豆腐

 頭の上で裸電球がともる。

「今日中に持つて來て戴かなければ次からは御斷りしますからね」

 さう云放いひはなつと、割烹着の中年增は、店の炊事場から長臺ながだい越しに無精髭を睨附ねめつけた。男は擦切れた背廣せびろの肩をすくめて、皿の豆腐をじつと見てゐる。

 其橫そのよこには畫工ぐわこうらしい繪具ゑのぐの着いた露服ルバシカが座つてゐる。此方こちら膏染あぶらじみた丸帽ベレぼうの下は、蓬髮ほうはつに疎らな無精髭である。たゞ、くたびれた背廣の男よりも、二十程も若からうか。髭が無ければ存外幼い貌附かほつきにも思はれるが、時折鋭い眼光を周圍しうゐに走らせ、あたりうかゞふ樣子も垣閒見られる。


   *   *   *   *   *   *


 今や炊事場をLの字に圍んだ長臺ながだいは槪ね埋まつてゐるが、露服ルバシカが格子戸を開けて、編上靴あみあげを――あちこち剥げて穴も開いてゐると思しき古びた編上靴あみあげを、陰氣な色の三和土たゝきに踏み入れた時には、此處こゝに取附いてゐる客はまだ少なかつた。

 靑年は今這入はひつて來た戸口に近い所に坐を占め、きと〳〵と目を店內に走らせたあと、炊事場を覗いた。

 蓋を外した大鍋に、豆腐が何丁か沈んでをり、幽かに緩やかに湯氣が立つてゐる。

 豆腐か――男は何の感興も無く思つた。すると、炊事場の女が別の鍋の蓋を開けた。途端に白いものがさかんに噴出し、それが治まると蓋の蔭にやゝ飴色掛かつた蘿蔔だいこんが見えた。女は蓋を元に戾すとへつひの火を少し閒引いたらしい。

 炊事場には半纏姿の男が一人と割烹着の女が三人居る。女のうち、一人は六十過ぎであらうか、姉さん被りの下から白いものが朧に見える、溫和さうな婆さんである。もう一人も四十を下らぬ年恰好。流臺ながしだいで洗物をしてゐる。殘りの一人が先刻さつき鍋の火を見ていた女で、三十半ばから、まあ四十には屆くまいといつた頃合。最も年嵩がこの店の上さんらしい。皴の疊まれた顏附乍かほつきながら、頭の方はしつかりしてゐるらしく店の隅々すみ〴〵迄、細やかな氣を配つてゐる樣子が見て取れる。板前の男は雇はれと見え、四十恰好。長身瘦軀ちやうしんそうくで、苦み走つたといふ形容が似つかはしい面構つらがまへをしてゐる。

 火加減を見ていた割烹着が靑年の斜向はすむかひに來て今度は鰹節を削り始めた。其方そちらに向つて、燒酎と蘿蔔だいこんを賴んだのだが、女の方は手許てもとに夢中で知らぬ顏。

 上さんが氣を利かせて洋杯コツプを滿たし男の前に置く。

「おや、申訣まうしわけありません。おあとは?……」

 はつとした顏で女が慌てゝゐる閒に、上さんは蘿蔔だいこんの皿を運んで來て、「いんだよ、つゞけておくれ」と雇人やとひにんを慰めた。


 靑年が洋杯コツプで唇をしめらし、蘿蔔だいこんを突つき始めた頃から、少しずつ長臺にならんだ丸椅子が埋まつてきた。あの背廣の男が靑年の隣に腰を下したのも其頃そのころだつた。橫目でちらりと隣を氣にする露服ルバシカ。背廣の男は、少しく薄くなつた頭に帽子も被つてをらず、襟飾だに著けてゐない。髮にも髭にも隨分白いものが目立つ。

 胡麻鹽ごましほの男は、兩手で膝をこすり乍ら、おづ〳〵と周りを見回した。さうして、大鍋で煮られてゐる四角な物を見附けると、にこ〳〵嬉しさうに、「あゝ豆腐だ」と呟いた。正面で鰹節をいてゐる女が今度は耳聰みゝざとく、「御豆腐にしますか?」と訊ねた。

「あゝ、あゝ…… どうか…… よろしく……」と何度も頷く。

御酒おさけは?」

「あゝ、さけは…… 淸酒さけ不要いゝんです―― さうさな、まあ、燒酎を少しばかり……」

 雇はれ女が振返ると上さんは鷹揚おうやうに頷いて、茶碗に半分程湯を注ぎそこに燒酎を滿たして持つて來た。

「さあ、どうぞ。ごゆつくりね」

 優しく無精髭に頰笑み掛ける。男はほつとしたやうな表情を見せ、上さんに何度も頭を下げた。さうしてゐるうちに、豆腐も半丁許り皿に載つて遣つて來る。

 男はやゝ震へるやうな箸遣ひで豆腐の角を崩して一かけらを口に運ぶと、箸の先を皿の緣に引掛けるやうに一旦置いて、手は膝の上に―― ゆつくり咀嚼をませたのち、今度は兩手で燒酎の茶碗を包むやうにして少しく持上げ、脊中を屈め一口啜つてからことりと置く。ほうと息を吐く。

「あゝ、これだ。これだ……」

 兩手で膝を擦り乍ら、うん〳〵と頷いてゐる。

 その一部始終を隣の男がちら〳〵と窺つてゐる。


 其內そのうち、店にもう一人の割烹着が遣つて來た。冒頭の中年增である。どうやら、上さんの娘らしい。娘と母親とは一頻ひとしきり何やら込入つたやうな話をしてゐたが、やがて、

「それぢやあ、一寸ちよつと、行つて來るからね」と上さんが店を後にした。

 娘は、戸口まで追ひかけて、表に顏を出し、

「ほら、彌三郞やさぶらうさんだつたら? どうなんだらう?」と母親の脊中に問掛けた。上さんは一寸ちよつと振返つたが、難しい顏でかぶりを振ると、直ぐ先の角を折れて姿が見えなくなつた。

 さて、上さんが居なくなつてから――、いや、娘が遣つて來たからであらうか、店の雇人やとひにん同士に傳播でんぱする氣配と云はうか紐帶ちうたいと云はうか、何と云はうか、少々へんじたやうに思はれる。殊に二人の女は、先刻さつきよりは幾分ぴりゝとなつたやうな――

 何、年恰好からすれば、この中年增が一番下であるには違ひない。而るに、主從のけぢめに年上も年下も無いのであらう。

 新參の割烹着は、豆腐の鍋を覗込んで頷いたあと蘿蔔だいこを煮てゐる鍋の蓋を持上げた。立上る湯氣に眉をひそめ、湯氣が去つても眉の形は其儘そのまゝに、あまつさへ唇をぎゆつと絞るやうな顏を作ると、鍋に幾らか水を加へて蓋を閉め、へつひの薪も燒足くべたした。さつと雇人らを睥睨したが、女達は娘とは目を合せぬやう、皆忙しさうに手を動かしてゐる。腕組をして動かない板前の方にも中年增の視線が向いたが、反對はんたいにじろりと見返され、女の方からそゝくさと目をそらした。一體いつたい、此女は小柄で丸顏、ふつくりと膨れた兩頰には時折ゑくぼが浮かぶ事すらあるのだが、其靨そのゑくぼだに愛敬とはならない險のある目附。

 その鋭い目が今度は長臺ながだいの向う側に注がれた。店としては慶すべき大入ではあるが、どの客もどの客も、ろく風體ふうていの者は居ない。くたびれた背廣や繪具ゑのぐで汚れた露服ルバシカはもとより、槪ね半纏姿や菜葉服なつぱふくばかり。一通りの檢分をへて、中年增が目を附けたのは背廣であつた。本來、背廣と云へば衣類の格としては半纏や菜葉服なつぱふくなんぞより斷然上であるのは論を俟たないが、それにしてもこのくたびれ具合と云つたら、最早辯明べんめい餘地よちも無かつた。加へて、萬人ばんにんをして愍然に堪へぬ念を惹起せしめる、何如にも貧相な仕草や佇まひが、鼻柱に勝る女の氣に入らなかつたのかも知れぬ。

「もし……? もし! 濟みませんがね。今召上つてゐる物―― 其御代そのおだい、あるんですか?」

 隨分客をつけにした、じつに不遜なる物言ものいひである。

「さうだ、先にね、御支拂おしはらひしては頂けませんかね?」

 背廣は大いに面食らつた顏をした。他の客達も、一齊いつせいに首から上を振向けた。

取敢とりあへずね。そこに御出しゝてゐる物の御代をね、頂戴致したいんです」

 丁寧に見せかけた言葉の端々が却つて厭味に響き渡る。

 背廣は大慌てゞ、あちこちの衣嚢かくしから硬貨を搔集め、割烹着に差出した。

 然し、不幸乍ら娘の炯眼けいがんの通り、數枚の銅貨が足りなかつたらしい。もつともほんの二錢程。抑〻そも〳〵豆腐半丁に五勺ごしやくばかりの燒酎だけだもの、がんから高が知れてゐる。

 それでも、割烹着は容赦しない。

「一錢、二錢と云つてもね。御金は御金ですからね」

 背廣は言葉に突掛り、突掛りし乍ら、此后このあといさゝあてがあるので少し待つては貰へまいかといふ趣旨をもご〳〵呟き、懇願のていに何度も何度も低頭した。

「それならば、お待ちしますがね。今日中ですよ。今日中に持つて來て戴かなければ次からは御斷りしますからね。其樣な方は、もう入らして戴かなくても結構ですから」

 つけ〳〵と捲し立てる背中を、板前の冷たい目が刺してゐる。無論、此女このをんなは知るまい。雇女やとひをんな達は、知らぬ振りを裝ひ乍ら、そは〳〵と立働いてゐる。客達は默つてちら〳〵樣子を窺つてゐる。

 皆ひとしく厭惡を滲ませ乍らも、暴君に異見を奉る者は居ない。

 それでも露服ルバシカは無表情にどんよりした目を女の眉閒に据ゑてゐる。尤も女は一瞥だにかへりみない。


 劒突けんつくを食らつた無精髭の方は、背廣せびろの肩を竦め項埀うなだれて皿の豆腐を見てゐる。

 身動き一つしない。

 ぱち〳〵と目をしばたゝかせ乍らじつと豆腐を見詰め續けてゐる。






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