裏店

 道の脇に蹲踞しやがんで棒の先で土の上に何かをいてゐる。

 尻に端折はしよつてゐた著物きものの裾が、何時しか帶から外れて地面に埀れた。

 あまつさへ、其處そこにあつた小さなみづたまりに浸つて、汚い水を吸上げ始めたを此子このこ氣附きづいてゐない。

 一心に棒の先を振るつて幾つもの線を地面に刻んでゐるが、何をいてゐるのか、はたから眺めたとて判別は附くまい。 

 しかるに、柱に縛られつゝも足趾そくしの筆と淚滴るいてきの墨とをもつ猛鼠まうそを生ぜしめた雪舟禪師せつしうぜんじよろしく、柯條かでうの筆を以て赭土しやど畫布ぐわふいどめるこの小さな畫工ぐわこうは、すで三昧境さんまいきやう沒入ぼつにふし、空無邊所くうむへんしよ禪那ぜんなにある。

 さうした寂靜じやくじやうおかして、ふと、その鼻の先の視野しや這入はいつて來た、何やら白い物がある。

 ケンバスの夏靴に、麻の夏洋袴ズボン

 子供の意識が彼岸から此岸しがんに戾り、顏を上に向ける。

 子供の視線の先には、帽子でかげになつた男の顏と、背景に大理石マーブルのやうなまだら模樣の雲があり、其雲そのくもを鮮やかな碧空へきくうがずん〴〵裂きひろげる所を隙閒すきまから初夏の日があふれ、見上げる雙眸さうぼうをかつと射る恰好かつかうである。

 男が見下ろす子供の、たゞでさへ薄汚れたその顏には、鼻孔びこうの下に二條にでうからなるはなの川が半ば乾きかけてゐる。

ばう――、坊は何を描いてゐるのかね?」

「――知らない……」

 子供が起立たちあがる。

 果して、泥水を浸潤せしめてゐた著物きものの裾が地面を離れ、子供の脹脛ふくらはぎまとはり附いた。突然の冷やりとした不快に驚いたのであらう、しば背后はいごを氣にして濡れた著物を絞るやうにつかんでゐる。

 其樣子を、卅恰好さんじふがつかうの紳士が、綺麗に刈揃かりそろへられた立派な髭の口許くちもとを綻ばせながら見下ろしてゐる。

 一體いつたいかれ風體ふうていはと見れば、目の細かい巴奈馬帽パナマに、糊の良く利いた舶來と覺しき亞麻リネン襯衣シヤツ其强そのこは高襟ハイ・カラには粗織あらおりの夏物の襟飾えりかざりが結ばれ、上から下まで火熨斗ひのしの良くあたつた眞白なる三揃みつぞろひ

 洋服姿と云つても巡査ならばいざ知らず、官憲でもなければ、斯樣かやうな立派な風采が、狹くて薄汚い橫丁の奧迄おくまで遣つて來る事抔ことなど金輪際こんりんざいあるはずも無い。

 實際じつさい數軒すうけん手前の長屋で、子を負ぶつたかみさんが、其儘そのまゝ後架こうかに行かうと入口を開けた所、あたかも見慣れぬ白裝束しろしやうぞくが橫切つて行くのを目にし、氣壓けおされたのか再び戸の蔭に隱れたはいが、つひには用便にも行きあへで、子供と紳士との應對おうたいを覗く仕儀となつてゐる。

「――をぢゝやん、だあれ?」

 まぼしさうに男の子が訊ねる。

小父をぢさんかい? 小父さんはね、人を搜しに來たのさ―― 御前おまへこゝいらの子だね」

「うん」

「そんなら、小助と云ふ人は、この近くには、るまいか?」

 男の子は、その汚れた顏に、はつとした表情󠄁を閃かせた。

 こすけ? おとつさん?―― 子供はぽかんと口を開けたまゝ、何も云はない。

「知らないかね? では、娜津なつと云ふ女の人は?」

 なつ? 愈〻いよ〳〵かれは驚いた。小助と娜津なつとは、自分の兩親ふたおやの名だつたからである。

 此小父このをぢさんに何と答へたものか、小さな頭が混亂こんらんする所に、

「あのう…… ――もうし、旦那樣……」

 戸の蔭から眺めてゐた先程のかみさんが、表に出て來た。

 こゑの方角を紳士が見遣みやる。其穩そのおだやかなる眼差まなざしに、神さんの張詰はりつめてゐた氣持も少し和らぐやうであつた。

「あのう、小助さんとお夏さんでございますか? そのお二人なら、この坊のてゝおや、はゝおやでございますよ……」

 其言葉に紳士の顏が莞爾かんじ耀かゞやいた。

「さうですか。難有ありがたう御座います。――坊はさうか、娜津なつの息子なんだね……」

 いつくしむやうな瞳を子供に向け、さうして、再び神さんを見て、

「時に、二人共、息災にしてをりませうか?」

 すると、途端に神さんの眉根まよねが曇つた。

「えゝ、それが…… でも、今日は小助さんは爲事しごとに出かけたやうですが……」

「爲事…… 何處どこかに勤めてをりませうか?」

「いゝえ…… まあ、決まつたおしごとではないやうですが…… そのとき、そのときで……」

「……成程なるほど日傭取ひようとりのやうな事でせうか…… 御新造ごしんぞの方は何如いかゞでせう?」

「――えゝ、それが…… 近ごろ、どうもお加減があんまり…… お氣の毒でございますが……」

「さうですか…… いや、難有ありがたう御座います。して、家は何方どちらに?」

「あゝ、そちらでございます」

 神さんは、むかう側に三軒なら裏店うらだなの奧の方、一番日當ひあたりの惡さうな家をてのひらの先で指示さしゝめした。

「いや、誠に難有ありがたう御座いました。――いゝかい、ばう、小父さんを御家迄おうちまで案內してくれるかい?」

 紳士が子供の手を取り、優しく握つた。手を繫がれた男の子も、にこ〳〵と小父さんを見上げてゐる。

 男の人の膝の橫にまとはるやうに立つてゐるしやうちやんが、立派な白い洋服を汚しはしまいかと、神さんは內心氣が氣ではない。

それでは、大きに、難有ありがたう――」

 紳士は、帽を取つて、鬢附油コスメチツクに光る頭を、神さんの方へ丁寧に下げると、男の子にかれるまゝに步き出した。

「おつかさん、おつかさん、人が來たよ」

 建附たてつけの惡い戸を引くと、中は蔭氣いんきに薄暗い。

 今しも、夜具にくるまつて橫になつてゐた女が、驚いたやうなかほいさゝか寐亂ねみだれた頭を持上げる。

娜津なつ…… 大丈夫かい?」

「――兄さん……」

 女のこゑは、消入るやうに、か細く、弱い――





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