第3話 二人の男の過去



「いや~、やっと着いたな」


 アレックスが町の地に足を踏み入れてまず伸びをする。


 ここはトゥールの町。

 カモメがそこかしこに飛び交っている港町で、問題のロンベル王国がある大陸へ渡る船が出ている。

 トゥールもカモメ以外だとそこまで大きな特徴やシンボルは無い。

 まあ、ごく普通の港町だ。


「ん~。久々に来たけど、やっぱり潮の香りが良いねぇ」


 ルピアは懐かしむように、胸いっぱいに町の潮の香りを吸い込む。


「さて、と。フォード大陸行きの便はまだあるかい?」

「じゃあ、あっちで訊いてくるよ」


 アレックスが右に見えた青い屋根の木造の家へ行った。

 屋根のすぐ下に【乗船 受付】と看板に書いている。

 だが十分後、少し残念そうな顔をしたアレックスが戻って来た。


「どうでしたか?」

「駄目だ。どうやらもう今日は出てねぇみたいだ」

「そっか……。次はいつになるんだい?」


 ルピアが訊くと、


「明日の昼だってよ」

「明日の昼、ですか?」


 レナが復唱すると、アレックスが頷く。


「仕方がない。今日はここで休んで明日に備えよう」

「そうだね。んじゃあアレックス、もう日が暮れるし、夕食がてら飲まない?」


 ルピアが少しわくわく気分で誘うが、


「あ、悪い。今回だけは遠慮させてくれないか」


 アレックスが少し青い顔をして珍しく断った。いつもなら快く賛成するのだが。


「ん? どうしたんだい?」

「ああ。悪いが俺、あんまり海を見て飲むのはちょっとな……」


 穏やかな波の音と茜色に染まった海と対照的に表情が灰色に曇っているアレックス。

 それを見たルピアがハッとして少し申し訳ない顔をして、


「ああ、そっか。ゴメン」


 と両手を重ねて謝る。


「良いよ。俺は先に宿に行ってるな」


 アレックスは苦笑して、三人に手を振って宿へ行ってしまった。

 微かにシャラ、と音を立てて。

 その背中は何処となく哀愁が漂っている。


「そっか、アレックス……」

「まだ完全には癒えていないのだろうな」

「あの人の――ことですね」


 そう。一昨日話していたことだが、アレックスは海が苦手なのだ。

 決してカナヅチではない。前にも書いたが。

 海がトラウマになったのには訳があるのだ。

 勿論レナ達三人も、アレックス自身から聴いていて知っている。

 あれは何度も語るには、心が辛くなる話だ。



 今から五年前――レナ達と出会う四年前でもある。

 アレックスには、リンダと言う奥さんがいた。

 見た目は、髪と瞳の色以外はルピアそのものだった。

 髪は栗色、瞳は藍色。

 性格は大人しいが、芯がとても強い人だった。

 そういうところはレナとフィリアが混ざったような感じだ。

 年は生きていればフィリアと同い年の二十五歳だ。


 リンダ――リンダ・アルベインは、六年前一人旅をしていた時、野盗に襲われかけたところを、同じくその時から一人旅をしているアレックスに助けてもらって以来、一緒になった。

 実はこの時はアレックスは精霊とは誰も仲間になっていなかった。

 彼は当時は旅に出て半年ほどだ。精霊使いと言われても殆どが「信じられない」と言うだろう。

 二人は出会ったその時から互いに惹かれて、一緒に旅をして行く内に、気が合い恋人となり、そして結婚したのだ。

 それからの一年は様々な所を旅してまわり、ついでにアレックスは火の精霊サラを仲間に出来た。

 彼らは時には慈しみ、時には喧嘩しながらも愛を深めていった。


 だが、ここでは語るにはあまりにも残酷な悲劇が幸せ絶頂の二人を襲った。



 その時、二人は船旅の真っ最中だった。


「リンダ」

「あ、有難う」


 二人はアイスコーヒーを飲んでゆったりと過ごしていた。

 波も穏やかで、風もそよそよと髪や帆をなびかせている。

 同乗していた乗客も思い思いに過ごしている。船長、船員は少し慌ただしかったが。

 それでも船全体が陽気に包まれていた。

 これから起きる事によって、その命運が大きく分けられることなど露にも思っていなかった。


 夜更け――夫婦は軽く一杯飲んで、さあ寝床につこうとした時。

 ドォン!!


「!」


 アレックスから見て左側から轟音が響いて、船が左に傾いて、また水平に戻る。


「な、何、今の音!?」


 リンダが目を見開いてキョロキョロと辺りを見渡す。

 雷?! いや、光っていなかった。

 爆弾?! 違う。煙も昇っていないし、火も上がっていない。

 ならば……。

 ドォン!


「うお。まただ」

「! アレックス、外!」


 リンダがまだ空が白んでいない窓を指差す。

 アレックスがよろよろと窓を見ると、そこには青みがかった灰色の細長い触手が二本ほどうようよと蠢いている。


「ま、まさか……」

「アレかもしれないわ……」

「兎に角行って確かめようぜ」

「ええ」


 嫌な予感を胸に外へ出ようとすると、また船がグラグラと左右に激しく揺れる。

 夫婦は轟音と振動に耐えながらも荷物をまとめて部屋を出る。

 出た途端、バシャア、と海水が船に容赦なく入り込んでくる。

 勿論水浸しは避けられない。

 他の乗客は阿鼻叫喚の嵐でパニックになっている。

 

「あっちだ!」

「船尾の方だ!!」


 青と白の制服を着た船員たちが慌てて船尾へと向かって行く。

 二人もなんとか揺れに耐えつつ船員の後をついて行く。

 ワー! ワー!と悲鳴に近い叫び声が段々大きくなっていく。

 海水でずぶ濡れになりながらも辿り着いた二人が見たものは……。


「やっぱりな……」

「アレね」

『クラーケン!』


 夫婦は口を揃えて件の生き物――クラーケンを指さす。


 クラーケン――それは海を支配している魔物の内の一体だ。

 姿は巨大なイカで、全長はおよそ三十メートルはあると言われている。

 その内、海面に出ているのはほんの五メートルほどだ。

 月も無い濃紺の闇の中で、異様な存在感を放っている。

 ある特定の海域を自身の領域としており、そこに侵入した他の海の生物や船を容赦なく襲う。

 それも突然だ。まあ、いきなり自分の領域にしている所に入られては気に入らないと思う人も少なくは無いだろう。

 クラーケンが現れる時には前兆がある。それは、船の周りに泡が立ち、海水がまるでペンキをぶちまけたかの様に黒く濁ることだ。

 今は深更だから、泡はともかく海水の色は殆ど変わらない。

 奴は丁度アレックス達が今いる所を、自身の領域としているのだ。

 コイツによって沈められた船は少なくない。勿論人も。

 運が悪い。まるで山道を歩いていたらスズメバチに出くわしてしまったように。

 

 船員達は恐怖に耐えながら、モリやナイフや剣や銃で必死に戦っている。

 だが、クラーケンは切られても、銃弾を浴びても刺されても不死身の如く平然としている。

 クラーケンも反撃とばかりにバタン、バタンと触手を叩きつけて樽や手すりを壊していき、挙句には自分に牙を剥けている船員までもバチィンと弾いて海へ落としてゆく。


「酷い、許せないわ!」

「ああ。俺らも加勢しようぜ」


 リンダはボーガンに矢を装填し、アレックスもバトルアックスを構える。


「大丈夫ですか? 私達も一緒に戦います!」


 リンダの澄んだ声色で頼もしい言葉が出て来て、ひげをたくわえた小太りな船長を始め、船員も歓喜の声をあげる。

「戦乙女が降臨した!」と。

 こういう勇ましく前線に立つところは本当にレナと似ている。

 レナみたいに剣を持っていたら、そのものなのは間違いなしだ。


 リンダはボーガンのトリガーを強く握る。


「頼むぜ、火の精霊サラ!」

「OKでやんす!」


 アレックスは炎の精霊サラを呼び出し、斧に炎の力を宿す。

 サラは、まるでディスクジョッキーのような服装と赤いアフロヘアの男の姿の精霊だ。

 瞳は赤と黒のオッドアイで、まるで闇を照らす炎を思わせる。

 楽観的で、ノリノリな事が好きな見た目ピッタリの性格だ。

 但し、語尾に「でやんす」が付くところが、ちょっと田舎を思わせる部分があって可愛らしい一面がある。

 当時のアレックスは、前述の通りまだサラしか仲間にしていなかったのだ。


「よーし。お前を焼きいかにしてやるぜ!」

「私も。その触手を黙らせてやるわ!」

『このぉ!!』


 夫婦は同時に攻撃を仕掛ける。

 ところが……。



「くそ……」

「手強い……。まさかここまで……」


 クラーケンは予想以上に強く、船長を始め、船員達も大半が傷だらけで気を失っている。

 立っているのは夫婦位だ。

 だが、夫婦も手足から血を流していて、立っているのがやっとの状態だ。

 やって来た乗客は半数は怯え、半数は船長たちの手当てをしている。


 船も所々に穴が開き、いつ沈んでもおかしくない位だ。

 波もますます荒れ、濡れていない所なんて無いくらいに海水が侵入している。

 それでも夫婦はまだ諦めていなかった。

 

「くそ!」


 アレックスは触手の一本に斧を振り下ろすが、まるでこんにゃくの様にぐにゃあと弾かれてしまう。


「くぅ。なかなか顔まで当てられない」


 リンダは矢を装填し、顔に向けて三発放つも全て触手にガードされてしまう。

 そして遂に恐れていたことが起きてしまった。

 クラーケンが「ギュアアア!!」と雄叫びを上げ、船の床を思いきり叩きつけてゆく。


『うわあああ!』


 虹色の悲鳴が広大な海の上で木霊になる。

 遂に船はバランスを崩し、仕舞いにはグシャア、と船は真っ二つに裂けてしまい、船長も船員達も乗客も、そしてアレックスとリンダも闇に溶ける海の中へ投げ出されてしまった。

 クラーケンはひとしきり暴れた後は、まるで何事も無かったかのように闇の海の底へと潜っていった。


 

「うぅ……」


 気が付いたアレックスが最初に見たのは、何処かの砂浜だった。

 命だけは奇跡的に助かったが、肝心のリンダの姿が見つからない。

 足の血は気を失っている間に止まっている。


「リンダ! リンダ!!」


 そんなことを全く気に留めず愛する妻の名を何度も叫ぶが、一向に返事は返ってこない。

 まるで無重力から急に重力がある空間へ来たかのように心と体が重くなり、更に無人島で食料が尽きたかのような絶望の色に染まってゆく。

 あの船に乗っていた人も三、四人は一緒に流れて付いていたが、どの人もリンダではない。


「サラ。リンダの気配は掴んでくれ!」


 咄嗟にサラにリンダの気配を掴むよう頼む。

 精霊は、契約した精霊使いにとって親しい人や大切な人の気を感じる事も出来るのだ。

 サラはこくりと頷き、朱色の両手を胸の前に合わせてリンダの気を探る。

 

「どうだ?」


 訴える様にサラに訊くが、サラは首を左右に振る。


「駄目っス。ここからは感じないでやんす……」


 野太い声色が悲しい色を含んでいる。


「分かった。兎に角この辺りを探そうぜ」

「了解でやんす」


 二人は浜辺をくまなく探してゆく。

 それは草原に埋もれた一輪の花を見つけるかのように果てしないが。


(何処だ。何処にいる? リンダ……)


 アレックスの顔にどんどん焦りが募ってゆく。

 流れ着いた時は陽が最も高い位置にあったのが、どんどん水平線に近付いていき、空も茜色の緞帳が下りていっていく。

 アレックスの肉体がそろそろ限界を迎えて来た時、


「ん? あれは……」


 ちょうど浜の一番奥――砂と消波ブロックの境に何かが流れ着いていた。

 流木? いや、よくよく見ると他の色が所々ある。

 アレックスが焦燥の色を隠してそのものへと向かう。

 

「!!」


 それを間近に見て、漸くそれの正体が分かった。

 それは一番会いたかったが、同時に一番信じたくないものだった。


「……リンダ……オ、オイ、嘘だろ……」


 そのもの――リンダがまるで眠っている様に俯せに横たわっていた。

 左耳から僅かに血が垂れている。


「そ、そんな……」


 アレックスが急いでリンダを抱え、首や手首の脈を確かめる。

 だが、彼女からの微々だがはっきりとした内なる動きが全く感じられなかった。

 身体の色も少し青みがかっている。

 それは……つまり……。


「リンダーーーー!!」


 夫の慟哭が浜全体に響く。

 今は穏やかなさざ波も、心なしか二人の今の姿を見て嗚咽している様にも聞こえた。

 アレックスはずっとリンダの冷たくなった体を抱えたまま泣き明かした。

 モスグリーンの目が赤くなるまでずっと……。

 サラもこの惨状に号泣していた。


 陽がすっかり水平線の彼方に沈んで少し経った頃。

 辺りはすっかり闇に溶けていた。

 アレックスの周りだけはサラの光でほんのり明るい。

 アレックスは涙を拭い、一旦リンダの体をゆっくりと仰向けに横たえる。

 その横顔は、先ほどとはうってかわって真剣な顔つきになっている。

 

「サラ。……悪いが、リンダの体を燃やしてくれないか」


 まだ少し涙が混じっているものの、吹っ切れた声色でサラに頼む。


「良いんでやんすか?」


 サラが少し戸惑いがちに訊く。

 無理もない。さっきまで生きていた主の妻の体をいきなり燃やしてくれ、と頼むんだから。


「ああ。肉体だけじゃ連れるのは難しいし、このまま放っておいたらこいつに悪いしな。――頼む」


 アレックスはもう一度はっきりと言う。


「……分かったでやんす」


 サラは頷き、火の息を吹いてリンダの亡骸を葬った。

 暫くして灰になったそれを、アレックスは蓋付きの写真入りロケットの写真の裏側に入れた。


「リンダ……。お前の肉体は滅びても魂はずっと一緒だからな」


 アレックスは蓋を閉じたロケットを自分の右目の涙に当てた。

 その時、月が出ていない天から柔らかな光が差し込み、アレックスの周りを優しく照らしていたのをサラは見ていた。

 それはまるで……。



「リンダ……」


 町の門のすぐ傍の石段に座って、アレックスが例のロケットを寂しげに見つめている。蓋はいていない。

 シャリンと切ない音を立てて力なく揺れる。

 彼女を思い出すと、時々こうして一人きりになってロケットを眺めることも少なくない。

 レナ、ルピア、フィリア、そして精霊達がいても、彼の心の中にはどうしても埋められない空洞がいまだにわだかまっている。


「……」


 アレックスがロケットをしまい、戻ろうと立ち上がろうとした時、


「ここにいたか」

「!」

 後ろからフィリアの声がして、振り返ると三人がいた。

 その手には店で買ってくれただろう料理や酒がいっぱいだ。


「お前ら……、どうして」

「こんなこともあろうかと店へ行ってテイクアウトしたんだよ」

「あの後宿へ行ったらお前がいなかったから、もしかしたらと思ったのだ」

「ここで夕食にしましょう」


 三人はアレックスの前に今日の夕食をずいと出して、石段に座る。


「お……おう」


 彼の目から今まで抑えていたたがが一気に外れ、ボロボロと涙が出て来た。


「! ア、アレックスさん!?」


 レナがびっくりする。


「ちょ、どうしたんだよ。らしくないねえ」


 ルピアが動揺しながらもからかう。


「な、何でもねえよ。目にゴミが入っただけだよ!」


 アレックスは照れながらバっと素早く後ろを向いてゴシゴシと目を拭った。


「ふ~ん。ま、そういうことにしといてやるよ」

「――!!」


 ルピアは笑い、料理と酒を石段に置いていく。

 アレックスはほんのり赤くなった目を拭い終わってどかっと再び石段に座った。

 四人はここでささやかな夕食を楽しむ。


『乾杯!』


 紙コップを合わせる。

 今回は三人はカクテルで、レナはレモンスカッシュにした。

 アレックスはカクテルを一口飲んで、三人を見る。


(……確かにリンダを失った悲しみはデカい。けど、今の俺にはレナ、ルピア、フィリア。そして五人の精霊――こいつらがいてくれている。いつまでもウダウダしていたら俺らしくねえ。あいつも――そんなの望んでいない筈だ。今のこいつらを……今度は絶対失わせたくない!)


 アレックスはカクテルをぐっと飲む。決意と共に。

 ささやかな夕食は深更まで続いた。

 その深更は、あの時とは違い、透明感のある色に染まっていた。



 後で分かった事だが、船にいた人百人近くいたうち、生き残ったのはたった八人だった。

 アレックスはその一人。

 海では大量の死者が沈んでいった。中にはリンダみたいに浜に流れ着いた人もいた。

 それ以来、アレックスはレナ達と仲間を組むまでの間は、クラーケンを倒そうと躍起になり、精霊達を血眼になって探していた。

 人も、だ。流石に精霊を十分に仲間にしていても、それだけでは心許なかったからだ。

 全ては奴を倒すために……。

 それからアレックス達がクラーケンを倒すことが出来たかは……それは彼らだけしか知らない。



 翌朝。

 その日のトゥールの空は、雲一つない快晴だ。

 初夏の眩い光が宿の窓から光線の様に差し込んでいる。


「あふぅぅ。意外とよく眠れたなあ」


 最初に朝日で起きたアレックスが、欠伸を一つする。  

 そのアレックスの欠伸を聞いたフィリアが次に目を覚ます。


「んん……おはよう」

「おう、おはよ」

「洗面所へ行って来る……」

「おう」


 フィリアはまだ半分寝ぼけた眼を覚ます為、洗面所へ向かった。

 アレックスは鎧以外着て部屋を出る。


「ん~……」

「おはようございます」

「おう、おはよ」


 レナとルピアも隣の部屋から出て来た。

 こちらも寝ぼけ眼だ。特にルピアが。

 彼女は朝に弱いから、こっくりこっくりと首を縦に揺らして二度寝しない様に必死だ。。


「ルピア、お前すっげえ顔してるぜ」

「む、余計なお世話だよ」

「へへ。早く顔洗って来いよ」

「あふぅ、分かってるよ」


 アレックスのからかいに、眉間に皺を寄せながらバタバタと洗面所へ行った。


「ふふふ」

「ん? どうしたんだよレナ?」

「いいえ。なんだかいつものアレックスさんらしくなったと思いまして」

「そ、そうか? 気の所為だろ。さ、朝飯行くぞ」

「はい」


 アレックスとレナはパタパタと柔らかな足取りで食堂へ向かって行った。



 その頃洗面所では、フィリアが無表情で、だが目のみ険しくして、対面している己を見つめていた。

 いや、正確に言えば見つめているのは自分の左耳にあるものに、だ。

 痣だ。

 これは仲間の三人にしか知らないもの。そしてその経緯を彼ら以外に教えていない。

 その形はまるで炎の様な――いや、炎だ。

 火傷の痕なのだから。


「……」


 フィリアがまるで呪いの印を見る様に見続けていると、


「フィリア?」

「!」


 後ろから声がかかり、驚いて振り返ると、寝ぼけ眼のルピアが出入り口に立っていた。


「ルピアか……」

「ん。ちょっと失礼」

「ああ」


 ルピアはフィリアの右隣の洗面台でバシャバシャと顔を洗う。

 そうすると、まるで氷水を一気飲みしたかのように一気に眠気が吹き飛ぶ。

 キュ、と蛇口をしなやかな指で捻って止めてタオルで残っている雫をふき取る。


「フゥ。やっと目が覚めたよ」

「そうか」

「ねえ、フィリア。さっき見てたのって」

「ああ……。これだ」


 フィリアはついさっきまで見ていた左耳の痣を改めてルピアに見せた。


「やっぱり……」


 まるで自分の事の様に痛そうにフィリアの左耳を撫でる。

 もう痕になっているから痛みは全く無いが。

 因みにアレックスと同じくこれも仲間達には教えている。

 フィリアが旅に出ようと決心したきっかけ、そして痣の経緯を……。



 これは今から十年前、フィリアがかつて生まれ育った町が大火事に見舞われた時についたものだ。

 彼が住んでいた町は、いわゆる地方都市の様なところだ。

 名はレイドル。

 フィリア達ハーヴァー一家は、レイドルで薬屋を営んでいた。

 父は薬師、母は精霊使い。

 フィリアは父から薬草の知識を幼い頃から教えてもらっていた。

 そしてフルートに興味を抱き、吹いていた。

 何故なら母がフルートを嗜んでいたからだ。

 父の影響で薬草にはとても興味を持っていたので、進んで学んでいき、そして僅か十歳で両親の手助けをするくらいまでになっていった。

 それは両親の教えなのか、彼自身が聡明だったのか――いや、どちらもだろう。

 勿論、町の人もハーヴァー一家を慕っており、フィリアのことをとても可愛がってくれていた。

 将来は父の跡を継ぐだろう――町の誰もがそう思っていた。それは彼自身も。

 だが、レイドルに先程の通り大火事が発生した。

 原因は暴走した馬車が、石油を入れたドラム缶の山に突っ込んでしまったから。

 しかも、運悪い事にその日は豊穣を祝う祭りの最中で、近くの広場では火が焚かれていた所為で、燃え広がるのはあっという間だった。

 町中がまさに火の海と化し、阿鼻叫喚がこだましていた。



(~同時刻~)


 当時十五歳のフィリアは一人で薬草を採取していた。

 一人なのは、フィリアの両親が去年相次いで流行り病で亡くしたからだった。

 あらかた採取して、肌身離さず持っている母の遺品のフルートを吹く。


「ふう。さて今日はこれくらいで良いだろう」


 その時のフィリアは近くの森で薬草を採取していたため、直接の難を逃れていた。

 フルートを片付けて、町へ戻ろうとしていた時だった。


(……?)


 妙な胸騒ぎがした。

 心の奥にどす黒いが奥底で紅いものが蠢いている――そんな感じが。


「何なのだ?」


 フィリアが急ぎ足で町まで戻ってみると……。

 その嫌な予感が当たってしまった。


「こ、これは……」


 フィリアが目にしたのは、自分が住んでいる町が紅蓮の業火に包まれている光景だった。

 その炎は家だけでなく、煙によって澄んで高く感じる秋の水色の空を焦がしているのだ。


「……!!」


 フィリアは血相変えて走っていった。



 この後……。

 フィリアは消火活動にあたっていた人と合流し、急いで消火していっていた。

 その時に炎が彼の左側を掠り、前述の左耳に火傷を負った。

 フィリアはそれでも痛みと熱さに耐え、必死に鎮火に勤しんだ。


 だが――町の半分以上の建物が倒壊し、全焼した。フィリアの家も全焼した。

 残っている建物でも煤けたりした所も少なくなかった。

 勿論人も多くの犠牲者を出した。馬車を運転していた御者を始め、広場にいた人々も、だ。

 家を失ったフィリアは、悲しむ時間も無く多くの人を弔い、自分と同じく火傷や怪我を負った人達を治していっていた。

 だが、住んでいた家があっという間に倒壊し、両親の遺品も殆どが燃えてしまい、灰になっていた。

 だから、寝る間も惜しんで人々の傷を少しでも癒す為に薬草を採りに回っていた。何日も何日も。

 それを見た町の人々は、治療に躍起になっているフィリアに感謝すると同時にこんな言葉を彼に言った。


「フィリア。あたしらの為にこんなに頑張ってくれるのは本当に嬉しい事だけどね、なんだか――今のあんたは目の光が弱ってるように見えるよ」

「――そう、ですか?」


 フィリアは今まで気にしたことなかった。

 おばさんが強く頷く。


「フィリア、あまり自分を犠牲にするのは見ているこっちが辛くなるよ。人生は一度きりだよ。これからどうするかを考えてみな。今日は一日休んでいいよ? こっちは大丈夫だからさ」

「……分かりました」


 両親が生きていた時から随分お世話になったおばさんから言われた言葉だった。

 彼のことをまるで甥っ子のように見ていた人だ。ある程度のことは分かっている。

 実際町の子供たちに勉強を教える仕事をしている人だ。

 子供の精神面を敏感に見ているからこそ分かるのだ。

 フィリアは、まさに冷水を顔をぶつけられたかのようにハッとさせられた。

 その日だけは、おばさんに帰ると伝えて、早めに切り上げた。


 その夜、仮住まいにしていた家で一人考えていた。オイルランプの明かりだけを点けて。

 ――考えてもみなかった。

 もしも火事が起きていなかったら、これからも人々の為に薬師としてこの町に留まり続けていただろう。

 勿論これも悪い事ではない。両親の残したものを守る事も大切だと思っているから。

 だが、フィリアは幼い頃抱いていたものがあった。

 それは――旅に出て広大な世界をこの目で見てみたいというものだった。

 両親もそれに関しては賛成も反対もしていなかった。

「お前の一生だから、反対する義理は無い」と。

 けれど、両親を残して果てしない旅に出るのには、当時は子供ながらに抵抗があった。

 元々慎重に物事を決める彼だからこそ、だ。

 でも――決めた。

 両親亡き今、自分の奥底に封じていた気持ちに正直になろうと。


「……よし」


 フィリアは一言呟き、ランプの明かりを吹き消し、床についた。

 窓からは十六夜の月明りが、フィリアを煌々と照らしていた。


「そうかい。旅に出るのだね」


 昨日のおばさんが少し残念そうではあるが嬉しそうな声で言う。

 フィリアは昨日と打って変わって、瞳の奥の光が戻っていた。


「はい。幼い頃抱いていた気持ちを今こそと考えました」

「そうかい。あんたが決めた事だからね。分かった、頑張って来な!」

「有難うございます」

「けど、たまには戻って来なね。あんたの顔を見られないのもちょっと寂しいからさ」

「はい」


 フィリアは清々しくおばさん達に頭を下げた。


『元気でな』『体に気を付けてね』


 町の人から様々な声援を貰い、フィリアはトライデントを携え、町を後にした。


「あそこへは行かねば」

 

 町を出る前に一か所だけ寄ろうと思った所があった。

 そこは……。


「父上、母上、私は旅に出ようと思います。どうか、見守って下さい……」


 フィリアは両親がいる所へ来ていた。やはり両親へは報告するべきだ。

 フィリアは二人に手を合わせ、


「では、行って参ります。またいつか」


 そう言いながらフィリアは立ち上がり、背を向けて去った。振り向かずに。

 そこには、供えられた桃色のコスモスが、そよそよとまるで手を振る様になびいていた。



「……フィリア」

「ん?」

「その……町に戻りたいって思うかい?」

「……」


 フィリアは思考を今に戻して髪を放し、目を伏せる。

 ルピアは思わず自分が言った事に後悔し、


「あ、ゴメン。気に障ったのなら謝るよ」


 アレックスだったら冷やかすのだが、フィリア相手だとあまり出来ない。

 ルピアは今時を戻せるなら戻したい、と焦っていると、


「いや、構わない。そうだな……少し、ある」

「……」

「今、あそこはどうなっているだろう、とか。皆は息災か、とかな」

「そっか」


 ルピアの声が少し寂しげだ。

 分かっている、分かってはいるけども。

 そんなルピアを見たフィリアは微笑を浮かべ、


「だが、私は皆も大切だ。君もレナもアレックスもな。これは私が決めた事だ。だから今すぐ戻りたいわけではない。旅を途中で放棄するなぞ性に合わないからな」

「そ、そうかい? うん、分かった」


 そう言ったルピアの声が少し安堵が含まれていた様に感じた。

 そんなルピアの様子を見てフィリアは笑みを浮かべ、またすぐに真顔に戻る。


「さあ、朝食を食べて船へ乗ろう。レナとアレックスが待っている」

「うん」


 フィリアとルピアは洗面所を後にした。



「おう。遅かったな」


 アレックスとレナは既に席についていた。料理もとっくに来ている。


「すまない。待たせたか」

「いいえ、大丈夫ですよ。料理もさっき来たところですから」


 確かにスープにはまだ湯気が昇っている。

 四人はさささっとまかないのようにサクッと食べて、宿を後にし、船着き場へ赴き、その昼フォード大陸行きの便へ乗り込んでいった。



 ザアア……。

 夏が近づいている。

 一層強い太陽からの熱と光、そしてそれらに潮の香りも加わっている。

 アレックスは乗船の時、やはり少し緊張した顔つきになったが。

 幸いクラーケンは、フォード大陸の辺りは領域にしていないので、ここへ来ることは無い。

 それでもアレックスの心からは、不安の色が完全には拭えない。

 まるで苦手な虫を完全に退治できずにいている状態だ。

 まあ、一度トラウマを植え付けられた人にとってはそんな心境になるのは当然か。


「……」


 アレックスは船室にこもりっきりになっている。

 あれ以降船に乗ると必ずだ。

 勿論レナ達は重々承知だ。因みに三人はデッキにいる。


「――」


 アレックスは遠い目で、あの時と同じ、今は穏やかな海を眺めていると、目の前に青い光の球が現れる。


「! ディオーネ……」


 光の球――ディオーネは人の姿になり、アレックスを心配そうに覗き込む。


「ああ……もう少し早くお前に会いたかったな。お前だったら海の中からあいつを探す事も容易いからな」

「あ、あの……」


 人形の様な乾いた笑みをディオーネに向ける。

 ディオーネはとても申し訳ない気持ちになってオロオロする。


「良いよ。別にお前を恨んでなんていやしないさ。お前の所為じゃないんだし」

「でも……」


 しゅんとするディオーネ。

 流石にずっと悲しませるのは悪いと思ったアレックスはちょっとバツの悪そうな顔をして、


「……んじゃあ、これを約束してくれるか」

「?」

「俺は勿論かもしれないが、今の俺の仲間――レナもルピアもフィリアも守ってくれるか?」

「分かりました!」


 ディオーネはガッツポーズをする。その顔に少し明るさが戻って来た。

 その姿を見たアレックスは笑みを浮かべ、再び海に視線を戻す。

 今度はさっきより少しこわばりを解いて。


(……俺もいい加減踏ん切りをつけなきゃあな……ルピアじゃねぇが)


 一方、ルピアはというと……。


「……」


 ルピアは穏やかで絶え間なく船に打ち付ける波を、手すりに腕を乗せて切ない目で眺めていた。

 その瞳には、ワインレッドの色に波の色が混ざり、少し紫がかっている。


「ルピアさん」


 振り返るとレナが、波と同じ穏やかな顔で立っていた。


「レナ……」


 レナはルピアの隣に立って、同じく波を見る。


「ルピアさん。もしかしてルークさんの事を考えていました?」

「……そう、だね」

「……」

「ねえレナ。あんたは人を恋愛の面で好きになった事はあるかい?」

「え?」


 意外な事を訊かれ、驚くレナ。


「あたしは十五歳で盗賊稼業に入ったのは知っているだろう」


 レナは頷く。


「親が亡くなって間もない時のあたしは荒れていた。人なんて誰も信じられなかった。そんな棘だらけだったあたしを支えてくれたのが――ルークだったんだよ」


 レナはおおよそだけど想像する。

 映像化するのは容易く、その事を思い浮かべるとレナは少し照れた。

 レナは今まで恋愛をしたことは無かった。

 勿論知らない訳では無い。いくらなんでもそこまで疎くは無い。

 ただ――機会が無かったのだ。

 まあ、レナなら性格から決してモテなくはないだろう。


「私はあまり恋愛には詳しくありませんが……でも、貴女にとって彼はとても大切な人だったと思います」


 レナの言葉にルピアは微笑み、


「……。まあ、あんたにもいずれあんたの事を想ってくれる人が現れると思うよ」


 と優しく肩を叩いた。


「……」

「よ」


 少し落ち着いたアレックスがやって来た。

 と言っても、手すりには寄らなかったが。


「何の話してたんだ?」

「内緒」

「です」


 レナとルピアは笑顔で首を横に振る。


「何だよ」

「女同士の話だもん」

「何じゃそら。へいへい、お邪魔虫は退散するよ」


 アレックスはむくれてフィリアの方へ行った。

 

 風向きが変わった。

 いよいよフォード大陸が見えてきた。

 空も一気に秋へ向かうような色に変わっていった。


 

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