grandmother

 六十五歳以上を対象としたシルバーコースを受講してくれている生徒さんは、たった一人だ。おかげで、普段は人が多くて狭く感じるアトリエも広々と感じられる。それに雑然とした音もなく、心地よく絵が描ける環境になっている。あるのは油絵の具の香り、シュシュっと筆を動かす音、吹き込む春風が送り届けてくれる草の匂いと日差しだけだ。

 窓辺に背を向けて、青空に浮かぶ真っ白な太陽から放射される朝日を受ける。

 こうして何も考えずに生きていたい。

 ただ、僕にも仕事がある。たった一人の生徒さん、こんな僕を慰み程度でも評価してくれる数少ない人のための仕事が。

 風景画を描く小さな背中のおばあさん、優しいトモさんの後ろに立って、僕は覗き込むようにキャンバスの海を見る。

 闇夜の中で静寂に波打つ深い青を誇る海は見事に描かれている。けど、月と星の輝きは少し不格好だ。月が本来持つぼんやりとしているはずの輪郭がはっきりと描かれすぎているし、星の輝きは黄色くぼかし過ぎて描いた星を星として認識することが難しい。

 一人の感性に押し付けた批評をしていると、銀縁の丸眼鏡をかけたトモさんは振り返り、僕の手を握ってきた。 


「潮ちゃん。ご飯食べてるの? この間よりも痩せて見えるんだけど」


「食べてますよ、トモさん」


 青い絵の具に汚れた皴だらけでトモさんの少し冷たい小さな手は、僕の痩せた手を摩る。

 長らく会ってないおばあちゃんを僕は、赤の他人……、いや、それなりに交流のある人の中に見る。

 あれだけ僕のこと褒めてくれた優しい祖母の期待を裏切ってしまっていることも。明らかにしたく無いことも、この人の優しい言葉は明らかにしてしまう。


「本当に?」


「本当ですよ」


 そして僕は優しいトモさんに、嘘を吐く。

 正直言ってあまりにも小さな嘘だ。意味をなさないちっぽけな嘘だ。けれど、僕はこの嘘でトモさんの心配を無碍にしてしまった。それが僕は許せない。


「そう……、それなら良いんだけどねえ。今度お弁当作ってきてあげようか?」


 嘘を吐く僕にトモさんは微笑みながら優しさを向ける。

 暖かくて、美しい優しさが僕を包み込む。

 けれど、僕にとってその優しさは毒となる。僕はとっくの昔に言葉に込められた思いを理解し得ながらも、吸収できない人間になっていたんだから。


「いいえ、大丈夫です。僕は、ほら、この通りぴんぴんしてますよ」


 傲慢な人間は、張りぼての元気を見せてまで嘘を吐き続けてたいらしい。

 俯瞰的に見れば僕の存在なんてピエロも同然だ。力こぶが作れるはずのない腕を袖を捲ってまで見せつけて、馬鹿々々しい動作をしているのだから。これ以上ない道化師だと思う。

 ただトモさんは、僕の痛々しい演技も受け入れてくれる。トモさんの表情はより柔和に、より安らかになる。


「そうねえ。けど、やっぱり痩せてるよ。でも、潮ちゃんが大丈夫っていうならそれが答えなんでしょうねえ」


「……そうですね」


 トモさんは自分のありのままを見せて、自分なりの感情を僕に見せる。何も恐れる必要は無いんだと、自分を自分の言葉で表現しても良いんだと。

 トモさんの伝えてたい意味の端々を理解しているのに、僕は臆病で、体を動かせない。たった一回、自信を打ち砕かれただけで臆病風に晒されて、すっかり震えてしまった弱い僕の体は僕の言うことを聞いてくれなかった。


「あっ、いきなりごめんなさいね。一人暮らしになっちゃってから人におせっかいをかけるのが、趣味になっちゃったみたいでねえ……。あの人が生きている頃は、こんなおせっかい焼の年寄りじゃなかったんだけどねえ」


 僕の手から小さな手を離すと、顎先に手を当てて困り顔でトモさんは小さく自嘲した。


「いいえ、その、僕がこんなことを言うのもどうかと思いますが、トモさんのおせっかいで助けられている人は結構いると思いますよ」


「そう言ってくれると助かるわ。ありがとう、潮ちゃん」


 パッと顔を明るくさせて、トモさんは顔の横で手を合わせながら僕に礼を言う。

 立場が逆だ。

 本来、助けを差し伸べてくれたトモさんに僕が感謝すべきなんだ。けれど、どうして僕はそれが出来ない。


「潮! そろっとお昼になるから休憩して良いわよ!」


 アトリエに隣接する事務所兼光さんのアトリエから響き渡る春の麗らかさを台無しにする声は、僕にお昼休憩と一瞬の動悸を告げる。

 トモさんもいきなり発せられた大声に、目を丸くして驚いている。


「というわけなんですが、どうしますか?」


「ふふ、まだ私はここで描いているから潮ちゃんはお昼休憩を取ってもらって良いわよ」


 丸眼鏡の奥で丸くなった目を細めて笑いながら、トモさんは再びキャンバス向かう。トモさんは筆に黄色の絵の具を取る。自分でも夜空の描写が上手くできてないと分かっているらしい。

 果たして僕はトモさんに、何か教えることがあるんだろうか? 

 いや、教えられることを見つけるのも僕の仕事なんだろう。僕が得意としながら打ち砕かれた風景画なんだから。

 

「それじゃあ、お先に失礼します」


 僕は午後に向けて意気込みながらトモさんに一礼する。


「ご飯食べるのよ」


「ええ、食べます」


 そして小さな背中から発せられた優しい言葉に嘘を吐く。

 

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