久闊

 二人とも大分だいぶ赤い顏にはなつてゐるが、話は一向いつかうはづまない。たゞだまりこくつてはい遣取やりとりしてゐるばかり。

 此方こちらとは対照的に、中庭をはさんだむかうの座敷からは、賑やかなげん調しらべが聞こえてる。可成かなり人數にんずうが集まつてゐるらしい。

「どうも、中〻なか〳〵景氣けいきだね」

 さう云つてあごしやくると、友人はぼんやりと庭の方を見遣みやつたが、たちま其貌色そのかほいろかはつた。一瞬何やら慄然りつぜんとなつたやうな表情をひらめかせたあと、陰氣に沈み込むやうに見えた。友人の視線を追つたが、別段かはつた物は目に這入はいらない。

 手水脇てうづわきさがつた白い手拭てぬぐひがぶら〴〵れてゐる。かはやから出て來た誰だかを認めたのだらうか。

「どうかしたかね?」

いや、何でもない」

 苦い顏で杯を干すと、さつと杯洗はいせんくゞらせ、こちらの鼻先に突出した。

 それを受けると、銚子てうしを傾けながら、

「あの頃は、隨分ずいぶん不機嫌なものだつたね」と呟いた。

 ともすれば聞こえない程のぼそりとしたこゑで、餘計よけいにはつとしたが、何の事だか判らない。

「不機嫌とは? 誰が?」

「――君の話だよ。忘れたかい?」

 どうも、何だかのつぴきならぬものを、突附つきつけられた氣がする。

何時いつだか、僕が不機嫌な事でもあつたかい?」

「あの頃は何時だつて不機嫌だつたさ、君は」

「さうだらうか……」

 向うの部屋にどつと笑聲せうせいが起り、藝妓をんな嬌聲けうせいも交る。さうして再び音曲おんぎよく――

 たのな騷ぎに取圍とかこまれた二人のあひだは、何處どこ迄も沈鬱な寂寞に支配され、余は鼓膜の內側でしいんと鳴る音が頭に響くのを聞いてゐた。

「君とは十年振り以上になるね」

 友人の目が眞面まともに余を見据ゑた。ひどく充血した、眞赤まつかな目である。

「もう、そんなになるかね?」

「あゝ、君は中〻僕にはうとしなかつた」

「さう云ふわけでは無いさ、何故だかどうも色〻と差支へがね……」

「まあ、君の云ひ分ではさうかも知れない。たゞ、僕から見れば、又違つた事情が展開してゐるやうに思はれたよ」

「何、さう惡く取つて貰つては困るよ。眞實しんじつさうだつたのだから……」

「まあ、さう云ふんなら、それからうよ――」

 友人は再び口を閉ざした。爾後じごは、もう差さうともせずに、手酌で銚子を傾けてゐる。


 かん〳〵のうのきうれんす、きうはきうです、さんしよならへ、さいほうぴいかんさん……


 むかうでは、かん〳〵のうを歌つて大いに陽氣である。余はむし上方かみがたの落し話の、駱駝らくだ葬殮さうれん思浮おもひうかべてゐた。屍人しびとにかん〳〵踊りを遣らせると云ふあれである。


 も手酌で吞みつゞけてゐる。

 ふと、見遣ると幇閒たいこもちらしい男が向うの緣側えんがはに出て座つてゐる。何處どこかで見たやうな顏附かほつきだが、どうも思ひ出す事が出來ない。あれこれかと考へながら眺めてゐると、

「あゝ、松吉が居るね」と友人が云つた。


「松吉?」

「松吉だよ。知つてるだらう? 僕は先刻さつきから氣が附いてゐたよ」

 友人の憂鬱な視線も、向ひの緣側の男に向いてゐる。

「あれは、幇閒たいこもちだね?」

「さうさ、僕らの座敷にも何度か來た事があるぢやあないか。と云つても、もう隨分になるが…… 覺えてゐないかね?」

いや、何だかあの顏は見た事がある氣はするのだがね……」

「ほら、咄家はなしか聲色こわいろ眞似まねたり、さう〳〵踊りがね、かつぽれとかうまいものでね。あゝ、ほら先刻さつき、かん〳〵のうを演つてゐたね。あんなのだつて、達者だよ」

「さうかい。僕は何だか思ひ出しさうで、どうも判然はつきりしないものだから…… どうにも心持ちが惡くつてね。かん〳〵のうを踊つたりしたんだね」

「うむ、たゞね、神經衰弱を患つてね。大分長い閒、引籠ひつこもつてゐたと云ふよ。もう、いのか知らん」

「神經衰弱の幇閒たいこもちかね?」

「うん。可笑をかしいかい? まあ、珍しいかも知れないね…… たゞ、神經衰弱なる病も、高等敎育を受けた者の專賣せんばいといふわけでもあるまいよ。あゝ云ふ風に、人から笑はれたり、莫迦ばかにされたりの稼業と云ふのもどうなんだらう? 傍目はためには浮れて面白可笑おもしろをかしく騷いでゐるやうでも、はら底迄そこまでのぞかれないからね。『松吉』だなんて、すこぶ目出度めでたさうな名前だが、そんな名告なのりをしてゐても、內實ないじつの葛藤は相應さうおうのものがあつたのだらう」

 さう云ふと、どんよりした赤い目を余に向けた。

「まあ、君みたやうに、人を莫迦にする側の人閒から見たら、他愛も無い事だらうね。昔からさうさ。不機嫌に四圍しゐを見下してゐればいのだからね」

 友人は、片方の口の端を吊上つりあげて、底意地の惡い顏を作つて見せた。


 ところで、には、先刻さつきから友人が再三指摘するその「不機嫌」と云ふのに、皆目かいもく合點がてんが行かなかつた。自分としては不機嫌さうにしてゐた記憶なぞ一切無いのである。しかるに、友人にはそのやうに見えてゐたといふ事なのだらうか。


「松吉だの、僕だの、生來の幇閒ほうかんとも云ふべき人閒。まあ、人生の敗殘者だね。そんな人閒はだね、さうやつて見くびられてゐるのをひし〳〵と感じながらも、やつぱりへら〳〵笑つて遣過やりすごすしか手段たどきは無いのだからね。それが弱い者の宿命だあね」


 さう云つて卑屈さうな笑みを浮かべると、再び杯を突出して來た。

 余はどうも釋然しやくぜんとしなかつた。友人は自身を弱い者だと云ふが、余から見れば、さうやつて「弱い者」と云ふ看板を盾にして、ぐい〴〵とこちらに壓迫あつぱくを掛けてゐるとしか思はれない。實際、これではどちらが弱い者だか判らない。

 余にとつては、友人みたやうな態度は、むし强者きやうしやそのものなのである。


 一方で、余自身にも、己を顧みての一抹の危惧が存した。

 思へば、若い頃の余には、無意識の尊大さと云ふものがあつたやうな氣がする。或いは、裏腹に、小心な狷介けんかいさとでも云ふのが適當てきたうであらうか。

 あの頃の自身をつぶさに思ひ起こせば、好んで諷刺的イロニツシユ言辭げんじろうしては、おつに氣取るといつた一面が無かつたとは云はれまい。さういふ風な、余の心算つもりとしては、わざと偏窟を誇張して裝つた殊更ことさら擧措きよそが、友人から見れば大いに癪に障り、鼻持ちならなかつたのかも知れない。しかし、さういふ事を云へば、若い頃の友人にしたつて――


 否〻いや〳〵―― 一體いつたい、何が本當ほんたうなのか判らない。


 實を云へば、本當なぞ存在せず、全ては相互の頭蓋中とうがいちゆうの認識。主觀しゆくわんうちに虛像として結ばれたものが映じてゐるだけなのだらう。


まないが、僕はもう酒はさう。今日は大分過ごしてしまつたやうだよ」


 掌を相手に示して、宙ぶらりんに突出された杯をとゞめた。

 友人はじついやな顏を見せて、杯を引込めると、そこに自ら酒を注いで、二、三杯立續けにあふつた。


 若い頃の友人と云へば、快活な男といふ印象イメヂだつたが、しばらはないかはつてしまつたのだらうか。それとも、あの頃から表面は快活に裝ひつゝも、肚の中では隨分鬱屈してゐたのだらうか。

 友人は昔の余を「不機嫌」と評したが、今、眼前にある友人の姿こそ、不機嫌そのものに思はれた。かれそれを自覺的に殊更ことさら演じて見せてゐるのだらうか。


 つく〴〵人の肚の中は判らない。


 懷しく久闊きうくわつじよすべき席が、このやうな仕儀にならうとは思ひもしなかつた。

 一方、友人の肚の中の鏡には、余は又候またぞろ不機嫌千萬せんばんをとことして映じ續けてゐるのであらうか。


 まあ、これが世の中の眞實しんじつといふものかも知れない。


 否〻いや〳〵――


 解つた心算つもりになるのは劒呑けんのん極まる。

 つく〴〵人の肚の中とは判らないものである。あまつさへ、己自身の襟懷きんくわいにした所で――


 事にると、じつは余は、友人を莫迦にして見下し、見くびり、ないがしろにして來たのでは無かつたゞらうか?

 胸を張つて、眞實さうではないと云切いひきられるだらうか――


 いや


 否〻いや〳〵あらず。寧ろ友人なのだ。友人こそが余を莫迦にしてゐて――




 見れば、松吉はまだ緣側で憂鬱さうに俯いてゐる。


 余は、不圖ふと、こんな事を思つてもみた。

 すなはち、あの男に水淺葱みづあさぎかみしも額烏帽子ひたひえぼしとをせ、だらりとなつたからだを、後から赤い目をした友人が支へて、音曲も賑やかにかん〳〵のうを踊らしめてゐる。幇間ほうかんも友人も血の氣の無い暗鬱なる顏附乍ら、妙に嬉〻として踊り呆けてゐるのである。





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