purple
トモさんの絵の片付けと、光さんの雑務諸々が終わると空は薄っすらと赤らんで、夜のとばりが徐々に落ちていた。街灯がまだつかない高いビルに囲まれた道路には、僕と光さんの影が濃く伸びている。
普段は何も感じない春の夕暮れ時だけれど、どうしてか今は胸騒ぎがする。
嫌な予感とでも言えばいいのか? 何か、こう、すごく、漠然とした不安が不安定な僕の心を包み込む。
「どうした潮? どこか具合が悪いのか?」
「いいえ、ただ、少しだけ嫌な予感がするんです」
「私と出歩くことがか?」
不満に可愛らしく頬を膨らませて、光さんは僕の顔を覗き込んでくる。
近くで見ると可愛らしい顔立ちをしていることが良く分かる。そして、汚れの無い美徳を持ち合わせていることも……。
「違いますよ。僕としては光さんみたいな人と一緒に歩けて光栄ですよ」
「それはどういう意味で?」
口元に手を当てて、ニマニマと笑いながら光さんは問いかける。
分かり切った質問は、子供の些細ないたずらのようだ。光さんの浮かべる幼い笑みをさらに、チープないたずらを助長している。
「言いませんよ」
「なんだよなんだよ、つまらない奴だな。だから、苦節二十四年、君はただの一度も彼女が出来たことが無いんだぜ?」
「光さんに言われたくありませ……。いや、こんな不毛なやり取りは止めて早く行きましょう」
これ以上口車に乗せられて、余計なことを口しては堪ったものじゃない。
つまらない男かもしれないし、女心も微塵も分からない男と思われるかもしれないけど、僕は光さんとの会話をばっさり打ち切る。
「まっ、そうだね。時間は有限だからね」
自分で切り出した話をばっさりと切り捨てた光さんは、僕を置いて歩き出す。
自由気ままな人だ。少し傲慢だ。
けれど、それは許容される傲慢だ。そして光さんもまた自分のわがままの限度を知っている。だからこうして人を不快にさせないわがままを振舞うことが出来るんだ。世渡り上手って一括りにすれば、それまでの話だ。でも、この人はそれ以上に人を惹きつける才能があると思う。人を無理やりにでも動かす力があると思う。
「おーい、潮! おいていくよ!」
「今行きます」
魅力的な人の引力に僕は連れられ、光さんの濃い影を踏みながら駆ける。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
連れてこられたのは飲み屋街だった。
通りには仕事終わりのサラリーマンと学生で溢れており、人でごった返している。ざわめきと居酒屋から排出される料理の匂いが混じり合って、通りは夜の色を昼の色から奪いつつあった。
青ざめた黒の帳が空を纏う。
けれど、その原色は町の明かりによってかき消されている。見えるのはただ人工的な光によって汚された空だけだ。
人と人工物と自然とが混じり合ってそれぞれを調和の外に置いた光景は、見ているだけで疲れる。
「潮、こっちこっち」
眩暈を起こしかける力の抜けた僕の手を引っ張り、光さんは人ごみの中に入り飛び込んでゆく。僕は千鳥足になりながらも必死に光さんについて行く。
周囲の喧騒は、僕の中で湧き上がる拒絶感に阻まれる。
音は聞こえない。
スーツやパーカー、シャツ、衣服の極彩色がモザイクのように僕の視界を支配する。目に見える人は、人じゃなくて色の塊のように見える。パレットで混ぜた絵の具と同じような、そんな色の集合体のようにしか見えない。
視界も聴覚も感じなくなった僕は、人の波の中を縫うように、溺れるように歩く。明るくて傲慢な人に連れられながら。
「潮、大丈夫?」
ほとんど無意識化で歩き続けた僕の肩を揺らしながら、光さんは店の軒下で僕を覗き込む。
「ええ、問題ありません。人混みの中を久々に歩いて、ちょっと人に酔っただけです」
「日ごろから少しくらい外に出てた方が良いよ。人もインスピレーションになるからね。ルノワールの絵だってそうだろ? あの舞踏会の絵は躍動感のある人と光の具合、そして鮮やかな緑とが混じり合って美しい景色が表現されている。この絵を描くためにルノワールは、ダンスホールに足繫く通ってたらしいよ。だから家から出て、外にモチーフを取ってみるのも良いと思うよ」
「痛っ」
容赦なく背中をバシバシと叩いてくる光さんの手から逃れる。
「というかここはどこですか?」
二三歩、光さんから離れても僕は誰ともぶつかることは無かった。
あのごった返した通りを表通りとするならここは裏通りだ。人と通りもまばらで、雰囲気もこじんまりとしている。若者ではなく、大人の飲み屋っていう表現が良く似合うと思う。そんなところだ。
「行きつけの店だよ。あんまり混まないし、価格も安めでしっぽり飲めるいいところ」
親指で『紫』と書かれている看板を指して、光さんは笑う。
そして僕の背後に回って、背中を押してくる。
「だから、ほらほら、こんなところでまごついてないで、さっさと入る! 時間は有限なんだからさ」
「分かったから押さないでください!」
こうして僕と光さんは、少し騒ぎながら入店する。
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