切通しの坂を上り切ると、開けて再び町となつた。

 瀟洒せうしやながらも、さして大きくもない家がならんでゐる。

 どの棟も割と新しい。

 路地を幾つか折れて進むと、左側の低い板屛が三閒程先さんげんほどさきで途切れた。其所そこを曲がれば、目當めあての家である。


 形許かたちばかりの安つぽい棟門の格子戸に手を掛けると、するりと橫に開いた。其所そこからおほよ一閒𢐅いつけんじやく、三步も行けば直ぐに玄關げんくわん突當つきあたる。こゝも同樣に鍵が掛かつてゐない。

「おい、ゐるかい?」

 返事が無い。

「ゐないのかい?」

 矢張やはり、返事が無い。

「おい〳〵、ゐないのかね?」

 少〻せう〳〵大きなこゑを張上げてみたが、何らの反應はんおうも返つて來ない。

 留守か――晝閒ひるまとは云へ、鍵も締めずに出掛けるとは、不用心極まる。

 半ばむつとなり乍ら、上框あがりかまちに腰掛け、編上あみあげの紐を緩め始めた所、脇のの障子が、がらりと開いた。

「あら、らしつたの?」

「入らしつたのぢやないよ。呼んでも中〻なか〳〵出て來ないぢやないか。隨分な料簡れうけんだね」

「あら御免なさい。一寸ちよいと干物ほしものをね、裏で…… でも、今日は珍しいのね、こんな時分に――あら〳〵、それにすつかり御樣子ごやうすが良いのね? 洋服を御召しになるなんて、久振りぢやあなくつて?」

「いやね、晝過ひるすぎ野閒のまと逢はなけれあ、ならぬのだよ。ゆつくりもしてゐられない」

「あら、野閒さん? あの、野閒さん? さう――」

「何だい、野閒と逢ふのが可笑おかしいかい?」

「おかしいわ。だつて、あなた、ついせんだつて、野閒とは絕交だなんて、おつしやつてたんでせう……」

「それあ、さうだが、まあ、色〻とあるのさ…… いけ好かない、肚が立つ、何ともゆるし難い…… かうした諸〻の事共ことゞももぐつと呑込まねばならぬやうな事情がね―― それ世閒せけんと云ふものだらう?」


 やうやく兩方の靴を脫ぎへて疊の上に上がつたはいが、火鉢の傍に寄つて腰を下さうとした所、

一寸ちよいと一寸ちよいと不可いけませんよ、坐つちや不可ません。御待ちなさいな……」

「何が不可いけないんだい?」

洋袴ズボンしわ這入はいるんぢやありませんか、あたしが工夫をしますから、一寸御待ちになつて…… 坐つちや駄目ですよ」

 さう嚴しく云附いひつけておいて、女は奧へと引込んだ。

 一體いつたい、どんな工夫があるものだらうか?

 面白さうに髭を歪めて、男がにや〳〵待つてゐると、女丈夫をんなぢやうぶ澤山たくさん坐布團ざぶとんを抱へて戾つて來た。それを火鉢の脇に五、六枚重ね、其橫そのよこ跪坐きざていで身を低くした。撥ねた髭を下から見上げながら、

「先ずは、上着を御脫ぎなさい」

 云はれるがまゝ、男はにや〳〵胴衣チョツキ姿になる。女は、手渡された上衣を輕く疊んで膝の橫へ。さうしておいて、ぽん〳〵とかろやかに坐布團ざぶとんを叩き、

「さあ、此上このうへに御掛けなさい。膝を曲げては不可いけませんよ。脚はなるだけ伸ばして……」

 男は何處迄どこまでも命令にしたが心算つもりらしい。云はれた通りに腰を下して、

「ふむ…… まあ、然しどうだらう? 一寸低過ぎるやうだね。どうも、坐り心地はあまよろしくは無いよ」

「さうかしら? さうね。それぢやあ…… あ、さう〳〵」

 さう云ふが早いか、立ち上がつて、再び奧へ。

 今度は、自分の夜具を抱へて來た。

「ほら、一寸ちよいと腰を御上げになつて。ほら〳〵、この下にね、かうやつて…… ほら、少し高くなつたでせう? 此處こゝに御掛けなさい」

 女は、疊んだ敷布團を坐布團の下にてがつたのである。

「うむ。さうだね。大分良くはなつたね」

「さうでせう? ごらんなさい。とんちですよ、これが」

「頓智かね? ――頓智ね。ふゝん、まあ、さうかも知れぬ」

「さうですよ。御認めなさい。これがとんちなの。いかゞ?」

「はい〳〵」

 其時、柱時計が一つ鐘を打つた。見遣ると十一時半である。

「あら、こんな時閒。不可いけない。あなた、何時いつ頃御出かけになるの?」

「さうさな。一時過ぎには出ないとね」

「まあ…… 御晝おひる御上おあがりになるでせう? あたし、まさか今時に御見えになるなんて思つてもゐなかつたものですから…… 御免ごめんなさい、何にも用意が御坐いませんの」

いさ、突然に遣つて來たおれも惡いのさ。否何いやなに、飯なんぞ、茶漬に香の物で構はんよ」

「せつかく旦那樣がらしてると云ふのに、そんな事ぢやあ……」

「何、構はんさ―― それよりね、一本つけて吳れないか。あの男に無理にでも逢はねばならぬのだ。とて素面すめんでは行かれない――」

「まあ、御晝から? ずいぶんね…… たゞ、ほんたうに御漬物おかうこぐらゐしかありませんの」

それで好いのさ」

「わかりました。少し御待ちになつてね」


 しばらく、あたふたと立働たちはたらいてゐたが、やがて膳を抱へて來た。

「ほら、あなた、少しばかり脚を御擴おひろげになつて。そこに御膳を……」

「脚のあひだに置くのかね? 隨分、妙な具合だね。行儀が惡いにも程がある。とても人に見せられたものでは無いね」

「ご安心下さいませ。この二人の他に、人なんて、だあれも來やしませんことよ」

「さうは云つてもね…… 時に、何だね? これ金團きんとんかね? 此んな肴で酒を呑むのかい? 愈〻いよ〳〵以て珍奇なる次第だね」

「あら、乙なものですよ。案外ね…… 御饅頭で一杯と云ふ方もあつてよ。それにあなた、その珍奇が御所望なんでせう? いつも、おつしやつてるぢやあ、ありませんか。當然あたりまへなんてつまらない。何か新しく珍しいものは無いかつて……」


 女が上目遣ひに笑みを含んで銚子をかゝげると、男も莞爾かんじとなつて猪口ちよくを取つた。

 小さな器の中に、みる〳〵液體えきたいが膨らんで行く。






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