stone
光さんは、僕が頼みごとを受け入れると顔をパッと明るくして喜んで、次いで運ばれてきたグラスに注がれた赤ワインを一気飲みした。そして、あとは酒に飲まれる勢いに従って、光さんは次々とワインを飲んでいった。
ただ驚くことに光さんは、八杯目を飲み干しても顔が赤くなるだけでまったく酔わなかった。大学の先輩と酒を飲む機会もほとんどなかったから、光さんが上戸だとは知らなかった。
「マスター、ラスト一杯」
「かしこまりました」
食事を食べ終えたころ、光さんの空いたグラスに最後の赤ワインが注がれる。そして、注がれると同時に味わうだとか香りを楽しむだとかの動作を度外視して、これまで通り力強くワインを飲み干す。
飲み終えたグラスを光さんは、それまでの動作から考えられないほど優しくグラスをカウンターの上に置く。十数分前に飲み終えた僕のグラスに入った氷が、からりと鳴る。
「それじゃあ行こうか! 私の家族の下に!」
腕を天井に伸ばした光さんは、その声と勢いのまま立ち上がる。時間の経過に伴って増えてきたお客たちの慎ましい騒ぎの中でも、光さんの声は目立つ。煩わしい羞恥心を抱える僕の小さな心はドキリと脈打つ。
けれど、今この店に入っているお客たちは全員常連なのか、誰も光さんとその連れの僕に視線を向けることは無く、各々の会話に集中するだけだった。もっとも、そんな小さな心は小さな恥を抱く。
少しでも酒を入れておけば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
いや、アルコールでやられた体はもっとひどいことになっていたと考えればどうってこともない。
数十分前のことを少し後悔しながら、僕は光さんのお勘定の傍らに立つ。
レジスターを打つマスターは、僕をどう見ているんだろうか……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜は更けていた。
と言っても、深夜の空気が外に満たされている訳じゃない。ただ繁華街が繁華街としての本来の輝きを取り戻す程度の夜でしかなかった。だからこそ、空気は生ぬるく、どこか気持ち悪さを含んでいる。
ただし、僕の抱いた嫌悪感は僕だけのものだ。酒を飲んだ光さんからすれば、その空気は浮世の心地よさだし、一瞬の堕落を許容してくれるここは天国染みた場所なんだ。そして町で酒を飲む大多数の人たちにとっても。
苦悩の中に揉まれて、蓄えられた辛さを誤魔化すための町で疎外感を覚える僕は光さんに再び手を握られ、その後ろに着いて行く。
足早に人と人の間を縫ってゆく時、光さんの顔はずっと笑っていた。けれど、きっと、僕の顔は辛気臭かった。平らで、青白くて、適当で、投げやりで、爪弾きにされた人間の顔をしていた。
手を引かれた僕が行きついたのは、車の通りが激しい国道だった。無数のバックライトの光が眩く一方向に流れ続ける。
歩道もまた人で溢れている。堅苦しいスーツのネクタイを緩めて歩く中年男性、カツカツと忙しくハイヒールを鳴らしながら歩くキャリアウーマン、よれたシャツを着て黒いリュックを背負った男子大学生、お洒落なワンピースを身に着けて笑いながら歩く女子大学生、そんな人たちで二十一時の歩道は埋め尽くされている。
相変わらずの人通りに、僕の気持ち悪さが消えることは無い。
「タクシー!」
辛気臭さを打ち消すように、光さんは僕からそっと手を離して、思いっきり手を挙げる。相変わらず光さんの大声は良く響く。町の人は紫の店内とは異なり、僕らに視線を向ける。
青白い顔の冴えない青年と溌溂とした美人の二人組に。
ただし、突発的に僕が抱いた羞恥心を隠すように黒いセダンのタクシーは僕らの前で止まる。そして、僕は光さんの手に従って車内に乗り込む。
「お客さん、どちらへ?」
「〇〇区××町△△△-△までよろしくお願い!」
「分かりました」
タクシーの運転手は光さんの言葉に従って、ハンドルを握り、アクセルを踏む。
黒光りのタクシーは夜の街の中に消えてゆく。
僕と光さんを乗せて……。
「ちょっと待ってください。光さん、光さんの家族ってそんな高級住宅街に住んでるんですか?」
「そうだよ。あいつ、金持ちだからさ。まあ、才能のなせる業よね。金を稼ぐ能力は無いくせに……」
組んだ足の上に頬杖をつきながら、眉をしかめて言葉を紡ぐ。
基本的に嫌なことがあっても、表情に出さないことが多い光さんがこんな表情を浮かべるなんて、僕が看病しなきゃいけない人はどんな人なんだ?
紫の雰囲気の中での決断は揺らぐ。
「いったい、光さんの家族はどんな人なんですか?」
「超変人。世捨て人。人間嫌い」
「会うのが滅茶苦茶嫌になったんですけど」
ついつい漏らした弱音を吐き出した僕の唇に光さんは人差し指を当て、赤らんだ頬を緩める。
「駄目だぜ、ここまで来たんだからさ。潮、もう君はやるしかないんだよ。君の運命はもう決まったんだからさ」
演技臭いセリフを光さんは吐き出す。
けれど、僕はどうしてか光さんの言葉が演技のように聞こえなかった。
「そうですか……」
だから、僕は辛気臭い溜息を吐き出す。
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