effort

 美しき絵画は、僕の中に汚らわしい嫉妬心を生じさせる。

 挫折したときからずっと感じてきた劣等感は、美しさを歪めさせる。純粋に芸術を楽しむ素直な感性を捻じ曲げて、嫉妬という一枚の霧ガラスを重ね合わせたように、美しさはぼやける。

 汚らわしい。

 汚らわしくて、羨ましい。

 いつまでたっても言うことを聞いてくれない僕の手が、僕の脳が、僕の感性が恨めしい。どれだけ観察しても、どれだけ鑑賞しても、どれだけ描いても僕の手にはありのままの心象と風景を表す技術は戻らない。比較されることなく、のびのびと描いていたころの自由で気ままな表現技法が、再び僕の手に返されることは無い。

 現実は虚しい。その証拠に僕の手には、何も握られていない。何も、たった一つの輝きですら……。


「潮」


 悲観的に自分の掌をジッと見つめていた僕を、光さんは現実に戻す。

 頬杖を突きながら、柔和な笑みを浮かべる光さんの表情に僕の侘しい心持は癒される。ひょっとしなくても、僕なこの人のおかげで正気を保てているのかもしれない。 

 柔らかさに切りを付け、挫折したときからずっと僕のことを支え続けてきてくれた人は態勢をシャキッとさせる。そして、ビシッと人差し指を僕に差してくる。


「それじゃあ、本題と行こうか」


「本題? ここに来ることが今日の目的なんじゃないんですか?」


 身の覚えのない本題という言葉に、僕は首を傾げる。


「はあ、潮も私のことを分かってないみたいだね。私は基本的に打算的に動く人間だぜ」


「まあ、いや、そうですか?」


 光さんの饒舌な言葉に、僕は嘘を感じた。

 本当に光さんが打算的な人間だったら、僕をアトリエに置いておく理由が分からない。もちろん、いつもいつも光さんは僕のことを期待してくれていることは分かっている。けれど、僕にかけてくれている恩に対して仇でしか返していない。

 今もそしてこれからも僕は穀潰しであり続けるはずだ。

 だのに、光さんは反する言葉を紡ぐ。 


「そうそう、だからわざわざ君の夕食を奢ってあげてるんだよ。君はその対価として私の言うことを聞くっていうね契約の下ね」


「僕にできることなんですか?」


「むしろ君にしかできないことだよ。挫折しながらも、泥水をすすって這いつくばって、自分を表現しようと足掻いている君にしかできないことだ。意外と君みたいな人材は珍しいんだ。大抵の人間は、それこそ私みたいに自分の安心できる地位を求めて、それから自分のやりたいことを兼ね合わせてやることが多いんだよ。けど、君は人生を芸術に費やしているだろう? だから、私は君を私の傍に置いているし、君にちょっとしたことを頼もうとしているんだ」


 無価値な僕に光さんは、慰めの様な言葉をかけてくる。

 分不相応な賞賛に僕の頬は緩む。同時に光さんの恩を返せるような存在になりたいと願う。願うだけだ。


「なるほど、分かりました。それじゃあ、僕は何をすればいいんでしょうか? そこまで言われたなら、僕の出来る範囲内でやりますよ」


 そして、僕は決まりきった回答を光さんに返す。

 ここまで言われてやらないのは、人として違う。僕の様な一個人に出来ること範囲は決まりきっている。けれど、その範囲内で僕は光さんの願いを叶えよう。


「そうこなくちゃ!」


 ぱちんと指を鳴らして、あどけない笑みを光さんは浮かべる。

 そんな光さんの表情に僕のやる気は高まる。家族以外で尽くせる数少ない人の頼みを、僕は身を粉にして解決しよう。


「では、僕はいったい何をすればいいんでしょうか?」


 無為に過ごしてきた時間が活力に変化したのか、僕の平行線で投げやりだった心持は熱を帯びる。これに応じて不活性だった声帯も活性化し、明るい声色の言葉を紡げるようになった。悲しみだとか虚しさだとか、内面に向き続ける内向的で、非生産的な感情の一切は消え失せた。

 僕は今、未曽有の活力を得た。

 自然と体に力が入って、やってやろうという気になる。かつて絵と向かい合っていた時、感じていた高揚感に似ている。


「まあまあ、そんなに強張らなくていいよ。簡単なことだから」


「簡単なことですか?」


「そうそう、簡単なこと。ただ誰にもできるわけじゃない不思議なことだよ」


 なぞなぞクイズのように光さんは、頼みごとをはぐらかす。

 全体像のつかめないの正体が一体何なのか、さっぱり見当もつかない。


「それは人に関することさ。それは病気に関係すること。そして、世に名を轟かせる芸術家に関係することだよ」


「どういうことですか?」


「まっ、おふざけはそここにして、潮にしてほしいことを平たく言うと、私の家族の看病をしてほしいっていうことだよ」


 興奮を抑えた光さんは、一瞬猫のように目を細めて、なぞなぞの答えを発した。


「看病ですか?」


「そうそう看病。ただ、私の家族の一人はちょっといろいろと変わっていてね。普通の人じゃできないんだ。そこで君だよ。君の様な芸術家の卵がやってほしいんだよ」


 突飛な願いにだった上に、経験したことのないことだったけれど、どうしてか出来るような気がする。


「分かりました。引き受けましょう」


 僕は力強く頷いて、光さんの頼みごとを受ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る