第3話 風邪と爆弾にご注意(2)

 ところがいざトラブルシューティングに参加しても解決の糸口は一向に見えなかった。


 問題報告のあったアプリはCSVカンマ区切りファイルからデータを読み込み、選別と加工の処理を経てデータベースに記録するという簡単な機能を提供するものである。

 単純な構造なためバグはすぐに見つかるだろうと楽観的に構えていたが不具合の原因は全く分からない。


「とんだババを引いてしまったな……」


 幸春は思わず頭を抱えた。サクッと解決してすぐに帰るつもりだっただけにショックが大きかった。


「やっば……。東京の人から催促来てる……」


 沙彩が焦燥感を露わにして呟く。チャットツールには確かに状況確認のメッセージが表示されている。


 Rayでは主に事業の企画や運営、サービスの開発を東京本社が担当している。一方福岡子会社では、本社で作られたシステムやアプリの保守や運用を担っており、何か要望やトラブルがあるとこうして連絡される体制になっている。


 そんな体制下、東京と福岡の間には見えない上下関係のようなものが存在する。経営陣は『親子会社であってもフラットな関係が望ましい』と標榜しているものの、現場ではなかなかそうはいかない。

 幸春は出向社員ということで東京の社員に対して遠慮を覚えることは少ないが、福岡直雇用の沙彩の心境は異なる。特に沙彩は根っからの体育会系で上下関係に敏感な性分なため尚更である。今のようにこちらの責任で東京側に迷惑をかけていると思い始めると取り乱す傾向があった。


「焦らず対処しよう」


 そう宥めると彼はチャットツール上で東京の社員にフォローを入れた。


 だが内心では良くない傾向だと思い始めていた。トラブルは解決の糸口が見えない一方で、自分の体調は急激に悪化している自覚があった。

 きっと風邪薬の効果が切れたのだ。マスクの下で鼻水が洪水を起こし呼吸困難になっていた。


「このアプリっていつから使われてるの?」

「半年近く前に作られて以来よ」

「つい先日まで動いてたのに、急にバグった……わけないよな。誰かがバグを入れてデプロイしたのか」

「スクリプトで止まっちゃってるからそこにバグがあると思うけど、でもgitに変更履歴はないのよね……」

「ということは読み込んでるファイルに問題があるのかも」


 そう予想するが沙彩はかぶりを振った。


「一応データファイルを確認したけど、不審な点は見当たらなかったわよ」


 それは困ったな、と呟きながら念の為自分でも問題のファイルを開いてみる。すると彼は直ちに異常を認めた。


「あ、BOMボムじゃん」

「ボム? 爆弾?」

「Byte Order Markのこと。簡単に言うと余計なメタデータがくっついてるからスクリプトで処理出来ないんだよ」


 ぼんやりする頭でざっくり説明する。つっこんだ解説は別の機会に取っておくとして、すぐにチャットツールで東京の社員に事情と対処法を説明した。


「原因は向こうの人が間違ったやり方でファイルを保存したせいだよ。だから正しい手順でやり直してもらおう」

「そういえば四月になって担当者が代わったのよね」

「それも原因かも」


 それから五分ほどすると相手から読み込みが成功したとの報告と謝罪のメッセージが送られてきた。これにて一件落着だ。

 沙彩はすっかり安堵して背もたれに深く身を沈めた。それも束の間、身体を勢いよく起こすと幸春に向き直った。


「ユキ、本当にありがとう! 私、BOMなんて全然知らなかったから、きっと一人じゃ解決出来なかった!」

「ありがとう。でも全然大したことないよ」

「そんなことない。やっぱりユキはすごいわ!」

「大袈裟だな。というかこの位、もっと早く気づいてないとダメだし……」


 幸春は鼻水を力一杯啜りながら反省の意を呟いた。

 今回のような問題はファイル処理のプログラム実装ではごくありふれたトラブルだ。幸春自身も以前似た原因で悩まされたことがあった。

 そのことを勘案すると遅きに失した感があってむしろ己の未熟さを痛感する所存であった。


「謙遜しない! 私じゃ出来ないことをやってのけたんだから!」


 沙彩はプレッシャーから解放された安堵からか、感極まって目尻を僅かに輝かせていた。


 このままでは謙遜合戦になって収拾がつかなくなりそうだ。

 ここは素直に礼を受け取っておこう。


 幸春は少し得意な気持ちを抱きつつまた鼻水を啜った。


「ユキ、あなた風邪悪くなってる?」

「心配すんな。風邪薬の効き目が切れただけ」


 すっかり重くなった身体に喝を入れ、幸春は立ち上がる。だが思いのほか体力を消耗していたらしく、歩こうとした拍子に身体がよろめいた。


「ユキ!?」


 沙彩は驚いて立ち上がり、慌てて彼の身体を支える。細身だが運動部で鍛えた足腰のお陰で崩れ落ちることはなかった。


「大丈夫?」

「お、おう……」


 正直大丈夫ではない。

 体調が悪いのは心配だが、そんなことはどうでもいい。


 問題は彼女との距離感。支えられた、ということは身体は当然密着しており、服に隔てられているにも関わらず体温が伝わって来ている気がした。加えて彼女の整った顔が文字通り目と鼻の先に近づいており、不覚にも見惚れてしまった。


 ドキドキ、と心臓が高鳴っている。

 動悸がするのは風邪のせいか、倒れそうになって驚いたのか、それとも……。


「ユキ、本当に無理させてごめんね。風邪が悪くなったら私のせいよ」


 普段の彼女ではあまり見せないいじらしい態度を目にした途端、なぜかドキリとしてしまった。普段凛々しい面持ちを崩さないだけに弱った表情は新鮮に映り、神秘的な何かを目にした気分であった。


「風邪なんて一晩寝てたらきっと良くなるよ。気にすんな」

「気にするわよ! 体調悪いあんたに残業付き合わせたのは私なんだから」

「大丈夫だよ、きっと。それより飲み会行かなくていいの? 若葉さん、待ってると思うよ?」

「あんたのことほったらかして酒飲みになんか行けないわ。途中まで送るから早く帰りましょう」


 沙彩は帰り支度を手早くすると幸春の分の手荷物まで甲斐甲斐しくまとめ、退勤を促した。


「はぁ……仕事を手伝ってもらったばかりか身体を壊させるだなんて……。私ってばホント良いとこ無しだわ……」

「そういう日もあるさ。ま、今回のは貸し一つってことにして、風邪をこじらせたらお粥でも作ってもらおうかな、なんてね」


 幸春はあえて『貸し』という言葉を使って冗談めかして慰めた。沙彩の性格上、されっぱなしでは気負ってしまうだろうから。


 そんな真心から出たジョークが奏功し、彼女は安堵した笑みを浮かべてくれた。


 やはり沙彩には笑顔が似合う。


 そんな風に他者を思いやるだけの元気がこの時にはまだ残されていた。

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