さくら嫌いなきみに夢中

唯月もみじ

桜は大嫌い


 七年前、雑誌に掲載されたのをきっかけにSNSで話題となり、『桜並木を一望できるカフェ』 として春のちょっとした名所になったのが私の家だ。

 毎年、数十本もの桜の木が柔らかなピンク色のトンネルを作り出す頃に、お客さんはやってくる。

 今では開店と同時に満席になる忙しさも、テラス席の階段下に長蛇の列を作る人たちからの視線にも慣れたけれど、小学三年生だったあの頃の私にはひどく衝撃的で、春休みに友達と遊ばせてくれない桜が大嫌いだった。

 そんな頃もあったなぁーー私が思い返していると、コーヒーの香ばしい香りのするガラガラの店内にお母さんの声が響いた。

「八重、雨が降る前に看板、中に入れておいて」

 そういえば、今夜の降水確率は百パーセントだと天気予報番組のお姉さんが言っていた。だからいつもよりお客さんの帰りが早かったんだ。

「はーい」

 私はカウンターに伏せていた上半身を起こし、椅子から飛び降りて入り口へ向かった。

 すると、私がドアノブに手を掛けるよりも先に開いた扉から、低い身長を誤魔化すためにかぶるような帽子を頭に乗せた六十代くらいの男性が入ってきた。

「シゲさん!」

「やあやあ、こんばんわ、八重ちゃん。三春さんはいるかな?」

 シゲさんは帽子をとり、ソワソワ、キョロキョロと店内を見渡している。

「おばあちゃんなら、おじいちゃんと旅行に行ってるよ」

 私がそう言うと、シゲさんの肩がシュンと垂れてしまった。

 シゲさんにとっておばあちゃんは学生時代から永遠のマドンナ的存在らしい。だからシゲさんは昔からおばあちゃんに会いによくお店に来るのだけれど、そのおばあちゃんは一ヶ月間の旅行と題して、浮気をしたおじいちゃんに罰を与える旅に出ている。二人は昨日、中学を卒業した私の式を観にきて、終わってからすぐに出発した。おじいちゃんの自業自得だけれど、おばあちゃんに連れ回されてクタクタのおじいちゃんを想像するとなんだか可哀想にも思う。

「私たちだけでごめんなさいね、シゲさん」

 お母さんの拗ねたような口調に、シゲさんの肩が元に戻った。

「いやいや、シゲさんはみんなに会いに来たのさ。コーヒーをもらえるかな?」

 定位置である端から二番目のカウンター席にシゲさんが腰掛けたと同時に、お母さんはソーサーに乗った湯気のたつカップを差し出した。

「おおっ? 早いね」

「もう来る頃かと」

「ああ……桜が教えてくれたんだね?」

 シゲさんのニンマリとした笑みに、お母さんは微笑み返した。

「そうそう、昼間ここの前を通ったんだけど、今日は一段と繁盛していたね。それも桜のおかげかな? それとも、静香ちゃんの入れるコーヒーのおかげかな?」

 その香りを確かめるように手に持ったカップを鼻に近づけ、穏やかな笑みを浮かべたシゲさんに、私は少しムッとした。

「そりゃあ、お母さんの入れるコーヒーは美味しいって評判だけどさ!」

「おっと、いかんいかん。八重ちゃんのスマイルのおかげだった。そうだった……!」

 そう言って何度も頷くから、シゲさんのシワシワの首がさらに皺だらけになって面白い。

「ああ!」

 私は思わず声を上げた。ふと視線をずらした先に見つけてしまったのだ。シゲさんの帽子の横にあるものを。

「シゲさん! 新しい小説書くの!?」

「なんだなんだ、どうしてわかったんだ?」

「だって、手帳が新しくなっているから! どんなの書くの? もう書いてる? 見せて!」

「だめだめ。まだ書き始めたばかりなんだ」

「そう言わずに! 一行でも良いから! なんなら、最初の一文字だけでも! お願い、シゲさん!」

 合わせた両手から顔を覗かせると、シゲさんは愉快そうに笑っているだけだった。

「八重、しつこいわよ。早く看板を閉まってきてちょうだい」

「……はあーい」

 お母さんを怒らせるとおばあちゃんより厄介だ。

「八重ちゃんは相変わらず好奇心旺盛だなぁ」

「母に似てね。ほんと、困ったものだわ」

 私がおばあちゃんに似たことのどこが困るのだろうか。

「そうかそうか、確かに三春さんにそっくりだ」

 シゲさんの笑い声を聞きながら、私はドアノブに手を掛けた。

 外に出ると、もう日は沈んでいるというのにまだまだ明るい目の前の景色に笑みが溢れる。ライトアップされた桜の木々が、今日も今日とて夜道をピンク色に彩っていた。

 テラス席から階段を降りて、そのすぐ横に看板はある。雨に濡れても問題のない素材のメニュー看板だが、後で水気を拭き取る手間を考えると、濡れる前に閉まっておきたいところだ。それが私の仕事になることはもう目に見えているのだから。

 それに、雨予報のなか桜を見に来る人も少ないだろう。つまり、お客さんはもう来ないも同然。アルバイトの人に早上がりしてもらって正解だった。

「よい、しょ……」

 決して軽くはないそれを掛け声とともに持ち上げようとしたその時、隣にある三人掛けベンチに看板の足を軽くをぶつけてしまった。そのはずみで、何かが落ちる音がした。

「ん?」

 看板を置き、ベンチを回り込んでその下を覗いてみると、A三サイズのノートが落ちていた。

「お客さんの忘れ物かなぁ」

 私はノートを開いた。

「解き途中の二次関数の方程式……桜の木と池……桜の木と滑り台……あ、桜並木! すっごーい! そのまんま!」

 そのノートは、最初の十数ページには英数字が書いてあったが、途中からは絵ばかりだった。

 一つ目の『桜の木と池』 の絵は鉛筆で描かれており、よく見ると池の中で立つ海老の石像がある。

 それ以外の二つは、柔らかな色合いの色鉛筆を使って描かれたものだ。『桜の木と滑り台』 の絵もよく見てみると、端の方にカラフルなパンダの遊具が描かれている。そして『桜並木』 の絵は今、私の目の前にあるものをそのまま切り取って貼り付けたような見事なものだった。

 このベンチで描いたのだろう。しかし、それを置いて帰ってしまうとは、よほど急いでいたか、それともおっちょこちょいな人なのだろうか。

「持ち主さん、このノートがないことに気が付いたら取りに戻って来るよね」

 私なら、絶対にそうする。こんなに上手に描けたのだから大事にとっておきたいし、雨で台無しにしたくない。

「そうだった、雨……! どうしよう……」

 お店の中で保管しておけるけど、探し回った末にここに辿り着くのがお店を閉めた後だったら、別の場所を探しに行ってしまうかもしれない。

「次の日にでも、訪ねてきてくれたらいいけど……おっちょこちょいさんの考え方は予測不能だし……」

 まさしくおじいちゃんがそうだから、私はよく知っている。

 考えた末に、私は看板を抱えて一度お店に戻った。そして、お店で使っているジッパー付きの袋と、紙とペンを持って外に出た。

「ご来店、ありがとうございました。桜の絵、とっても素敵ですね! 追伸、私も数学は苦手です……っと!」

 私はたった今書いたばかりのメモと、ノートを袋に入れ、ベンチの上の花壇の木の隙間に滑り込ませた。

「これなら雨にも濡れないし、他の人が間違えて持っていくこともないでしょう! 持ち主さんは探しているはずだから、よく見てくれるはず! さっすが、私!」


 その翌朝、お店の開店時間の少し前に看板を出しに行くと、ノートはなくなっていた。

 私は安堵の息を吐き、陽を浴びて風に揺れる桜並木に向かって声を飛ばす。

「今日も、道案内をよろしくねー! よし、私も頑張ろう!」

 こんな晴れた日、忙しくならないわけがない。空席があったら、それこそ驚きだ。



   *



「わお……」

 ところがその日の夕方、私は驚いていた。開いた口が閉じない、とはこのことか。

「……まさか、また忘れたの?」

 あの、ノートがあったのだ。

 しかし、私が昨日用意した袋に入っているうえに、花壇の木の隙間にそれはある。

「さすがに、こんな忘れ方はしないよね」

 手に取ってみると、一緒に入れたメモはなくなっていた。

 私はノートを開いた。昨日見たものとなんら変わらないと思ったが、桜並木の絵の次のページをめくってみると、昨日はなかった文字が書いてあった。


ーー別に、苦手じゃない。


 綺麗な文字で書かれたその文章が何を示しているのか、私はすぐにわかった。

「へぇ。ノートの持ち主さんは数学、苦手じゃないんだ。本当かな?」

 思わずニヤけてしまった頬を指でつねった。お客さんに見られたら、恥ずかしい。

 私はエプロンからペンを取り出し、その下にこう書いた。


ーー桜は好きですか? 私は桜が大好きです。


 そしてノートを袋に入れ、花壇の木の隙間に戻した。

 すると次の日、朝にはなくなっていたそれが、夕方になるとまたそこにあった。

「返事、書いてくれたのかな?」

 私はノートを開いた。


ーー桜は大嫌い。


 短い文章を見た途端、私は思わず吹き出してしまった。

「ええ! 桜の絵ばかり描いているのに、嫌いなの!? しかも、大嫌いって……! 面白い人!」

 まだお客さんがたくさんいるというのに、私は笑いが止まらなかった。

 こうして、私たちの交換ノートが始まったのだ。


ーー絵を描くのは好きですか? 私は好きだけど、上手ではないです。


ーー絵は、嫌いじゃない。上手いかどうかはわからない。


「もお、素直じゃないなぁ」


ーー先輩は絵を描くの上手です! 色もすごくステキです!


「先輩、照れちゃうかな? なんて返ってくるのか楽しみだ」


ーーどうして僕が先輩?


 期待していたものではなくて残念だったが、その問いに私はこう答えた。


ーー桜が教えてくれたんです。


 本当は、最初にノートを見た時からわかっていたことだった。ちょっとだけ、意地悪をしたくなったのだ。

 でも次の日の返事を見て、私はほんの少し後悔をした。


ーーごまかすな!


「これは、怒っているよね……?」

 殴り書かれた文字が、感情をあらわにしていた。だから私は、素直じゃない先輩に、素直に答えることにした。


ーーこのノートに書かれている数学の問題と、絵でわかりました。


ーー君は僕と会ったことがあるのか?


 その文章は、下にうっすらと見える違う文字や、皺のできた紙から、何度も書き直したものだとすぐにわかった。

 私にしても、返事を書くのに困ってしまった。


ーーお店のお客さんだったら会ったことはあると思いますが、先輩の名前や顔がわからないので特定することはできません。似顔絵を描いてくれたら思い出すかもしれないです!


ーー名前なんかどうでもいい。似顔絵は描かない。


 私はため息を吐いた。

「名前、ねぇ……」

 ノートを初めて見つけたあの日から一週間が経った今日、私は先輩の過去にベッタリと触れてしまった気がした。

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