第4話 孤独な男の涙
翌日土曜日、幸春は風邪が悪化したため寝込んだ。
三八度の高熱に身体を蝕まれ、立ち上がることもままならぬ有様だ。
熱だけでなく咳、鼻水、全身の倦怠感、悪寒、女にモテないなど様々な症状に見舞われ指一本動かすのも億劫であった。
「モテないのは関係ないぞ」
独り言を口にするところから幻聴も発しているらしい。
あまりにも症状が酷いため、午前中に力を振り絞って内科を受診し薬を出してもらった。それをゼリー飲料で流し込み現在は休養を取っている。
明日には良くなっているといいな。
そう祈り、ベッドに横になって一人寂しく天井を仰いでいた。
室内には物音ひとつない。時折外から原付のエンジン音や子供の元気な声が聞こえてくるだけであとは一切無音である。
自分以外にこの部屋には誰もいない。
この数日間、そんな当たり前の状況にひどく違和感を覚えていた。
幸春の住まいは1LDKの賃貸マンションだ。福岡に転勤になった際に契約した物件で、東京での住まいより家賃が安いのに間取りは広い。良い住処だと気に入っている。
気に入っている理由はそれだけではない。この部屋は恋人の凛と過ごした思い出の空間でもあった。
凛と仲が深まったらこの部屋にも招いた。テレビや映画を見たり、ゲームをしたり、料理を作ってもらったりした。
当然男女の営みもあった。
凛との初夜(つまり脱童貞の夜)、二人はこのベッドに並んで腰掛けていた。それまで楽しく会話していたことが嘘だったように揃って沈黙し、二人して赤面しながら手を繋いでいた。やがて緊張が解けた頃を見計らって口づけを交わし、そして一つなった。
そんな過ぎ去りし日々を想起しても昂るような感情は一切湧いてこなかった。
代わりに胸に充満するのは虚無と自己嫌悪だった。
付き合い始めてからの日々は――いや、西島凛という人を知ってからの日々は遅れてやってきた青春そのものであった。
桐原沙彩という女友達がいながら女子とのコミュニケーションが不得手であったため十代の頃はモテた試しがなく、まさに灰色の青春であった。大学生になって、東京で就職しても状況は大して変わらなかった。
ところが福岡に出向になって急にツキが向いてきた。凛と知り合ってからはトントン拍子に話が進んで仲が深まり、そのおかげで自分は凛と交際をスタートさせられた。
しかし最後の最後で大きな石ころに気づかず、派手にずっこけてしまった。
全く間抜けな話だ。もう少し凛の気持ちに寄り添っていればこんなことにはならなかったろうに。
そんな自分の至らなさを今になって嫌悪した。そしてあの温かな日々が戻ってこないと思うと焦燥に駆られ、ひたすらに虚しかった。
もう凛のことは考えまいと腹に決めていた。だが一度彼女のことを思い始めると様々な記憶が脳裏を駆け巡っていった。
彼女との馴れ初めの光景、片思いの切なさ、想いを受け入れられた喜び、自分を見つめる艶っぽい眼差し。
彼女は自分の五感はおろか第六感さえ揺さぶっていた。時に優しく、時に激烈に。
ふとサイドテーブルのスマホを手に取った。時刻は十四時。ドラッグストアで買ったゼリーを正午に食べて以来何も口にしていないためお腹が空く頃合いだった。
彼は半ば無意識のうちにメッセージアプリを開いて短い文章を立て続けに送った。
『風邪引いた』
『三八度』
『お粥作りに来て』
「凛……」
なんて身勝手なメッセージだろうか。
甘える前に言うべきことがあると分かっている。
だがその気持ちをどう綴って良いのか分からず、それどころか自分が病床にあると知れば水に流してくれるのではないかと都合良く考えていた。
その一方で「もし返事が来なかったら」「冷たく突き放されたら」と思うと怖くなった。自分への好意などとっくに消え失せていたら、愛と真逆の心境にあったら彼女はどんな顔をしてメッセージを読んでいるのだろう?
悲観的な想像をすると幸春の身体は一層寒さに凍え、ガタガタと打ち震えた。それから布団の中で丸くなり、しくしくと啜り泣き始め、泣いているうちに眠ってしまった。
三十歳間近の自分は立派な青年になっているはずだった。
だが現実の自分は最愛の人に詫びる謙虚さも勇気もない。それどころか一人取り残されたらとの想像からくる孤独感にただただ恐怖した。
「寂しい……寂いしよ、凛……」
加賀幸春はただの弱くて幼いアラサーであった。
*
どれくらい眠ったのか。
目を覚ましてスマホを確認するが、時計はさほど進んでいなかった。
ピンポーン。
そこにインターホンが来客を告げる。
一体誰かと訝しむ中、ネットショップで本を注文したことを思い出した。おそらくその配達だろう。
泣いて眠ったおかげで心身の不調は随分と良くなった気がした。横臥にも飽きたから届いた本を読んで気を紛らそうと前向きに考える。
すると行動は早かった。彼はインターホンを素通りし、モニターで来訪者の顔を確認することもなく玄関を開けた。
しかし来訪者は配達業者のドライバーではなかった。
「よ。お粥作りに来てやったわよ」
そこに立っていたのはエコバッグを腕から下げた桐原沙彩であった。
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