軻遇突智

    軻遇突智かぐつち



 がた〴〵と板戸を開けて、ずぶ濡れの父がかへつて來た。

 父は博勞ばくらうであつた。

 晚の支度をしてゐた姉が、一瞬云ひよどんだ末に、寒かつたつろと呟いた。

 父はむつつりと默つたまゝ、簑を脫ぎ雜巾ざふきんで足を拭ふと爐端いろりばたに上がつてきた。

 吉太は弟と一緒に部屋の隅に小さくなりながら、れなかつたのだなと思つた。

御父おとつさん、ぺこつと待つてくなし」

 さう云ひ乍ら、姉はかまどから鍋を自在じざいかぎに移した。父は鍋の蓋を一寸ちよつと取つてみたが、直ぐに閉めて舌打ちすると、澁い顏をして云つた。

「飯なぞ、何でもない。酒持つてこ」

「したれど……」

「いんにや、酒だち」

 仕方なく姉は酒甁と湯呑とを父に渡した。

「これつぽちかや!」

 父は大きなこゑを出したが、直ぐに酒を呑み始めた。姉はおろ〳〵と鹽豆しほまめの椀を父の前に差出した。父は鹽豆には一つも手を附けずに酒を呑んだ。

 いろりではぐつ〴〵と鍋の蓋が持上がつてゐる。

「おめらは、何默つてるぢやい?」

 不意に父の目が、じろりと吉太と弟に向けられた。

「――何も……」

 吉太の聲は隨分とかすれて小さかつた。

「聞こえね!」

 いきなり父が湯呑を投げつけた。吉太は咄嗟とつさに弟に覆ひ被さるやうに頭を下げた。湯呑は障子のさんにぶつかつて吉太の膝の前にころがつた。

 火が附いたやうに弟が泣き始める。

「何を泣く!」

 天狗のやうな形相で、父が弟を叩く。

ゆるいてくよ。許いてくよ……」

 弟の代はりに吉太が謝つた。

「何を! おめ、生意氣な……」

 父は、今度は吉太の襟首を摑むと、脊中を激しく打擲ちやうちやくした。吉太はからだを固くしながら必死に痛みをこらへた。齒を食ひ縛り、怒濤のやうに繰返す衝撃を只管ひたすら耐へた。唯々淚がこぼれるばかりで、泣聲も出なかつた。

「許いてくなし。許いてくなし……」

 姉が父の腕にぶら下がつた。制された父は、忌々しさうに姉を振返ると、澁々爐端いろりばたに戻つた。もう酒が幾らも殘つてゐない。

「……吉! 吉よ! おめ、一寸ちよつと行つて酒買うてこ!」

御父おとつあ、雨降つてるがし、もうくれし……」

 姉が、いさゝか煮詰まつたらしい鍋を自在鉤じざいかぎからおろし乍ら、取成とりなした。

「それに御酒ばり呑むと毒ですけ……」

「……いんにや、吉、おめ行くべら?」

「御父つあ、そんなら、おれが行つてきやすけ……」

「何も、おめが行くことね! なあ、吉! おめ男だべらな!」

 父は頑なであつた。吉太は打擲された興奮がまだ冷めやらず、吃逆上しやくりあながら默つてゐた。

「吉! 何時迄、ひく〳〵云つてるぢや! 行くのか! 行かねのか!」

 こたへようとしたが、中々吃逆しやくりが止まらない。

「まあだ、この! ひく〳〵云ふか!」

 父が片膝を立てる。

 吉太は必死に吃逆しやくりこらへ乍ら、やうやくのことにたづねた。

「……御父つあ、……ぜには?……」

「錢だあ? 錢か! おめ、十にもなつて、ぜにぐれ、うぬで稼ぐべら!」

 抑〻そも〳〵父が呑む酒を買ひに行くのに、其代そのだいを使ひに行く子にはらへと云ふ法はない。しかし、其時そのときの吉太は、其んな理屈に氣附きもせず、又、よし氣附いた所で、父に反駁はんばくする事など出來る筈も無かつた。

 吉太は途方に暮れて姉を見遣つた。姉は小さく溜息をくと、懷の錢入ぜにいれを出して、幾枚かの銅貨を探つた。一枚、二枚……

 かつん!

 突然父が、何か、吉太の前に投げて寄こした。見ると、五十錢ごじつせん銀貨である。

御父おとつさん、これ……」

 吉太は目を丸くした。

「それで、うてこ」

「でも、これあ……」

「いゝから! それで買うてこ」

 父の樣子は、此以上これいじやう有無を云はせるものではなかつた。吉太は銀貨をたもとに入れると、足半あしなか草履ざうりを突つ掛けて土閒どまに降りた。つゞいて姉も降りてきた。

「吉、雨あ、はあ、もう上がつてるよ」

 戸口から表を覗いて、姉が振り返る。

 ちらと窺ふと、父は自在鉤じざいかぎの向かうに項埀うなだれれて湯呑を抱へてゐた。

 吉太は姉が持たせて吳れたカンテラをぶら提げて表に出た。

 空を仰ぐと、彼程あれほどに降つた雨が、噓のやうにれて星が見えてゐた。もつとも月は無い。吉太は是から半里もの闇の山道を酒屋に向かふのである。しばらくして、後を振向くと、矢つ張り姉が戸口に立つて、何時迄も弟を見送つてゐた。






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