第46話 恥ずかしい勘違いだった。

 千桂は少し手間取りつつも、しっかりと問題を解いていく。丁寧に一行ずつ解いていて、もどかしくもあるが最後の問題だという事で、丁寧に解いているのだろう。


「……」


 ふと彼女の真剣な表情が目に入る。


 意外と長い睫毛に、薄く化粧をした頬とグロスの乗った唇。


 唾を飲み込む。


 今日は俺たちの他に誰もいないと言っていた。卑劣な打算だけど、そういう前提で俺を呼んでいるのなら、色々な意味で大丈夫という事ではないのか。冷静になりかけた頭が、また熱を帯びてくるのを感じる。


 例えば、抱き付くのはダメでも、肩に触るくらいなら大丈夫だろうか?


 千桂の気持ちは確かめていない。だが、このボディタッチが、ある程度の試金石になるんじゃないか? 俺はそう思った。


 普通に、あまり不自然にならないようにタイミングを見計らい、さりげなく体を寄せて、彼女が問題を解き終わるのを待つ。


「ふぅ……」

「お疲れ、よくがんばっ――」

「きゃあっ!!!」


 肩に手が触れた瞬間、すごい勢いで手を払われた。


「あ、ご、ごめんね……」


 千桂は自分の身体を抱いて、俺から距離を取る。その表情は強張っていた。


 えっと、これは……もしかすると――


 一瞬で頭が醒める。もしかして、今まで挙動不審だったのは、誰もいない家で俺と二人きりになったっていう不安から、ということか?


 自分の軽率な行動が最悪な勘違いを表出させてしまった。


「――悪い、とりあえず。課題は終わりだな、じゃあ、帰るわ」


 頭から血がすべてなくなったかのように感じる。息が苦しい。


「あ、ま、待って!」

「……」


 もう、何を言われても反応は返せなかった。恥ずかしくて惨めだ。家を出るとき、犬が俺を追い立てるように吠えていた



――



 胸の鼓動が早い。


 目の前の問題なんて、全然分からなかった。


 それでもなんとか手を動かす。冬馬にわたしの緊張が伝わらないように。


 お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもいないタイミングを選んだのはわたしだし、もしもの時の覚悟もしてある。


 あとはわたしが勇気を出して、言うだけ。ただ、それだけなんだけど、胸が苦しくて、声になるかどうかも分からない。


 問題を解き終わったらどうなるんだろう。覚悟はしたつもりだけど、それでもちょっとだけ怖かった。


 きっと冬馬は「がんばったな」って褒めてくれて、そしたら、わたしは冬馬に「君のおかげだよ」っていって……


 甘い想像をしながら、計算式の一番最後を書ききる。


「ふぅ……」

「お疲れ、よくがんばっ――」

「きゃあっ!!!」


 急に肩に手を置かれて、反射的に身構えてしまった。


「あ、ご、ごめんね……」


 そんなつもりはない。だけど、突然のことで身体が反応してしまう。


 冬馬の顔を見ると、起きたことが理解できていない顔から、見る見るうちに悲しげな顔に変わっていくのを感じる。


 ちがう、そうじゃない。わたしは嫌じゃない。誤解を解こうと焦るほどに、身体は強張って、何もできなくなる。


「――悪い、とりあえず。課題は終わりだな、じゃあ、帰るわ」

「あ、ま、待って!」


 彼の表情は悲しげで、わたしは反射的に何かを言おうとした。だけど、身体が動かない。


「……」


 だけど、冬馬はそのまま部屋を出て行ってしまう。


 ハナコが何度も吠えて冬馬を引き留めようとしているけれど、彼はそのまま帰ってしまった。

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