第54話 幸奈と一緒だと心臓がいくつあっても足りないな。

「はい、次は冬馬さんですよね?」

「あ、曲入れるの忘れてた……ん?」


 慌ててパッドを持ち、次は何を歌おうかと考えていると、偶然レジ袋の中身が目に入った。さっき幸奈は予備だとか何とか言っていたが、具体的には何が入っているのだろうか?


 軽く覗き込むと、お菓子や贈り物の類ではなかった。それは黄色くて安っぽい四角柱の箱で、その表面には「サランラップ」とでかでかと書いてあった。


「なあ幸奈、何でラップなんか持ってきてるんだ?」

「ラップ……? ああ、中身見ちゃったんですね、じゃあその話しましょうか」


 雰囲気もうちょっと作りたかったんだけどなあ。と言いながら、幸奈は俺の隣に座る。さらりとした金髪が俺の肩にかかり、柑橘系のさわやかな香りが鼻を掠めた。


「私、冬馬さんにはすごく感謝してるんですよ。お兄ちゃんの事でもそうですし、今日もちゃんと来てくれましたし」

「そ、そうか」


 幸奈はじっと俺を見つめてくる。少し気まずくて、目を逸らしたくなるが、そこは堪えて彼女を正面から見返す。なんか目を逸らした瞬間に、頭から捕食されそうな気がしたのだ。


「だから、お礼もかねて……」

「ちょっと待て!」


 幸奈がそのまま顔を寄せてきたので、肩を掴んで引き離した。


「そういうのは……付き合ってからだろ」

「えー、いいじゃないですか。冬馬さんは付き合ってる人いないんですよね?」


 いや、まあ、そうなんだが……間接キスとはわけが違う。こういうのは手順を踏んでだな。


「それに好きな人は居たけど玉砕したって言ったじゃないですか、誰に義理を立てる必要もないんですよ?」

「振られてすぐに別の女子と、こういうことするのも違うだろ! 幸奈、もうちょっと順序だててだな……」

「仕方ないですね、予備に持ってきておいて良かったです」


 俺がそう言うと、幸奈は溜息をついてサランラップを取り出す。え、この話の流れでラップを取り出す必要が何処に……?


 幸奈は箱の封を開けると、ラップを伸ばして衝立のようにして、俺との間に掲げた。皴の入ったビニール越しに、幸奈が笑う。


「冬馬さん。ラップキスって知ってます?」

「なんだそれ」


 唐突に訳の分からない単語を出されて俺は困惑する。ラップキス……?


「言葉のまんまですよ。ラップ越しにキスするんです。直接触れてないから間接キスよりも手軽だと思いますけど」

「いや、でも感触はあるだろ」


 どう聞いても、手軽には聞こえない。というかむしろ背徳感で言えば、普通のキスよりもハードルが高いように感じる。


「でも唾液も付きませんし、直接触れてもいませんよ? ですので大丈夫です」


 そう言って、幸奈は顔を寄せてくる。俺は強く抵抗するわけにもいかず追い詰められていく。


「っ……」

「ふふっ、安心してください。私がやりたいだけなんですから」


 強張っている俺の顔を見たからか、幸奈がそんな事を言い始めた。


「大丈夫、冬馬さんは何も悪くないです。キスもしていないし、一緒にカラオケをしただけ……ほら、深呼吸してください。目を閉じてもいいですよ」


 息を吸って、吐き出す。幸奈の香水がまた鼻を掠めて、心臓が高鳴る。あまりの緊張に、目を開けていられない。静かに目を閉じると、幸奈が俺に身体を預けたのを感じる。


 そして、ふんわりとラップが唇に触れて、それ越しに彼女の吐息を感じた。


「気を付けてくださいね、ラップが私達の間にあるとはいえ、破けやすいですから……例えば歯とかが当たって、破れちゃうこともありますよ」

「え――っ!?」


 言葉に反応して目と口を開いた瞬間、幸奈の唇がラップ越しに押し付けられる。半開きの形で固定された唇に彼女の感触が伝わってくる。


 熱く、柔らかく、湿っている。


 ラップが破けていないか不安になるが、今は破けていないことを信じるしかない。俺は口を閉じられないまま、幸奈の感触に翻弄されていた。


「んぁ、ちゅ……っ、ぷぁ」


 わざと水音を立てるように、幸奈は俺の唇を舐める。ラップ越しだという事を強く意識していないと、本当にキスしているような錯覚に陥りそうだった。


 ラップで期間を塞がれた苦しさもあるだろうが、脳が痺れるような感覚がずっと続いている。


「はむっ、ちゅぱっ……っ……」


 これ以上は息が続かない。そうなる直前に、幸奈の唇とラップは離れた。ぼやけた視線の先では、穴の空いていないサランラップが幸奈の唇と唾液の端を作っている。


「ふふっ、どうです? 友達の間で流行ってるんですよ」

「っ……こんなもの、流行るなよ」


 動悸が収まらない。頭がふわふわするのは、どうも酸欠のせいだけではないらしい。


「あははっ、冬馬さんのそんな顔初めて見ました。ごちそうさまです!」

「っ……はぁ、誰にでもやるなよ、こんな事」


 幸奈は俺が言うまでもなくかなりの美人だ。手軽にこんなことをやられては、勘違いして玉砕する男子が続出するだろう。


「安心してくださーい。冬馬さんにしかやらないんで」

「っ!?」


 いたずらっぽく笑う幸奈を見て、俺は苦笑いを返すしかできなかった。

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