彩られた石膏の巨象、一本の薔薇が活けらた白磁の花瓶が乗っかった台座、一脚の椅子と窓に背を向けるように設置されたキャンバス。
「とりあえず……」
雑然としながらも神聖な雰囲気を持つアトリエに足を踏み入れる。
出来るだけこの空間を汚さないように、出来るだけこの空間を乱さないように、出来るだけ僕が関わらないように灯りのスイッチを探す。
ただ、僕の目的意識は唯一布が掛けられていないキャンバスに向く。
そして、僕の足は無意識的にキャンバスに向かって動く。神聖なアトリエの中を僕は、精神的な土足で踏み込んでゆく。
「……美しい」
下書きだけだけれど、僕はその構図に目を奪われる。
非の打ちどころのない構図だ。
裸の女性が、泉の水を浴びて微笑む。その肉体と水とが持つ動的な表現と、泉の水面が揺れる静的な表現が、鉛筆でさっと描かれた中にすべて籠っている。色が塗られて、その光が表現されたとき、きっとこの絵は美しい絵になる。
「天才だ」
「……誰?」
僕はこの部屋の主の存在に、主の声で気付く。
背後から聞こえた物音とまだ微睡を含む声に、僕はぎこちなく首を動かす。
「綺麗だ」
今まで人を評するのに使ったことのない言葉が漏れ出した。
僕はその人の容姿に目を奪われた。
白い布に包まり、黒髪を長く伸ばした細身の力なく座り込む女性は僕の意識を奪う。潤む瞳、朱色の唇、白い肌、その美しさが僕を惹きつける。
「本当に誰?」
ただ、アトリエの主は僕を怪訝な目で見つめる。
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