第6話 アラサーの苦悩

「ところでユキ。あなた、目元が腫れてるけど、泣いてたの?」


 唐突に問われ、お粥を掬う手がぴたりと止まる。恐る恐る視線を正面に向けると沙彩は大層怪訝そうな視線を向けていた。


「何か嫌な夢でも見た?」


 重ねておずおずと心配そうな声で問われる。


 古今東西、男とは女に泣き顔を見られたくない生き物だ。幸春もその例に漏れない。故に普段なら誤魔化すところだが、この時ばかりはなぜか口が緩んだ。

 風邪で弱っているせいか、あるいは心のどこかでその言葉を待っていたのか……。


「凛のことを思い出してた……。そしたらなんだか悲しくて泣いてたんだ」


 沈黙が漂った。

 沙彩は驚きも笑いもせず、自分事のように物憂げな顔をして黙りこくる。やがて、


「ユキ、西島さんとのこと力になれなくてごめんなさい」


 悲痛な声でそう詫びたのだった。まるで全ての責任は自分にあると本気で思っているかのような苦々しい面持ちであった。


 沙彩と凛は知らぬ間柄ではない。そもそも凛との縁は沙彩あってのことだ。


 西島凛は沙彩の大学時代の一学年下の後輩だった。沙彩はスポーツ推薦で福岡大学に入学してテニス部に所属し、そこで知り合ったのだという。


 そして幸春が凛と出会ったのは福岡に戻って間もない頃、彼女と出会った。


 その出会いは全くの偶然であったが、その時に何か運命めいたものを感じたことは鮮明に覚えている。そのため沙彩に頼み込んで仲を取り持ってもらい、後押しもあって無事交際が始まった。


 沙彩が責任を背負い込もうとしているのは自分が紹介した手前、破局の前に相談の一つも受けてやれなかったことに負い目を感じているからだろう。


「よせよ。俺が凛の寂しさに気づいてやれなかったことが……心を繋ぎ止められなかったことが原因なんだ。沙彩は何も悪くない」


 気を遣われてしまい、かえって幸春の方が恐縮してしまった。

 同時に自分で選んだ言葉に戸惑いと納得を感じていた。


 自分の何が悪かったのか、何が足りなかったのかまるで分かっていなかったと言うのに、この瞬間ある種のを授かった。


 すなわち、凛が自分から離れていったのではなく、自分が凛を蔑ろにしていたのだ。


 幸春は幸福なことに仕事は嫌いではない。新卒で入った会社を辞めてRayに転職してからはやりがいを持って働けているし、待遇にも満足している。ITの勉強も苦にならず、私生活も半ば仕事の時間のようなものだった。


 今思えば彼女はそのことに不満があったのだろう。仕事のためとはいえ彼氏が自分以上に何かに熱中していては面白いはずがない。


 そのことに幸春は気づいてやれなかった。それどころかこの頃は輪を掛けて凛を視界の外に追いやってしまった。


 その理由は、一つしか思いつかない。


「なぁ、沙彩。俺達、もうすぐ三十歳だな」

「そうね、あと一年ちょっとでお互い三十路みそじよ」


 妙齢の女性に歳の話をするなど配慮に欠ける。だが沙彩は微かな苦笑を浮かべただけで不快感を表すことはなかった。


「三十歳って嫌な響きだよな。二十歳はたちと違って何も解禁されない。職場や社会では若造扱いされるけど、『もう新人じゃないから』ってそれなりの仕事ぶりを期待される……。若造なのに一人前の活躍を要求されて、でもなぜか型落ちっぽくって年下の奴らが羨ましく見える。そんな年齢なのかなって思うんだ……」


 とりとめのない気持ちの発露。

 幸春は自分でも何を言っているのかよく分からなくなった。それ故、もう少し要領良く語ろうと考えを巡らせる。だが凛を傷つけてしまった責任を自覚し、不安定になっていた心は上手く言葉を作り出せずにいた。


 だが沙彩にはそれで十分だった。

 彼女は穏やかな面持ちでひたすらに傾聴し、幸春の苦悩を受け止めた。

 そして包み込むような声で彼の気持ちを代弁したのだった。


「ユキ、プレッシャーを感じてたのね」


 コクリ、と深く頷く。プレッシャーという言葉は欠けていたパズルのピースで、彼の思考にピタリとはまって気持ちをクリアにさせた。


 幸春が福岡に出向したのは本社との人材交流とニアショア拠点のテコ入れという会社上層部の意向を端にする。

 福岡子会社は既存サービスの保守運用を担当することを目的として設立された。またゆくゆくは企画や開発も担う『第二の中枢』にするという壮大な目的が経営陣にはあるらしい。

 幸春はその計画を成就させるために送り込まれたエージェントの一人というわけだ。


 その野望を聞かされ、出向を頼まれた時、幸春は正直嬉しかった。

 自分の属する会社がどんどん大きくなることにある種の誇りを感じられた。何より、福岡出向は自分これまでの努力を認められた証なのだと自負していた。


 だがしかし、この頃は不安に苛まれていた。


「同時期に出向した磯野と中島は東京に戻された……。俺より後に来た花沢もだ。皆、今は東京で希望するポストで働いているらしい……。俺一人だけ、ここに取り残された……」


 即ち劣等感。

 自分は周りに劣っているのではないか、同僚から頼りないと思われてないか、会社から落第点を与えられていないか、自分は必要とされている人間か。

 明確な基準も見つけられないまま己を審査しては「もっと頑張らねば」と尻に火をつけ、世の中での自分の立ち位置に悩み続けていた。


 そんな不安を拭い去ってくれたのは他ならぬ恋人の存在であった。


「同僚が東京に帰っても、凛がいてくれたから寂しくなかった。福岡の人達の目が気になっても、凛が褒めてくれれば安心出来た……。凛は心の支えだったんだ。凛がそばに居る限り、福岡に居続けたいと思ってた。でもそれは都合の良い言い訳だった」

「ユキ、それ以上は言わなくて良いのよ」


 沙彩はわなわな震える彼の手をそっと包み込んで優しく宥めた。だが心の均衡を崩しつつあった彼の口は閉じる気配が無い。


「自分の代わりに他の奴が東京に戻る度に『凛と離れずに済んだ』って思うようにしてた。本当は東京に戻れなくて悔しいのに、凛を使って自分を納得させてたんだ。『凛との生活があるから東京には戻れない』なんて言い訳まで考えて。会社には凛との生活のため東京に未練が無いふりをして、そのくせ凛には仕事に打ち込む社会人を演じてた。とんだ二枚舌だ……」

「ユキ、もうやめて!」


 沙彩の金切り声の悲鳴が部屋にこだまする。

 半狂乱だった幸春は正気を取り戻し、ピタリと言葉を絶った。


「ごめん。ワーっと一気に喋っちゃって」

「大丈夫。こっちこそごめんね」

「沙彩が謝ることなんて何も無いだろ?」

「いいえ。あなたがそんな風に思い詰めてるなんて気付けなかった。友達ならあなたが悩んでいることに気づいて、相談の一つでも乗らないといけないのに」


 沙彩は目を細め、唇を引き結んで項垂れた。その表情からは今の言葉が本心からのものと窺い知れた。


 のべ十五年にして、沙彩がここまで優しくしてくれる人とは知らなかった。それだけに仕事と恋愛の相談をしてこなかったことが悔やまれる。


 暗澹あんたんとした幸春の心境を察知したのか、沙彩は優しい声音で話し始めた。


「ねぇ、ユキ。私はね、あなたが本社で働いている人達に比べて劣ってるなんて少しも思ってないわ」

「……世辞はやめてくれよ」

「お世辞じゃないわ」


 ピシャリと断言された。伏していた目を開け彼女の顔を見る。目は依然として細められていたが口元には優しげな微笑みが浮かべられていた。


「皆、口にしないだけであなたの働きぶりに一目置いているわ。上の人達も評価してる。それに、福岡の社員の間では『加賀さんは相談しやすい』って評判なのよ?」

「え?」


 最後の評価はかなり意外なものだった。幸春はコミュニケーションが上手いとの自負は無い。むしろ少し苦手なくらいで多々反省点を見つけてしまうくらいであった。

 その自己評価を伝えると沙彩はかぶりを振ったのだった。


「ユキは質問や相談を持ちかけると親身になってくれるから安心するって萌花ちゃんが言ってたわ。あの子だけじゃない。あなたの同僚や後輩は皆、あなたを頼りにしてるの。上の人達もそのことを知ってるからあなたを留めておきたいのよ」


 手に力が込められる。それはふわふわ飛んでいってしまいそうな自分を引き止めようと手綱を握るように。


「だから自分を責めないで。価値のない人間だなんて思わないで。あなたは私達から望まれてここにいるのよ」


 真っ直ぐに見つめてくる瞳には曇り一つ無い。それが彼女の率直な気持ちなのだ。


 そんな温かな言葉を贈られ、張り詰めていた心が徐々に緩んでいく。


「沙彩、ありがとう」


 気づけば感謝の言葉を口にし、空いていた手を沙彩の女性らしい小さな手を包み込むように乗せていた。繊細な宝物を離すまいとするように。


 つーっと涙が頬を伝って流れる。幸春はしくしく嗚咽混じりに泣き、やがて声を上げで号泣した。そんな自分に沙彩は立ち上がって寄り添い、背中を優しく撫でてくれた。


 泣いている間に胸の中からは孤独への恐怖感が消え去っていた。代わりに居場所を得たとの安堵感と良き友に恵まれた喜びが胸いっぱいに満たされる。


 一人思い悩んでいたアラサーは、腐れ縁の女友達に救われたのだった。

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