第1章 沙彩と幸春

第1話 初めての失恋

 時は春まで遡る。


「それでいきなり『もう冷めた、別れましょう』って言い残して出ていっちゃったんだ……」


 悲壮感漂う弱々しい声音で加賀かが幸春ゆきはるは過ぎ去りし日に降りかかった悲劇の顛末を語った。

 その表情からは活力が消え失せ、精力溢れる二十代後半の若者には到底見えない。特に目の下にはくっきりとくまが浮かび上がっており、ここ数日の不健康な面構えの原因を物語っていた。


「そりゃ辛いわね」


 その向かいの席に座る女性は同じく沈痛な声音で汲み取った。


 ダークブラウンのシニヨンヘア、整った目鼻立ちの小さな顔。すらりとしなやか体躯をした彼女の名前は桐原きりはら沙彩さあや。幸春の同僚にして子供の頃からの腐れ縁である。

 普段は溌剌はつらつとしてヒマワリのような沙彩であるが、旧知の幸春の傷心を目の当たりにして同情を露わにしていた。


 四月中旬、木曜日の夜、場所はサラリーマンや大学生で溢れ活気付く焼き鳥屋。どこのテーブルでも一足早く一週間分の疲れを労ったり憂さを晴らさんとハメを外して歓談している。だが二人のテーブルだけはまるでお通夜であった。


 その原因は幸春の失恋である。

 二、三日前から幸春の様子がおかしいことに気づいた沙彩は訳を聞き出そうと飲みに誘い、酒が回ったのを見計らい本題を切り出した。幸春は当初「なんでもない」の一点張りであったが二杯目のビールを飲み始めると口が緩み、怒涛の勢いで経緯を打ち明けたのであった。

 幸春は涙ぐみながら続けた。


「『仕事と私、どっちが大事なの!?』ってそんなのりんに決まってるじゃん! でも俺だってもうすぐ二九歳だから仕事を頑張んないといけないと思って、技術や資格の勉強に打ち込んでるのに、その気持ちを無視して……無視して……」

「ベタな喧嘩ねぇ。それで、ユキはなんて答えたの?」

「……何も言えなかった。凛がすごい剣幕で詰め寄るから頭が真っ白になって、『分かんない』って言っちゃったかも」

「あちゃー……」


 沙彩は呆れ果てため息をついた。

 破局の原因はつまるところ幸春の女心の不理解であったと結論づけられる。それは幸春自身、薄々自覚し始めていた。しかしそれも無理からぬことである。


「俺の初めての恋……つまり初恋……」

「うん、初めての恋だから初恋ね」

「初恋の日に、戻れたら……」

「時計の針は戻らないわよー」


 加賀幸春、二八歳。先日破局した西島にしじまりんと付き合い始めたのは約二年前で、それ以前に交際経験はない。それが仇となって肝心な場面で女心を察せられず、結果手ひどく罵られて破局したわけだ。


 だがそれでも凛への恨み辛みは口にしなかった。


 遅い初恋はまさに薔薇色であった。女性と接する機会はこれまでももちろんあったが、凛とのコミュニケーションは女友達や女性の同僚とするのとで刺激が異次元であった。


 凛が笑うとこちらも胸が弾むし、物憂げな顔をしているとその理由を知りたいと苛まれた。過去、これほどまでに心を動かされた記憶は無い。


 また、お互い二十代後半の大人であるため肉体の関係もあった。当然、幸春にとっては脱童貞の相手だった。

 絹のような肌、張りと弾力のある乳房と尻、柔軟な股関節、こちらの息遣いに合わせて艶かしく色彩を変える声と表情。

 ポルノでしか見ることのなかった女体を直に知った衝撃もまた過去比肩するものがない。


 凛はまさしく、幸春をとりこにした。


「未練タラタラね。まぁ、振られて一週間で立ち直れるわけないか」

「べ、別に未練なんて無いし」

「じゃあヨリ戻さないの?」

「それは……」


 聞かれたところで答えは決まっている。復縁は何よりも望むことだ。

 凛はこの二年の間恋焦がれた相手だ。その彼女をもう一度抱きしめることが出来るのならこれに勝る幸福は果たしてあるだろうか?


「分かりやすい奴……」


 沙彩はガックリ肩を落としてため息をついた。自らの愚かさを責められた気がして友人の顔をまともに見られなかった。


 凛が出ていった直後、自分はこともあろうか自宅で酒を飲んでいた。自分一人の部屋で鷹揚に構え、


「面倒ごとが消え失せた」

「女は面倒臭い」

「恋愛なんて時間の無駄だった」


 と傲慢な独り言を吐いて現実逃避していた。

 そして深酒に深酒を重ねると惰眠を貪り、目が覚めてようやくことの重大さを認識した。


 自分は最愛の人に振られた。幸せが自分の腕をすり抜けて遠くにいってしまったのだと。

 そして今、その喪失感と虚無感に胸を引き裂かれ、失恋に一人で耐え忍んでいる。


 沙彩はそんな自分の情けない悲劇の全てを見透かしているようで、情けなくて目を合わせられなかった。


「俺の何が悪かったのかな……」


 ビールから日本酒に酒を替え、お猪口に目を落としながら呟いた。揺らめく水面に惨めな顔の自分が浮かんでいた。


「『私を本当に好きなのか分からない』って言われたってどうすりゃ良いんだよ。想い合ってるだけじゃダメなのか……。一緒にいるんだから好きに決まってるじゃん……」


 口から出てくるのはため息と弱々しい声。後悔とも自己弁護とも取れる詫びしい彼の気持ちがダダ漏れになっている。その漏れて空になった分を埋めるようにお猪口の酒を一気に飲み干した。


 対して沙彩は何か言いたげに口をモゴモゴさせながらも、結局何も言わずうんうんと頷きながら彼の言葉に耳を傾けるだけに留まった。

 友人としてアドバイスをすることも、あるいは彼の元を去った凛との架け橋になると申し出ることも出来たはずなのに、相槌を打ってお酌をしてやるのだった。


「凛、今頃何してるのかなぁ……」

「さぁ、何してるかしらね」

「家帰ってお風呂でも入ってるのかなぁ。もしかしたらジムで運動してるのかな。でも木曜日はジムお休みだからやっぱり家かな。木曜日だからぐるナイ見てるかな」

「よしなよ」

「でも最近忙しいって言ってたから残業してるかな?」

「そんなに気になるなら連絡したら?」

「うーん……やめとく」


 幸春は一瞬逡巡したがあっさり引き下がった。


 本心では凛に連絡を取りたい。

 今何をしているか、何を思っているかを知りたい。会って直接話がしたいが、この際メッセージでも、電話でも構わない。

 しかしそれで素気なくされたらと思うと身震いした。


「パンドラの箱を開けても開けなくても人は不幸になる。だったら俺は開けないよ」

「それが良いわ。あんまり考えると辛くなるから、他のことに目を向ける方が良いわ。取り敢えずしばらくは仕事に打ち込んでみたら?」

「仕事に打ち込もうとして凛に振られたのに?」

「その循環思考をやめなさい」


 ピシャリと叱られ、脳天がチラチラした。沙彩は昔から男勝りな所があり、男子相手にも平気で食ってかかる少女だった。特に幸春には小学一年生の頃からの腐れ縁故の慣れがあるためか遠慮が無い。大人になって外面は淑やかになったものの、プライベートでは相変わらずである。


 だがその素朴で砕けた態度が妙に居心地が良かった。

 優しい女の子として慰めるでもなく、良き同僚として励ますでもない。

 気心の知れた友達として胸の内を赤裸々にし、真正面から受け止めてくれる実直さがかえって痛みを和らげてくれる気がした。


 お陰で表情にはぎこちないものの笑顔が戻り始めていた。

 だが心の傷は塞がってなどいない。空元気からげんきを浮かべたのは失恋の痛みを忘れたいがためであり、沙彩に情けない顔を見せまいとの見栄があったためだ。


 一方、対面の沙彩は何も語らず、心配そうに友人を観察していた。


 これが二人の正常な関係であった。

 子供の頃から付かず離れず、遠慮はせず、時に助け合うが踏み込みすぎない良き友人の関係。


 だがこの失恋をきっかけに、二人の関係は大きく動き出す。

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