第5話 温かいお粥、温かい友達

「さ、沙彩……」


 玄関を開けた途端、水が滴るように声が漏れた。

 なぜ彼女がここにいるのか全く理解出来ない。


「やっほ。案外元気そうね。三八度も熱が出たって言うから一歩も動けないのかと思ってたわ」

「どうしてそれを……?」

「どうしてって、自分でメッセージ送ってきたじゃない。そら、お邪魔するわよ」


 沙彩は安堵の気持ちを浮かべたのも束の間、さも当然のように幸春の脇をすり抜け玄関に入っていった。


 沙彩はこの部屋に何度か遊びに来たことがある。その時は幸春も沙彩もそれぞれパートナーがいて、しばしば四人で宅飲みをしたものだ。

 そしてこれは全くの偶然であるが、彼女の自宅は徒歩三〇分圏内。自転車なら数分の距離にある。その気になれば気軽に来られる道のりだ。


 沙彩は会社に出勤する時とは違いラフな格好をしていた。ブラウスとスキニーのジーンズ、シュシュで一つ結びにした髪、薄い化粧。いつもの完璧な身だしなみとは異なる、おっとり刀な様子である。まるで急用が出来たから取るものも取らず訪ねて来た雰囲気に疑問が湧いた。


 なぜ彼女はそんなに慌てて来てくれたのか。


 その答えは彼女が自ら語っていた。病床の自分を心配してくれたのだ。

 ではなぜそのことを知っている?


『自分でメッセージ送ってきたじゃない』


 幸春はその言葉に思い至ると青ざめ、寝室に引っ込んでスマホを確認した。メッセージアプリの凛のチャットルームを開くが、履歴に送ったはずのメッセージはない。まさかと冷や汗かきながら沙彩のチャットルームを開くと……あった。


 とんでもなく呆けたミスをしたと知り、全身の毛が泡立つ。すなわち、あのぶっきらぼうなメッセージは沙彩に送ってしまったのだ。


「やっちまったなぁ……」


 今すぐ臼と杵で餅をつきたい。男は黙ってベンザブロック!


 沙彩にナヨナヨした姿を見せるのには抵抗がある。小学生の頃、彼女からひ弱だの男らしくないだのと馬鹿にされた経験から来る羞恥心のためだ。


「呼びつけたみたいで悪いことしちゃったな」


 彼女とは今でこそ良い友達だが、それでも欠いてはならない礼儀はある。『親しき中にも礼儀あり』だ。


 全ては自分の不徳の致すところ。

 とにかく謝らないと。


 そう自らに言い聞かせてキッチンに向かうと沙彩はテキパキと調理を開始していた。電子レンジでパックの白米の加熱や大根を切ったりを要領良くマルチタスクでこなしている。忙しそうな彼女に声をかけるのは憚られたが、意を決して声を掛けた。


「沙彩、あのさ、あんなメッセージ送ってすまん。今更だけど全然ほったらかしても良かったんだぞ?」


 だが悲しいかな、凛に送ったものだとは言えなかった。別れた恋人に心配してもらおうとしたなどとはあまりにも情けなく、恥の上塗りになるのは我慢ならず隠してしまった。


 あれはあくまで沙彩に送ったメッセージということにし、不遜な態度を詫びて水に流してもらうという一周回って情けない作戦である。


 沙彩は大根の処理に集中したまま振り返ることなく答えた。その声は少しムッとしており心外だと言いたげだった。


「水臭い。あんなの送られて無視するほど私は薄情じゃないわ。それにあなたが寝込む原因を作ったのは私なんだから、これくらいしないとバチが当たるわ」


 その言葉だけで幸春の胸はいっぱいになった。謝ったはずなのになぜか感動させられた。また自分がとんでもなく見当違いなことを言っていると反省した。


 沙彩は寝込んでいる自分を心配して駆けつけてくれたのだ。時間を惜しまず、労を厭わず。その優しさに対してまず言うべきことがあるではないか。


「ありがとう、沙彩。わざわざ来てくれて嬉しいよ」

「良いってことよ」


 彼女は振り返り、サムズアップしながら頼もしい笑顔を浮かべた。


「お粥、すぐに出来るから。それまで感謝の言葉と念仏を唱えながら横になってなさい」

「マジで感謝するけど念仏はいる?」


 *


「沙彩さん特製『卵と大根粥・鶏出汁風味』! 熱いから気をつけてね」


 ものの十分ほどで調理は完了し、ダイニングに呼ばれてテーブルに着く。目の前にはホカホカ湯気をのぼらせるお粥が茶碗によそわれている。

 合掌していただきますを言い、スプーンでお粥を口に運ぶ。


「どう? 美味しい?」


 正面に座る沙彩が目配せしてきた。


「んまい」


 お粥を飲み込んだ口からは無意識のうちに本心が溢れていた。

 大根の風味と卵のまろやかさが優しい味を演出しつつ、鶏出汁がアクセントとなって病みつきになるではないか。空腹も相まって匙は面白いほど進み、あっという間に平らげおかわりをよそってもらった。


「沙彩って料理上手なんだな」

「そりゃ女の子ですもの。これくらいお茶の子さいさいよ」

「おぉ、さすがは毎日弁当作ってるだけのことあるな」

「……あれはほとんどレンチンよ」


 バツが悪そうにはにかむ沙彩だが、幸春からすれば十分立派である。自分など気が向いたらおにぎりを作るくらいで大抵は会社近くのサブウェイで済ませてしまう。


「身体が栄養欲してるから何杯でも食べられそう」

「あんまり慌てて食べると今度はお腹壊すわよ?」


 沙彩は冗談めかした口調で嗜める。だが飢えた身体はブレーキが効かない。


「辛い思いをして身体が参っちゃったのよ。それ食べたら薬飲んで寝なさい」


 沙彩はお母さんのような優しい口調でそう諭した。ついでにテーブルに置いてあった薬局の紙袋から一回分の錠剤を切り取り、そっと差し出す。


 沙彩は自分より後に生まれたためむしろこっちが少しお兄さんなはず。しかし彼女は昔から自分に対して何かと指図口調でお姉さんぶったところがあった。

 一方の幸春はといえば利発な沙彩にいつも押され気味で特に反発しようという気持ちを抱いた記憶はない。不満は無かったわけではないが、今となっては半ば自然結果とさえ思える。


 まさに人間関係の力学ダイナミクス

 優劣や上下関係ではなく、静と動、あるいは陰と陽。

 原初からそうであったのだから、今も変わらない。


 だが変わったこともある。


 沙彩は大人になってすっかり綺麗になった。昔から可愛い容姿をしていた彼女だが、よほど充実したキャンパスライフを過ごしたのか再会した時には女らしさに磨きがかかっていた。

 テニス部で鍛えた体躯は強靭さと共にしなやかさも兼ね備え、惚れ惚れするスタイルを誇っている。顔も可愛らしさを残しながらも大人の女性らしく綺麗に洗練されている。


「ユキ、どうしたの? そんなに見つめられるとさすがに照れるわよ」

「い、いや……なんでもない。沙彩は良いお嫁さんになれるなと思って」

「な、何を出し抜けに……」


 幸春は照れ隠しにそんなお世辞を口にした。女友達相手にまさか「見惚れてました」とは恥ずかしくて言えず、苦し紛れなことだ。

 言われた沙彩はまさか腐れ縁元同級生から急におだてられるとは思いもよらなかったのかひどく驚いている。顔を赤くしてパタパタと手の平で顔をあおいでいた。

 さすがにちょっと芝居っぽ過ぎたかと幸春は反省した。


「ところでユキ。あなた、目元が腫れてるけど、泣いてたの?」

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