第2話 風邪と爆弾にご注意(1)

 サラリーマンは働かなければならない。例え親が死のうが、失恋しようが遅かれ早かれ食い扶持を自らの手で稼ぐ生活に戻らなければならない。それが宿命である。


 そんな訳で幸春は失恋の痛みを抱えたまま今日も出勤している。


 幸春が勤める企業『Ray Technology』は十年ほど前に創業し、飛ぶ鳥落とす勢いで成長したいわゆるメガベンチャーである。彼はそこでITエンジニアとして働いている。

 本社は新宿にあるが、現在彼が勤務しているのは福岡子会社で二年前に出向社員として赴任した。沙彩と再開したのはその時だった。彼女は福岡子会社の直雇用の社員で、彼の赴任の少し前に転職していた。


 沙彩が福岡子会社に転職したことを知ったのはオフィスに出勤したその日のことだった。「さぁ、頑張るぞ!」と勇んでオフィスに足を踏み入れるとすっかり大人の女性になった腐れ縁同級生に出くわし、お互い「なぜここにいる!?」と顔を指差しながら絡み合った因縁に絶句した。


 そんなこんなで現在は同僚である。


 *


 その同僚の沙彩は現在困っていた。


 時刻は十八時半を過ぎた頃。金曜日のこの時間となれば大抵の社員は作業に区切りをつけ、すぐに帰宅出来るよう仕事を整頓する。

 しかし沙彩は今、自分のPCと睨めっこしながらうんうんと唸り声を上げていた。


「どう、解決しそう?」


 傍に歩み寄ってきた幸春が声を掛ける。沙彩は頬杖をついたままかぶりを振った。


 今、沙彩を悩ませているのは新宿本社から入ったクレームだ。クレームの原因は内部者向けのアプリケーションのエラーである。沙彩は本社の社員から「すぐに直してほしい」と注文を付けられ、その対応に苦慮していた。


「どうして帰る直前になってなる早案件を放り込んでくるかなぁ……」


 沙彩は背もたれをギシッと言わせてながら天井を仰いで愚痴を溢した。


「月曜日じゃダメなの?」

「なる早って言ってる」

「向こうが言ってるだけで、月曜日中の対応じゃダメなの?」


『なるべく早く』略して『なる早』と言うのは非常に厄介な時間感覚だ。一分一秒を惜しむほど切羽詰まっているのか、あるいは気持ちが早ってるだけで実際は猶予があるのかは分からない。故に正確な期限を把握するのが肝要だ。


「日曜日のリアルイベントに使うデータをロードしなくちゃだから、すぐに直さないとなの」

「うわ、そりゃ超特急でやらないと」


 今回の『なる早』は本当に切羽詰まっている方の『なる早』だった。


「で、解決しそうなの?」

「分かんない。今から本腰入れて着手する所だから」


 彼らの役割は運用エンジニア。システムを安定稼働させ、有事の際にはその対応にあたることが仕事だ。


 沙彩は憎々しげに答えながらブラウザでクラウドシステムのコンソールにログインし、エラーを起こしたアプリのログを表示した。


 エラー調査はこのログが頼りだ。どの処理でどのようなトラブルが生じたのか、このログを読みながら解決の糸口を探る。


「手伝おうか?」


 大量のログにしかめっ面をした沙彩に幸春は助力を申し出た。友人としての好意もあるが、何より今は同じ職場で働く同僚だ。協力するのは当然のことである。


「ありがとう。でも自分でやれるわ。あなたは早く帰って寝なさいな」


 親切な友人の顔を見上げ、眉を八の字にして彼女は気遣った。その気遣いは幸春の顔を覆う不織布のマスクに対するものだ。


 今朝、幸春は目を覚ますと気怠さと悪寒に襲われた。熱を測ってみると三七度で風邪の引き始めであった。

 本当は有給を取って休んでも良かったが不調に目を瞑って出勤した。今日は忙しくなるような予定も特に入っていないので微熱程度なら乗り切れるとの自信があったし、何よりこの程度のことで有給休暇を消費することが惜しまれた。

 余談だが、幸春はRPGなどで入手が限られる強力な回復アイテムをラスボスまで温存するタイプだ。そして使うことなくラスボスを倒すタイプでもある。


「お気遣いどうも。でも風邪は平気だから」

「無理しないの。風邪は引き始めで油断すると痛い目見るわ」


 沙彩はあくまで気遣う姿勢だ。そこまでされると幸春としてもこれ以上押すことことは躊躇われた。

 それに沙彩もエンジニアに転職して二年経つ。業界未経験だったため、新人もかくやの知識量だが、そろそろトラブルシューティングに独力で対処しなければならない頃合いだ。本人もきっとのそのような自負から協力を辞退したのだろう。


「加賀さん、沙彩さん、お疲れ様です! 今からみんなで飲みに行くんですけど、お二人もどうですか?」


 そこに退勤前の疲れ切った頃合いとは思えない元気な声が響く。二人の後輩社員の若葉萌花わかばもかだ。

 前下がりのボブカットと丸っこい顔立ち、身長一五〇センチ前後の小柄なルックス。二三歳の若さ溢れるキャラクターから職場では妹分のように可愛がられている。今も持ち前の人懐っこさを全面に押し出して飲み会の誘いをかけてきた。


 そんな後輩に対して沙彩は一瞬相好を崩したが、自らの事情を思い出して苦々しさを浮かべた。


「ごめんね、萌花ちゃん。急な仕事が入っちゃってすぐには行けないかも」

「そうなんですかぁ? 終わったら合流されます?」

「えぇ、そうさせてもらうわ。お店の場所、スマホに送ってちょうだい!」


 沙彩は他所向きな高い声で頼む。


「加賀さんはどうされます?」

「自分はパスで。風邪っぽいもんで」


 また別の機会に、と付け加えて辞退する。

 萌花は了承するとツアーガイドの如く、同僚達を導いてオフィスを去っていった。


「さて、と。早く終わらせないとな。で、どうする? 手伝おうか?」

「お、お願いします……」


 バツの悪そうな苦々しい声が返ってきた。飲み会と聞いてなりふり構っていられなくなったらしい。


 最近の若者は同僚や上司との飲み会を敬遠すると何かとメディアで報じられるが、この会社は比較的社員同士の仲が良く飲み会は皆の楽しみであった。

 沙彩もその例に漏れない。また根っこでは体育会系な性格のため、飲みニュケーションを大事にしているのだ。


 そんな彼女の切り替えの早さがあまりにも現金で露骨なため、幸春はマスクの下で思わず吹き出してしまった。


「そんじゃ、ちゃっちゃと終わらせるとしましょうか!」

「きゃー、ユキったら素敵!」


 幸春は痛む喉で高らかに宣言し、自分のノートPCを抱えて沙彩の隣の席を拝借した。

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