第13話
英会話教室には大きく分けて三つのコースがある。
ひとつはこちらが用意したレジュメを使用し、複数の受講生で文法から発音までレッスンするコース。最も典型的であり、殆どがこのパターンだ。 もうひとつはTOEICや実用英語技能検定試験、英検など目標の語学検定試験に合格するためのコース。これは各試験の直前期になると受講申し込みが殺到する。短期間でがっちり稼げるので講師としてはおいしい仕事となっている。 最後は講師と受講生とのマンツーマンでの個人レッスンだ。俺は英会話講師としての日は浅いので、まずは個人レッスンでだんだんと仕事に慣れていく方針となった。
個人レッスンの受講生にもパソコン教室同様、いろんなタイプがいた。日本の首都・東京の大ジャンクションである渋谷駅徒歩十分という好立地条件から、仕事帰りのビジネスマンがその多くを占めていたが、彼らは個性的な性格の持ち主であった。ドバイの支店へ転勤となった某広告代理店の営業マン・高橋さんもその一人である。海外赴任する前に英会話を習いたいと当教室の門を叩いた立派な志をお持ちの方なのだが、会話の内容がいつも奇抜だった。
「ミスター高橋、しばらくお会いしませんでしたが、ご機嫌いかがですか」
「先生、ご無沙汰しています。実はここしばらく風邪を引いていて大事を取ってお休みしていました」
筋骨隆々でいかにも「健康がとりえ」を絵に描いたような高橋さんが体調を崩すなんてかなり意外だった。
「それは大変でしたね。夏風邪は治りにくいと聞きます。お仕事がお忙しいのですか?」
普通にしていて高橋さんが病気になるはずがないと思ったのだ。
「いいえ、繁忙期でもありませんし、仕事量は至って通常通りです。ただ、クライアントが久々に少しばかり過激な要求をしてきましてね。でも僕たち営業の人間にとってクライアントの命令は絶対服従なので逆らえません。ということで、やってしまいました」
俺はここまで聞いて話の要領を得られなかった。不思議そうな顔をしていると、
「先生、北海道の湖は夏でも結構水が冷たいんですよ」
「まさか」
俺ははっとした。高橋さんはニッコリとして続ける。
「ええ、そのまさかです。先日、出張で北海道に行ったのですが、先方が長い間ご無沙汰してしまったお得意様なので、お詫びの印として宴席を設けました。ススキノでも指折りの高級店なのですが、それでもお気に召さなかったようで。どうすればご機嫌を直していただけますかとお尋ねしたら、こう言われたんです」
高橋さんはこほんと咳払いをする真似をした。
「では高橋さん、日本最北にある湖をご存知ですか。そこに人が飛び込んだら、面白いと思いませんか、ってね」
「そんな無茶な」
もはや叫び声に近い大きな声が俺の口からこぼれた。
「ですよね。だけど、僕たちはクライアントがやれと言ったらやるんです」
高橋さんの表情は変わらなかった。
「もちろん、僕たちは日本最北にある湖なんて知らなかった。でも、後日クライアントに連れて行ってもらって。もちろん僕たちは飛び込みました。やっぱり冷たかったですよ。今が冬じゃなくて良かったなぁ」
遠い目をして過ぎた日を振り返り、水の冷たさを思い出したのか高橋さんは身ぶるいした。湖のなかでお笑い芸人さながらのリアクションを取る四十過ぎの男を想像した。くすっと笑えた。
高橋さんの淡白な口調から察して、こういった事は日常茶飯事なのだろう。もし、重客であるクライアントに死ねと言われたら、広告代理店の営業マンは迷うことなく死ぬんじゃないだろうか。明確な根拠こそ無いが、俺はそう確信してしまった。
「オーマイガー」
心から俺は彼らに同情した。日本経済を支えるビジネスマンの哀愁に敬意を表せずにはいられなかった。
「あはは、外国の人って本当にオーマイガーって言うんですね」
くったくなく無邪気に笑う高橋さんが俺はちょっと怖かった。俺は右手を額の横にかざして敬礼してみせた。高橋さんも真似して敬礼した。しばらく二人ともそのままで動かなかった。
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