研究所

  研究所



 受附うけつけにはまはらずに、直接部屋に向つた。

 囘廊くわいらうかこむ中庭には、躑躅つゝじの植込みが小山のやうなていしてゐるのだが、しばらく見ぬに赤紫の花をおびたゞしく附けてゐるのが目を引いた。

 しかし、よく〳〵見ると、全體ぜんたい的に花の盛は既に過ぎてゐた。黑ずみいたんで溶けたやうになり、周圍しうゐの葉や花にべつとりと貼附はりついてゐるものも少なくなかつた。あまつさへ、鐵葎かなむぐらだらうか、藪枯やぶがらしだらうか、つる性の厄介な闖入者ちんにふしやにじわ〳〵と絡まれ始めてゐた。近頃、植木屋も呼んでゐないらしい。

 大丈夫だらうか――

 部屋の戸は開放たれてゐた。

 入ると、廊下と反對はんたい側のまども開いてをり、窗枠の左右に絞られてゐる帷幕カアテンの、しやのやうな白つぽくかるい生地の裾が風に少しく閃いてゐた。

 あの人は寢臺しんだいに橫たはつてゐる。

 眠つてゐるらしい。

 傍迄そばまで寄つて、せて染みだらけの禿頭を見下ろした。その丸い頭を眺めながら、其下そのしたにあるほねの輪郭をぼんやり考へてゐた。

 此人のこつを拾ふのも、其程それほど先の話ではあるまい。

 さういふ念を嚙締かみしめ乍ら、ふと、子供の頃に此人このひとが自分にたこを作つてくれて、一緖に揚げた事なんぞを思出おもひだした。どういふわけだかは判らない。かくそんな子供の頃の出來事が、何の脈絡も無く思出されたのであつた。

 此人このひとは自分に男の子らしい遊びをさせたがつた。高い金を出して野球ベエスボオルの道具を揃へて吳たり、手づから竹馬を拵へて吳たりしたが、自分は一向に興味を示さなかつた。

 子供の頃から人附合ひとづきあひが苦手だつた自分は、本をんだり、いたりするのが好きだつた。さういふ自分の性向を、此人このひとは快く思つてゐない風だつた。汽車だの、蓄音機だの、電話機だの、通信の電鍵だの、さういふ機械に興味があつた自分は、屢〻しば〳〵それらをいた。それのみならず、自分で勝手に此世このよに在りもしない機械を想像して、それをしよつちゆう描いてゐた。其繪を見て、御前はこんな物許ものばかいて夢が無いなど吐棄はきすてるやうに云はれた事が何度と無くある。とは、山や川の風景や、花や木や禽抔とりなどくべきもので、血の通はぬ、硬く冷たくごつ〴〵した鐵屬かなものではにならぬと叱られた。

 さう云はれつゞけた自分だつたが、何時だつたであらう吾乍われながら何を思つたか、虎が大岩を降りて來る姿を墨繪すみゑにした事がある。果して此繪このゑだけは大いに褒めて貰つた。とはかう云ふものだ、爾後これからはかう云ふものをきなさいと、何度も頷き乍ら頭をでられた。

 さうして、數日后、其繪そのゑに竹の骨組を器用に取附けて凧を作つてくれた。凧は奇態に好く揚つた。自分の繪が高く天に舞上まひあがつて行くのは實に嬉しかつた。平生いつもは叱られてばかりなのに、此時このときだけは滿足さうに、にこ〳〵笑つて吳るのが誇らしくて堪らなかつた――


 さういふ風に昔の事を反芻し乍ら、一方で、此人このひとの骨を拾つてゐる樣子が腦裡に去來した。

 自分との懷しい思出おもひでは、此人このひとが世を去る閒際迄まぎはまでたゞ此一事このいちじのみ。それを思ふと、何とも物足りない氣がした。

 すると、眠つてゐると見えたまぶち忽然こつぜんと開いた。こちらに首を捻つたと思つたら、行成いきなりかう切出された。

御前おまへは、此所こゝを矢張り病院だと思ふのかね?」

 異な事を訊く。眞意を計り兼ねつゝも、無理に明るくおうじた。

「えゝ、それはさうでせう」

 さうしたら、少しく氣色けしきばんだ樣子でがばりと起上おきあがり、寢臺しんだいの上で胡坐あぐらになつた。

「違ふ〳〵!」

一體いつたい、どう違ふのです?」

「御前は知らぬだろうが、近頃、經營けいえいかはつたのだよ」

「――そんな事はありますまい……」

莫迦ばか〻〻! 此所こゝはね……大きなこゑでは云はれぬが、けだし研究所だよ。おれなぞは好いやうに實驗じつけんに使はれるのだ。哀れなものだよ」

「まさか――」

「御前も案外物あんがいものが解らぬと見えるね。皆騙みなだまされてゐるのさ。しかし、物事には表もあれば裏もあるからね。看護婦なんかも以前とは態度が隨分ずいぶん違ふのだから」

 眉閒みけんに皺を寄せ、愍然びんぜんに堪へぬと云つた目を自分に向けると、項埀うなだれて首を振つた。其心底そのしんそこ失望した貌附かほつを、今に忘れない――


 子供の頃も、今も、此人このひとには金輪際信用されてゐないといふ眞實しんじつがしみ〴〵身に沁みた。こんな風に、正氣を失つて了つてまで、まだ自分を、物をわきまへぬ愚者と見てゐる。何とも救はれない悲しい心持がした。





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