Suspended 1

 東京の金曜夜は特に賑やかだ。「華の金曜日」略してハナキンと呼ばれるくらいだから、どんな人も週末の楽しみを糧にして生きているんだろう。

 俺とヨリコの前でいちごパフェを頬張る田中さんも例外ではない。彼女は俺の英会話レッスンを受けていた。吸収力が高く、こちらが教えたイディオムをすぐに会話に取り入れる柔軟性もある。えも言われぬ達成感で教師を気持ちよくさせてくれる受講生だ。なぜ彼女と俺たちが深夜のファミリーレストランにいるのかというと、話は数分前に遡る。溜まりに溜まったストレスを発散させるため、俺はヨリコを誘ってキャットストリートにあるカラオケボックスに行った。夢中で歌うのに疲れて休憩していると、隣の部屋から聴き馴染んだ歌が流れてきた。

「ジーン・サンレノか。渋いチョイスだな」

 隣人は九十年代を代表する歌手の曲ばかりを好んで歌っているようだった。

 終わって部屋から出ると、隣室のドアが開き、伝票を持ったメガネの女性がほぼ同時に出てきた。独りカラオケに興じていたのは田中さんだったのだ。

「正直、田中さんみたいな若い女性がジーン・サンレノを知ってるなんて、驚いたよ」

 俺はしみじみと言った。

「大好きなんです。今度の日本武道館のチケットも買いました」

 田中さんはスプーンを持つ手を止めて、恥ずかしそうに俯くと、続けた。

「英会話を習い始めたきっかけも、彼なんです。もしどこかで会ったら、お喋りがしたくて……」

「まぁ、素敵」

 ヨリコは瞳をキラキラと輝かせた。

「愛の力って偉大ね。良ければ、田中さんがジーン・サンレノを好きになった理由を知りたいわ。職場の先輩の影響とか?」

「仕事は、してないんです。辞めました」

 俺とヨリコは顔を見合わせた。

 田中さんの話はこうだった。子供の頃にいじめられた経験から、自分に自信が持てなかった。やがてアパレルショップ店員となった彼女は職場で地味に過ごしていたが、ちょっとしたことで空気が変わってしまった。接客した顧客から感謝の電話を受けた店長が、全店員の前で彼女を褒めちぎったのがきっかけだったという。年次の高い女性店員を中心に、その日から嫌がらせが始まった。彼女を露骨に無視したり、必要な連絡を回さなかったり、わざと商品を散らかして片付けさせたりなど、にわかに信じがたいようなレベルの低いものだった。

「同僚の視線に居た堪れなくなって、退職を願い出た帰り道、街頭の大型スクリーンに映るジーン・サンレノの古い映像が雨の向こうから目に飛び込んできて……優しい歌声に励まされた気がして、その場で泣き崩れてしまいました」

 田中さんは再び俯くと

「こんなことで泣くなんて、恥ずかしいですよね」

 えへへ、と愛想笑いを浮かべ、右手でぽりぽりと頭を掻いた。

「どうして田中さんが辞めるんだ」

 俺は思わず大きい声を出していた。

「俺には分からないよ。どうして何も悪くない田中さんが辞めて、そんな奴らが残るんだ。悔しくないのかい? どうして見返してやろうとしないんだ」

 しばらく沈黙が流れたのちに、田中さんは、ふっと口元を緩ませた。

「もちろん、悔しくないと言ったら嘘になるんですけど。やり返してやるとか、見返してやりたいとか。そういうのは思わなかったんです。相手の思う壷のような気がして」

 メガネの奥の目は、穏やかな光をたたえていた。

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