桜が教えてくれた
あれから二時間が過ぎたが、私はまだノートに返事を書けずにいた。
風が冷たいからか、テラス席にいたお客さんたちは店内へ入ってしまったので、私は一人でそこに座りながらノートを見つめ、先輩とのやり取りを振り返っていた。
「先輩はどうして桜が嫌いになっちゃったのかな……やっぱり名前か……あとは友達……根は素直な先輩がこんなにも捻くれちゃうんだから、よほどショックなこと……ああー、もう! 踏み込みたいー!」
私はテーブルに顔を伏せた。
「でもなぁ……やっぱりダメかなぁ……先輩と会ってお話がしたいだけなんだけどな」
唇を尖らせていると、私の頭の上から声が降ってきた。
「八重ちゃん、どうしたんだい? 静香ちゃんに怒られたのかい?」
「違うよ、シゲさん。なんて返事をしようか考えていたの」
シゲさんは私の向かい側の席に座った。
「返事?」
テーブルに開かれたノートを見て、シゲさんは続けた。
「ああ、ノートでやり取りをしているんだね? お友達とかい?」
「うん、友達だよ。私の行く、
「そうかそうか。どんな子なんだい? 八重ちゃんのお友達なら、シゲさんも会ってみたいねぇ」
「そうだなぁ……先輩は絵が上手で、美術部に入っているの。几帳面で、素直な性格。あと、少しプライドが高いみたいだけど、それはただ馬鹿にされたくない気持ちが強いからだと思う。人と話すのも苦手そう。でも、すっごく面白い人なの」
私が話し終えると、シゲさんは目を丸くさせていた。
「……八重ちゃん、なんだかその子に会ったことがないみたいに話すじゃないか」
「うん、顔はわからないよ?」
私はそう言うと、シゲさんは声を上げて笑った。
「アハハハハ! まるで三春さんじゃあないか! そうかそうか、いつものあれかい?」
私は大きく頷く。
「そう。桜が教えてくれたの」
おばあちゃんの言葉を借りるとしたらそうなるが、私がここまで先輩のことを知ることができたのには理由がある。それは全て、ノートにあるものが導いてくれた。
まず、三枚のうちの『桜の木と池』 の絵の風景には見覚えがあった。文化祭で在原第一高校に行ったとき、私は確かにこの海老の石像を見たから間違いなく、これはあの学校だと思ったのだ。
次に、数学の二次関数の方程式は、高校一年生で習うものだった。春休みである今、すでにこれを勉強しているということは、私より一つ年上。だから私は、高校の先輩なのだと考えた。
先輩が美術部に入っているというのは、『桜は大嫌い』 という文章と、ノートのなくなる時間帯でわかった。ノートは朝に消えて、夕方にまた現れる。それはつまり、先輩は朝に回収して夕方に戻すということ。しかし、どうしていつも決まった時間帯なのだろう。それに先輩は、嫌いな桜の絵をどうしてこんなに描いたのだろうか。書かなければいけない理由があるとしたら、それはなにか。もしかしたら部活に入っていて、桜の木がテーマの課題を出されたのではないかと私は考えた。そうすれば、部活前にノートを回収して、終わったらここへ持ってくるという辻褄が合うからだ。
そして、どうやら先輩はややこしい性格をしているようだ。私がそう思ったのは、『桜の木と滑り台』 の絵を見たからだった。この絵に描かれている中央の桜の木と滑り台の色合いは柔らかなものなの。でも、端の方にあるパンダの遊具だけがカラフルな色使い。私の知っている公園とそっくりな絵だが、これではテーマがあやふやで、少しばかりバランスがおかしいと私は思ってしまった。もしかすると先輩は、見たものをそのまま描かないと気が済まないのではないのだろうか。そういう自分の中でのルールを曲げたくないのかもしれない。それは几帳面な性格の人の特徴だが、同時に、とても素直な性格をしているとも私には捉えられた。
しかしながら、私はそこで矛盾を感じた。そんな先輩が、私とのやり取りでは素直とは言えなかったからだ。
というのも先輩は、几帳面な性格をしているのに数学の問題を解かずに終えており、次のページにはいきなり絵を描いている。それらのことから私は、先輩は数学が苦手なのかと思いメモを書いたのだが、先輩はそれを『苦手じゃない』 と、否定した。本当にそうなのかもしれないけれど、馬鹿にされたくない気持ちが先輩にそう答えさせたのではないかと私は考えた。
つまり、絵では素直な性格が表れているのに、人とコミュニケーションを取るとそうではなくなるのだ。だから私は、先輩は人とのコミュニケーションが苦手と感じているのだと思った。
しかしながら不思議なことに、先輩は私のメモに返事をしてきた。もしかしたら、この交換ノートはSNSのように面識のない人とのやり取りだから気が楽なのだと先輩は思ったのかもしれない。それに加え、『どうして僕が先輩?』 という先輩の問いに私が答えなかったら、これまでの素っ気無い言葉遣いが嘘のように感情的に変わった。それらのことから私は、先輩は個人を特定した上でのやり取りが嫌いなのだと考えた。
しかしそれも不思議に思った。どうしてそこまで感情的になったのだろうか。
さらに、『君は僕と会ったことがあるのか?』 という先輩の問いに、私が顔や名前はわからないと答えた後の返事が、また素っ気無い言葉遣いに戻ったことから、先輩はほっとしたのではないかと私は思った。それはどうしてなのか。会ったことがあるのは、先輩にとってまずいことなのだろうか。もしかして先輩は、私に直接話しかけられる可能性があることを恐れていたからそう返事をしてきたのだろうか。先輩は人と対面して話すことが嫌いなのかもしれない。
そして、どうにも『名前なんかどうでもいい』 という文章が気になる。
そこで私は、一つの仮説を立てることにした。『誰か』 に『何か』 を馬鹿にされた過去が先輩にはあるのではないか。ノートが平気で、人と対面して話すことが駄目なら、その『何か』 とはその人自身を表すものだ。それは容姿も考えられるが、私は名前だと思った。次に『誰か』 とは、先輩という単語に反応を示したことから、学校に関連した友達なのではないかと私は考えた。
つまり、先輩は『友達に名前を馬鹿にされた過去があり、それが原因で桜を嫌うようになってしまったのかもしれない』 という仮説だ。
とはいうものの、仮説を立てるまでに至ったこれらの全ての考えは、結局は私のただの想像に過ぎなく、仮説はあくまでも仮説だ。
でも私はこうして自分の世界を広げてきた。人の数だけ世界があり、人の心は桜の花びらが風に舞うように私を運んでくれた。たとえ花は散っても、心の木はまた蕾を付ける。哀しく感じても温かいものなのだ。誰しも触れてほしくない過去はある。先輩だってそうだろう。でも私はもっともっと、先輩を知りたい。せっかく、桜の木々が先輩を連れてきてくれたのだから。
「もっとも、素直に教えてくれそうにないから困ってるんだけどね……」
「なんだなんだ、八重ちゃん。そんなに考え込んで。シゲさんで良かったら相談に乗るぞ?」
私はシゲさんをじっと見つめた。するとシゲさんは薄手のジャケットの内ポケットから徐に手帳を取り出し、ペンを握って準備万端とでも言いたそうな表情で私を見た。
小さくため息を吐いた私は、椅子の背もたれに寄りかかる。
「またそんなこと言って、どうせシゲさんは私の相談に乗るのが目的じゃないんでしょ。おばあちゃんとの会話のネタにされるのがオチなのは、もうわかってるんだから」
「や、八重ちゃん……! シゲさんはそんなこと考えてないよ。ただ、三春さんと一緒に解決策を話し合って八重ちゃんに伝えたほうがいいと思っただけさ」
シゲさんは苦い表情をしながら声を震わせて言った。
動揺しているのが目に見えてわかる。それがシゲさんのお茶目なところではあるけれど、こういう時はおじいちゃんを見習ったほうがいいと思う。おじいちゃんのすっとぼけスキルは、おばあちゃんでも見抜けないことがたまにあるのだからすごい。でもおっちょこちょいな性質を合わせ持ってしまっているから、残念なのだ。なんらかの痕跡を残してしまって、いつもおばあちゃんにバレてしまう。おばあちゃんにとってはそれも、退屈しない人という認識になるみたいだけどねーー
「はいはい、そうですね。それよりその手帳、もう半分くらいまで使っているみたいだけど。相談に乗ってもらうより、新しい小説を読ませてくれるほうが良いなぁ?」
「……いやはや、八重ちゃんはよく見ているねぇ。ちょっとだけだよ?」
「やったー! さっすが、シゲさん!」
シゲさんはページをパラパラと戻し、コホンッと咳払いをしてから話し始める。
「……昔々あるところに、お爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きましたーー」
「シゲさん!」
私はテーブルに手をついて、勢いよく身を乗り出した。
「なんだなんだ、八重ちゃん。もう満足したのかい?」
「違うよ……!」
深く深く息を吐き、私は力が抜けていく体を再び椅子へ預けた。
「そのあと、お婆さんは桃を見つけて、その桃から男の子が生まれてくるんでしょう?」
「おお! 八重ちゃん、よくわかったね」
「もう……私はそのお話じゃなくて、シゲさんの書いてる小説がいいの!」
私が頬を膨らませていると、シゲさんは愉快そうに笑いながら席を立った。
「書き終わったら、八重ちゃんにも読ませてあげるよ」
「すぐだよ、すぐ! 一番最初に、だからね!」
「ああ、そうだとも」
シゲさんはそう言いながら店内へ入って行った。
「おばあちゃんを除いた、一番最初でしょ。まったく……」
小さく呟いた私のその言葉は、桜の木を撫でる風に攫われていったのだった。
その後、私はノートにペンを走らせていた。
ーー今日、知人と桃太郎の話をする機会がありまして、ふと疑問に思ったことがあるんです。先輩は、どうして桃太郎は桃から生まれたのだと思いますか? 桃の種が人に化けたのでしょうか。
「いきなりすぎるかな?」
でも一度、話を変える必要があると思ったのだ。
それから私はノートを袋に入れ、花壇の木の隙間に戻しておいた。
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