immidentry

 昼休憩を終えて、再びアトリエに戻ってみると、トモさんは絵を描いていた。集中して、その小さな手で、キャンバスの中に精一杯の夜空と海を表現し続けていた。僕にトモさんの集中を汚す権利などあるわけがなく、僕はアトリエの中を出来るだけ靴音を立てないように歩き回った。

 そして、結局また窓辺に落ち着いた。

 ただ、暇だ。

 今、トモさんに話しかける雰囲気では無い。少なくともトモさんの集中力が切れるまで、トモさんに話しかけない方が良い。

 僕は音を立たず、木造の丸椅子と事務所においておいたリュックの中からスケッチブックをもってきて、窓辺に腰を掛ける。

 窓から見える電柱には、一匹のカラスが止まってる。

 普通の町の光景だ。僕はそんな光景をスケッチブックに描く。

 言ってしまえば暇つぶしだ。言うこともほとんどない優秀な生徒さんのために生まれた時間を費やすための行為だ。

 そんな時間を潰す行為が、自信の持てない絵を描くことだなんて言うのだから、僕は絵が好きなんだろうと思う。

 自分に呆れながら筆箱から鉛筆を出して、僕は風景を切り取り始める。


 カラスのスケッチを終え、スケッチブックと鉛筆とを床において息を吐き出す。

 趣味の時間はあっという間に過ぎてゆく。

 それこそ、やっている張本人の意識から外れて、身勝手にも時間は流れてゆく。ほんの気ままにやりだしたことに、暇を潰すだけの行為だったはずなのに、僕の意識は外の余計な要素を徹底的に排除して、僕をたった一つの絵という世界に閉じ込めた。

 束縛とも自由とも思われる意識の拘束から身を解かれた今、もう鮮やかで淡い青に染まっていた青空は無かった。いつの間にか空には、淡い白がかった橙色が足されていた。


「潮ちゃん。今日はやけに集中してたねえ」


 椅子に座って時間を一枚の絵に費やし、職務放棄をした僕にトモさんは感心する声色の声を発しながら、僕の右肩に手を置く。

 小さくて、軽くて、少し冷たいトモさんの手は、今の僕にとってどんな枷よりも重く感じる。そんな肩に乗った小さな手をそっと掴んで肩から離して、僕はトモさんと向かい合う。


「すいません。自分のことに集中して、仕事を放棄して……」


 表情全体に優しさをちりばめたトモさんの表情を前にして、僕は頭を下げる。

 自分の不手際にだけは、正直になれるらしい。


「良いのよ。どうせ、今日は私一人なんでしょう? 生徒さんが一杯居る時はだめかもしれないけれど、私一人なら全然構わないわ。むしろ、そうやって集中してくれている方が絵が描けるの」


「どうしてですか?」


 よく分からないモチベーションを持つトモさんを見上げる。

 背中はあんなに小さいのに、僕を想って見つめてくれるトモさんは巨人のように見える。けれど、それはギガンテスの様な暴力的な巨人ではない。プロメテウスの様な知性と倫理を兼ね備えた聖人が如き巨人だ。

 だから、きっと僕もこうしてトモさんの言葉に疑問を返せるんだと思う。


「潮ちゃんみたいな芸術家の卵が必死に鉛筆を走らせている姿を見ると、どうしても自分もやらなきゃって思うのよ」


 トモさんは右頬に手を当てながら、微笑みながら思い付きの声を漏らした。


「僕が?」


「そうよ」


「そうですか……」


 身の丈に合わない役割を僕に抱くトモさんに、僕は重圧を感じる。

 僕はそんな高尚な人間なんかじゃない。

 僕は自分の夢に向かって動きながらも、ほとんどそれを諦めかけた人間でしかないんだ。


「安心して、潮ちゃんはその内、花開くわよ。だから光ちゃんも貴方のことをここに置いてくれているんでしょう。だから、今は忍耐強く、諦めずに絵を描き続けて見て」


「分かりました」


「分かってくれたならそれで良いわよ。それじゃあ、今日はお疲れ様」


「はい。お疲れさまでした」


 弱々しい僕に呪いの言葉をかけたトモさんは、一礼してアトリエから去って行く。

 今度のトモさんの後ろ姿は、小さく見える。

 プロメテウスは、もうそこにいなかった。

 トモさんの靴音がアトリエから消える。

 時間をむさぼった僕にも、仕事がやってくる。今日一日、何にもしなかった僕の唯一の仕事だ。けれど、その唯一の仕事ですら楽に終わる。

 働くって、報酬を貰うっていうのはこんな簡単なことじゃいけない……。

 ただ、自分の現状に俯いて、油を売っている場合じゃない。僕にできる仕事を早いことを終わらせて、自分の絵を描かないと。


「あっ」


 貧血のせいなのか、椅子から立ち上がるや否や再び僕の腰は椅子に着く。頭がぼうっとして、視界は黒い靄に埋まる。


「はあ……」


 数秒して僕の頭は改善される。

 疲労のため息が消えると同時に、僕は再び立ち上がってトモさんがそれまで描いていたキャンバスに向かう。

 あの月と星は改善されたんだろうか……。


「やっぱり、あの人に僕の指導はいらない」


 トモさんの絵は僕が見た時よりも、ずっと良くなっている。月と星は幻想的でありながらも、実在的に描かれている。

 もちろん素人の絵という観点だ。いや、僕も素人だからこうやって批評するのは、場違いこの上なく、おこがましいことだ。けれど、一応僕も美大を出てる一人間だ。だから僕にも、プロもどきの資格はあると思う。そうした立場から言わせてもらうと、まだまだ月夜の描写は美しくできる。

 でも、趣味でやっている油絵の風景画という点で評価してみれば十分すぎる出来た。ほとんどプロに近似している作品だ。

 僕の作品よりも……。


「おっ! トモさん帰ったんだね」


 自分のアトリエから久々に顔を出した、光さんは腰に手を当てながら僕を見る。

 光さんの元気な声色に僕の落ち込みかけた心は救われる。


「ええ、今さっき帰って、僕は今から片付けをしようと思っていたところです」


「そっかそっか、なら片づけをしながら聞いてほしいことがあるんだけど」


 光さんの言葉を耳に入れながら、トモさんが座っていた椅子を定位置にまで運ぶ。  

 ちらりと目を横に配ると、光さんはトモさんの描いた絵を前かがみになって興味深そうに見つめている。


「今日の夜ちょっと私に付き合ってよ」


「どういう用件で?」


 トモさんの使った油絵具と画溶液をトモさんの棚に置く。


「ちょっと家族のことで相談があってね」


「僕にですか?」


「うん、君にしか相談できないことだからね」


 果たしてこんな人間に相談することがあるのだろうかと、僕は内心首を傾げる。

 ただ、僕を助け続けてくれる恩人の頼み事は断れない。


「ええ、分かりました」


「本当か!? そうか、ありがとう。それじゃあ、潮、片付け終わったら教えてくれ。きっと、君が片付け終えるころには私も諸々の書類を片付け終えると思うからさ」


 ひとしきりトモさんの絵を見終えた光さんは、突飛に声を上げ、僕にある程度の予定を告げると自身のアトリエに慌ただしく戻っていった。

 僕も出来るだけ片付けが早く終わるように、手際を意識し始める。

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