靑い風

  あをい風



「時に、御常おつねさん――、あの人はたしか、おまへの從姉いとこだつたね? その御常さんの事だが、何でも前の亭主のもとに戾つたさうぢやないか?」

「あら、まあ、それをどちらで?」

「いや、何――。まあ、さうなんだが…… 僕もあのをとこ隨分ずいぶんと無心をされたものだからね。一體いつたいいま何所どこにゐるのだらう。おまへ、知つてるかい?」

「知らないわ――」

「知らないつて? 本當ほんたうかい?」

「知らないわ…… よし知つてゐた所で、貴方あなたには申上げません事よ」

「おまへ――、まさか…… ――あのをとこ后妻のちぞへにでも這入はいらうと云ふはらだつたのぢやあ、あるまいね?」

「――何、莫迦ばか仰言おつしやるの」

「莫迦な事かね?」

「さうだわ。屹度きつと……」

「さうだらうか?」

「――其より、ほら〳〵、御空おあけになつて…… ねえ、もう一本賴みませうか……?」

「まあ、はぐらかしなさんな。いや、僕はね、じつは近頃一寸ちよいと……」

「あら、おからだ? 不可いけませんのね――」

「――おまへさん、眞實ほんとの所はどうなんだい?」

「あら、いやな方…… ――ねえ、心氣臭しんきくさいわ。一曲きませうか? 貴方、歌は御厭おいや?」


 自分が何も答へず苦さうに杯をめてゐると、をんな夫切それきり口を閉ざした。

 月琴げつきんを抱へ、自分にはやゝ背を向けるやうな恰好かつかうで庭の方に向直つたと思つたら、九連環きうれんくわんか何かを爪彈つまびき始めた。


 磯鶫いそつぐみ高啼たかなき――

 ひる過ぎの初夏の日差しは、少しく苛烈かれつさを含んできたやうである――

 しかるに、此座敷このざしき周圍しうゐにはせいの高いなぎまきしげりかげを落とし、わづかにさへぎられそこねた木漏こもれ日が岩や地面の苔の上にちらつくばかり。

 自分以外の客とても無く、開放たれた幾閒いくまかを靑い風が時折通拔ときをりとほりぬけて行く。


 爾後じごをんなは冷え〴〵とした橫顏のまゝ、こちらを見向きもしない。

 自分も沒交涉ぼつかうせふを決込んで手づから銚子てうしかたぶけつゝ、ゆる〳〵と杯を干してゐる。をんなは酌をする氣だに無いらしい。

 同じ曲を何度も繰返しだんじてむ事を知らぬ。又、靑い風――


 看看也カン〳〵エヽ賜奴的九連環スウヌテキウレンクワン……


 今度は鼻歌迄。

 自分は意趣返しも兼ねて大きく手を叩いた。

 をんながびくりと肩をはづませる。


「おい、銚子…… 銚子だよ! 空いてるよ! ――おい! 誰かゐないのか!」


 遠くから閒の拔けたやうな返事が聞こえる。

 それを汐に、再び弦の響きと鼻歌。


 雙手拿來解不開シヤンシユナアライキヤイポカイ……


 相もかはらぬ冷淡な橫顏。


 やがて年若の女中がつて來て、跪坐きざていひざを突き、銚子を取換とりかへ去つて行く。女中がひざまづいた折の前埀まへだれの暗い臙脂えんじが目に附いた。


 磯鶫、月琴、鼻歌、木漏れ日、靑い風――


 からだこはしばらく遠ざけてゐた杯をいて重ねるうちに、自分とした事が珍しく陶陶たう〳〵となつて來たらしい。それに連れて胸底きようていの波もやうやいできたやうに思はれる。


 割不斷了也也呦カポドワンリヤウエヽエヽユウ……


 をんなに合はせて、小聲こゞゑで唱和してみる。

 が、めう甲高かんだかい、調子外れの聲が出てしまつた。


 じろりと睨まれる。


 途端に二人共噴出ふきだしてしまひ、けたゝましい笑聲せうせいが靑い風を貫いた。



註:九連環參考 https://www.youtube.com/watch?v=J4r1elop6a8





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