第7章 ここから始まる――
「急に呼び出して申し訳ないね。ちょっと桐原さんに訊きたいことがあってね」
週末が明けて迎えた平日のこと。Rayのオフィスの端にあるガラス張りのミーティングルームに呼び出された沙彩は開口一番にそう切り出された。
十名以上の座席が用意されている会議室だが、ここにいるのは自分を含めて三人だけ。がらんとした空気があるものの、ガラスの外側では同僚達が今も忙しく働いているため不思議と寂しさは無い。
「訊きたいこと……一体なんでしょう?」
沙彩は泰然として向かい合って座る二人の片方――種田に用向きを尋ねた。
種田は沙彩達が所属するサービス運用部門の部長で、つまり直属のボスである。肥満体のアラフォーで、冷房の効いたオフィスでも常に汗をかいている印象がある。
「単刀直入に訊くけど、加賀くん、会社辞めたがってない?」
「え?」
予想外な質問に沙彩は上司相手にも関わらず素っ頓狂なリアクションを取ってしまった。
幸春が会社を辞めたがっているとは、これいかに?
首を傾げたまま沈黙する沙彩を置き去りに種田は続ける。
「加賀くん、ここ最近元気が無い気がしてね。仕事にやりがいを持てないとか、疲れが抜けないとかで悩んでるんじゃないかと心配してるんだ」
「はぁ……」
「特に先週からは例の急な退職者の引き継ぎも押し付けちゃったから、思うところがあるんじゃとね」
「あぁ、あれですか」
沙彩は幸春の受難を思い起こす。
つい先日、彼女らの同僚のエンジニアが退職した。それを種田は『急な退職』とマイルドな言い方をしたが、実際にはバックれたという方が正しい。そしてバックれた社員の分の仕事は幸春が一時的に面倒を見る羽目になったのだ。
「加賀くんもよく知ってるシステムだから一旦預けて大丈夫だろうと踏んでたんだが……。桐原さんから見てオーバーワーク感はないか意見を聞かせてもらえないかな?」
「オーバーワーク……ですか? 確かに当初は大変そうでしたが、それで参ってる感じはありませんよ? あと、そういったことは石神さんとかに聞いた方が的確なのでは? 半人前エンジニアの私じゃ彼の立場に立てるかどうか……」
沙彩は自分の感じたままに答える。そのついでに適任者の名をあげた。
その石神もまた運用部門のエンジニアだ。年下だが幸春と同じく大学はIT専攻で職歴もIT一筋なため、似たもの同士仲が良い。ITについて造詣が深い分、幸春の境遇を理解出来ることだろう。
「『シーザーを理解するためにシーザーである必要はない』だよ、桐原さん」
と、格言めいた言葉を用いて穏やかに諭すのは種田の隣に座る水嶋である。
四十代半ばくらいの水嶋は福岡子会社のエンジニアリング部門の執行役員。種田よりポジションは上で、つまり彼女らの大ボスだ。
「それに、加賀くんの性格上、なまじ同類の石神くん相手じゃ弱みを見せないだろうからね。彼、真面目だから自分からギブアップしそうにないし」
「それ、当たってます!」
「うんうん。その点、桐原さんは昔からの友達だから愚痴の一つでも聞かされてるんじゃないかと思ってね」
水嶋はニコニコしながら訳を話した。
彼の推測は的を得ていると思う。確かに幸春の性格上、仕事上の関係者にナーバスな話を控える傾向にある。
それを見抜けるのはやはり年長者としての経験を積んでいるためであろう。
沙彩は脳内で会話を整理した。
上司二人は幸春に元気が無く、その理由が仕事がキツいことで、しかも退職を検討していると予想している。
沙彩にしてみればこの予想は五〇点だ。
彼は確かに仕事のことで悩んでいたが、最大の理由は失恋だ。
そのことを隠しつつ、どう返答するか。逡巡した末、恋愛事情は伏せてありのままに答えることにした。
「加賀はうちを辞めるつもりは無いと思います。仕事がキツいとか漏らしてないし、福岡オフィスに居心地の良さを感じてます。やる気もあるっぽいです。先日そんな話をしまして」
沙彩はまた自分の思うがままに答えた。上司二人は喜色を浮かべ続きを促す。
「ただキャリアアップとかに思うところがあるみたいです。自分だけ子会社に取り残されてる感があって不安というか……」
「それは、東京に帰りたいってことかい?」
種田が食い気味に尋ねる。その鬼気迫る表情は幸春が頼りにされている証左に思え、沙彩は少し誇らしかった。
しかしその問いには答えあぐねる。
「分かりません。多分、それは本人も答えを出しかねてると思います」
「なるほど。それは僕らが当人と話してみる必要がありそうだね」
水嶋はうんうん頷きながら呟いた。どうやら自分が口にしたことは有益だったらしく安堵された。
「いやぁ、持つべきものは友達だね。今時分、そこまで気持ちを明かせる友達がいるとは、二人は幸運だよ」
水嶋は上機嫌でおだてる。オーバーな言い方だが満更でもなく、沙彩は照れ笑いをした。
「そこまでの間柄では。それに働く男性の気持ちってよく分からないです。仕事が大事なのは察するけど、そればっかりになるのはいかがなものかと……」
「言ったでしょ? 『シーザーを理解するためにシーザーである必要はない』」
「それ、格言ですか?」
「あ、知らないんだ……」
*
会議室を後にした沙彩は自席に戻る途中で幸春とばったり
「お疲れ。今からランチだけど、どう?」
「えぇ、行くわ」
エレベーターの中で二人きりになり、幸春が切り出す。
「何の話だった?」
「『シーザーを理解するのにシーザーである必要はない』そうよ」
「そいつはもっともだ。会社はバックれるようなやつを基準に動くわけにはいかないからな」
話が全然噛み合ってないが、沙彩は何も言わなかった。
操作パネルを見つめる幸春もまたそれきり黙り込んだ。どうやら彼の頭には仕事のことしかないらしい。
そんなんだから悩んで泣いちゃうのよ。
沙彩は心中呆れ気味になる。だがそんな自分がひどく冷淡に思え嫌になった。
水嶋は自分達のことを『気持ちを明かせる友達』と表現した。今まで改まって意識したことは無かったが、それは真実なはずだ。
幸春が自らの胸の内を明かしたように、かつて自分も苦しみを吐露したことがあった。そしてその時、彼は立ち直るまで寄り添ってくれた。
ならば今度は自分がそのお返しをする番だ。
それがきっと友情なのだから……。
沙彩は胸の内で熱を帯びる気持ちにギュッと息苦しさを感じながらそう自らに言い聞かせた。
「ねぇ、ユキ。次の土曜日空いてるでしょ? ちょっと付き合いなよ。気晴らしに連れて行ってあげるから」
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