shine

 砂壁と畳、カビの匂いと埃が満ちる倦怠の穴倉から這い出た僕は急ぎ足で職場に向かった。中春の風は陽が出ていても、肌寒かった。通り過ぎる自動車からの風と、自然の風とは組み合わさって、吹けば飛ばされそうだと形容される僕の痩せた体を冷たく晒した。

 麗らかな陽気と春風との合間を縫って、僕は僕の職場にたどり着いた。と言っても、僕は正規雇用の先生ではなくて、アルバイトに過ぎないし、そのアルバイトという自覚すらも僕は危うい。

 立場的にこの古ぼけた四階建てのビルを職場と言って良いのか、僕には分からない。縁故に頼った労働っていうのは、責任を持ち難いのかもしれない。それ以上に、これが果たしてこれが労働と言えるのかも危うい。

 いつもこのビルの前に立つと、自分の立場を疑問視してしまう。無駄なことだと分かっている。そして自分がこの無駄な思考から解放されるためには、独り立ちしなければいけないことも。


「お! 元気にしてるか少年」


 絵の具で汚れた布エプロンを身に纏った雇用主は、長い黒髪を春風になびかせながら颯爽と現れた。元気の良すぎる女性に、僕の無駄な考えは消え失せる。


「おはようございます。ひかりさん」


「元気じゃなさそうだね。そんな爺臭い調子だと、まだ若いのに禿げるぞ」


 髪をかき上げながら光さんは、こっちが年々心配してきてるデリケートな問題につっこできた。最近、大学生のころよりも抜け毛が酷いし、白髪も増えてきてる。直近できた心労の一つだ。

 少し薄くなったような気もする髪を手ですく。はらりと髪の毛が手から抜け落ちて、風に流されてどこかに飛んでいった。不健康極まりない艶の無い黒髪がまた数本、僕の頭皮から去っていった。

 頭皮から逃避……。


「君は大学の時から一人で笑う癖があるけど、それは正した方が良いぞ。長年の付き合いの私から見ても、その仕草は気味が悪いからな」


「言われなくても分かってますよ」


「そうやって反論できるなら元気はあるようだね。それじゃあ、早速準備に取り掛かってくれたまえよ」


 誘導されて破れかぶれの元気を光さんから受け取る。


「分かりました。今日は確かシルバーコースでしたよね」


「そうそう、仕事も覚えてきたね」


「二年もやってれば嫌でも覚えますよ」


 今よりもずっと生活の質が酷かった二年前から考えてみると、今の生活はずっと良い。けれど、二年前の方が堕落していなかった。少なくとも、過去の僕は自分の画家という夢に向かって必死に手を伸ばしていた。

 今はもうほとんど握ってない筆も、昔は確かに握りしめていた。溢れ出る創作の血を絵の具に絵の具に込めて、キャンバスに向き合っていた。それに趣味として始めたイラスト投稿も必死にやっていた。

 でも、全ては過去になってしまった。

 僕の手には、今、何が握られているんだろう?


「そうか、もう二年も経つんだね。絵の方の調子はどうだい?」


「悪化の一途をたどってますよ。何のやる気も出ません。もうこのまま、この絵画教室に就職したいですよ」


「自分に吐く嘘の中には、良い噓と駄目な嘘がある。今の君の言葉は、駄目な嘘だ。君はまだ自分の夢を意地汚く持ち続けている。それを持ってないっていうのは嘘だろ?」


 思ってもない嘘の吐露に、光さんは喝をびしっと入れてくれた。

 僕の心は動かない。

 厄介な自分の性根に嫌気が差す。ただ自己嫌悪をしたところで、僕の求心力が戻ってくるわけじゃない。


「そう、ですね……」


「だから少年。足掻き続けて見給えよ。少なくとも君が夢に向かってあがき続けている間は、私は君を応援してあげるからさ」


 力強く胸を光さんは叩く。

 この人は人が出来すぎてる。

 大学生のころからずっとそうだった。光さんは、名前に負けず劣らず輝いている人だ。今も井の中の蛙で世界の広さに絶望した僕を救ってくれている。僕に手を伸ばし続けてくれている。


「ありがとうございます」


 だから僕も光さんの細い手を握って、半場諦めかけた夢を見る。


「感謝されるほどのことじゃないよ。私だって好きでやっているんだからさ。それに、私は君に期待してるんだぜ。君の風景画は一級品だからね。ただ、魂が籠ってない」


「分かってますよ。分かってます、けど、出来ないんです。必死にやってみても駄目なんです」


 夢の道筋は見えている。そこを辿れば、芸術家として、表現者として自分で自分を確立できるということは分かっている。

 けれど僕の足は、道筋を辿れない。

 道を歩む意味すら見失った痩せ衰えた僕にとって、延々と続く道を歩むことは無意味に思えて仕方がない。自尊心の傷が膿んで、満足に足を動かせなくなった僕に理由の見つからない道は辛いだけなんだ。

 逃げたい。でも、逃げ出したら僕の手には何も残らない。小さなころから夢見て、必死に足掻いてきた経験がすべて無駄になる。

 今まで積み上げてきた経験をすべて捨てられるほど、僕は強い人間じゃない。だから、今も過去を引きずって夢を見ているのかもしれない。そして、それは、他人に押し付けられたものなのかもしれない……。


「まあ、簡単には見つからないさ。それがきっと私たち絵描き、芸術家にとって一番難しいことだからね」


「光さんもそうだったんですか?」


「うん、そうだよ。というか今もまだ探している途中だしね」


 エプロンから光さんは笑いながら、黒い髪留めゴムを取り出して、なびく黒髪を後ろで結んだ。


「だから、まだ急ぐ必要はないよ。私みたいに突発的に動いて物事を成す人なんて珍しいし、君たちと同年代で芸術家として大成する人間なんて極々一握りなんだから、焦る必要はないよ。今は夢を諦めずに挑戦することが大切だよ」


 光さんは腰に手を当て、スレンダーな体を僕に向けてくる。

 人生を俯瞰して、たっぷり楽しんでいる人の言動に、ついつい笑みが零れてしまう。光さんと話していると、不思議と心が軽くなる。希望の温もりを感じられる。


「とにかく、今日という一日を刺激的に過ごしてみよう。いつも言っているけど、退屈こそが一番の敵だ。だから、今日一日頑張っていこう!」


 光さんはハリの良い声を上げると、空に向かって腕を突き上げた。


「ええ、頑張ります」


「ちぇ、そこは私に合わせてようしお


「はいはい」


 年甲斐もなくむくれる光さんを横に、僕はガラスの押戸を開ける。

 からんからんと鈴が鳴って、コンクールの広告のポスターが壁一面に貼り付けられた薄暗い奇妙なフロントに音が響く。


「あっ! そうだった。今日、仕事が終わってもすぐ帰らないで。ちょっとお願いしたいことがあるからさ」


 階段に足をかけた直後、光さんの突発的な言葉が耳に入る。

 ただ僕にとって、光さんの声よりも、階段脇に貼られた美しい女性が、湖畔に佇む情景が描かれた一枚の美術コンクールの広告ポスターに目を奪われる。

 才能っていうのは、表現っていうのは、きっとこういう絵なんだ。

 嫉妬に近い感情をポスターに覚える。

 僕が足掻いても、足掻いても手に入れられない芸術は輝いている。その輝きが鬱陶しい。


「ちょっと! 潮!」


「分かりました」


 自分の力量と現実とを前にして、僕は光さんの言葉に生ぬるい返事を返す。

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