藝妓と女給 ー 舊字舊假名 ー

  藝妓げいぎ女給ぢよきふ



 杯洗はいせんの中で二、三度振濳ふりくゞらせて引上ひきあげ、水を切つて差したのだが、それ押返おしかへすやうに、片方のたなごゝろ衝立ついたてにして此方こちらに向け、しずかに首をよこつた。

 行けない口かねとたづねるとそつと首をたてに振る。ほんの一滴ひとしづくでも口にすると、たちま心持こゝろもちが惡くなり、起きてゐられないのだと云ふ。

 仕方無しかたなしに突出つきだした手を引込ひつこめようとしたら、おもむろに銚子てうし取上とりあげ、引かれていく手中しゆちゆうさかづきに、注口そゝぎぐちかたむけながら差伸さしのばして來たので、自分も引く手をとゞめて酒を受けた。

 其流そのながれるやうな藝妓をんな仕種しぐさに、何となく自分の心持こゝろもちが寄せられるやうに思つた。


 それかれと自分とが馴染なじみになつた端緖はじめである。あれは、誰かの送別會そうべつくわいでゞもあつたゞらうか。


 其后そのゝちは、贔屓ひいきと云はぬまで宴席えんせきで顏を見る事は頻繁しば〳〵であつたし、料理屋にあがつてひとり飯を食ふ時に、何とは無しのさむしさに呼んだ事もある。

 大口おほぐちの取引があつた或紳商あるしんしやうと一席をまうけたをりに來てもらつた事もある。


 其時そのとき主賓しゆひんかれいたく氣に入つた樣子やうすだつた事は、判然はつきりと記憶にある。たゞ、十人以上が集まつた座敷で、自分は末席に近かつた事もあり、藝妓と主賓とが何を話してゐたのかは判らなかつた。

 さうして、其宴席以降そのえんせきいかう藝妓をんなかほを見る事が途絕とだえた。


 うはさは色〻と聞こえてきた。


 れい紳商しんしやう落籍ひかされたのだとも聞いた。或いは、藝妓をんな元來もと〳〵貴顯きけん出乍でながをさない頃に沒落ぼつらくし、やが身寄みよりも無くなり色町にたくされたのであつたが、或堂上華族あるだうじやうかぞく緣戚筋えんせきすぢたる事が近頃ちかごろ當家たうけの耳につたはり、寛容くわんようなる當代たうだい斟酌はからひによつて引取ひきとられたといふ話もあつた。いづれもどうも根拠こんきよともしいやうな話許はなしばかりで、中には肺尖はいせんカタルになつたとか、心中しんぢゆうしたとか、さういふたぐひのものも含まれてゐた。


 それから一年程して、自分は惡友の一人に連れられて行つたカフヱエで藝妓をんなを見掛けた。今は女給ぢよきふになつてゐる。

 おどろいた。

 斯樣こんところに落ちぶれてしまつたのかといさゝあはれなやうにも思はれた。


 しかし、話をしてみると、その女給ぢよきふ藝妓げいぎとはまつたく別人であつた。いや、全くの別人といふのも少しあたらない。

 女給によれば、藝妓げいぎ雙子ふたごあねなのだと云ふ。

 出自が堂上家だうじやうけだといふのも、沒落し身寄みよりが無くなつたといふのも其通そのとほりで、當初たうしよ姊妹共しまいともに自家の家禮けれいあた緣者えんじやあづけられたといふが、其處そこも沒落のき目にい、姊は置屋おきやに妹は耶蘇やそ系の孤兒院こじゐんに引取られたらしい。

 夫以后それいご、二人がかほを合はせた事は一度も無いのだといふ。

 したがつて、藝妓の顚末てんまついても、妹は全く情󠄁報じやうほうを持つてをらず、むしろ何の關心くわんしんも無さゝうな、冷淡れいたん態度たいどを示した。


 さういふものだろうか。血を分けた、しか雙子ふたごの姊にたいする心持こゝろもちの示しやうが、かうも寒〻さむ〴〵としたものになり得るのだらうか。

 自分にはいさゝに落ちぬ感があつたが、それ以上は深く氣にもとゞめず、はたして此日以降このひいかう此酒肆このみせには月に二、三度通ふやうになつた。

 一人で來る事もあつたし、友人と一緖いつしよの事も多かつた。


 藝妓げいぎだつたあね女給ぢよきふの妹。

 見た目では自分にはまつた區別くべつかない。こゑ調子てうしも、仕種しぐさも、瓜二つ。

 たゞ仔細しさい觀察くわんさつすると、姊は何方どちらかといふと稍古風やゝこふうでおつとりとした雰圍氣ふんゐきがあり、妹は現代的げんだいてきさばけた樣子やうすが何とは無しに見て取れた。しかるに其差そのさといつても極〻ごく〴〵わずばかり。自分は屢〻しば〳〵二人を混同こんどうし、おのれたいして、否〻いや〳〵それちがふとたゞした事も數知かずしれず。


 一つ閒違無まちがひないのは、自分が姊にたいしていだいてゐたほのかな氣持きもちほとん同樣どうやう興趣きようしゆ此妹このいもうとに對しても持つてゐるといふ事であつた。




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