聖母月

  聖母月マリヤづき



 電車を降りてしばらく進むと、目の前には、だら〴〵坂の切通し。

 坂の手前で立止り、胴衣チヨツキ衣嚢かくしからたもと時計を取出した。

 三時を少しばかり過ぎてゐる。

 右の崖を見上げると、上から四分の一程の所に、はぜの若木が枝を伸ばし、この季節に病葉わくらばだらうか、一叢ひとむらだけ赤く染まつた葉が風にひらめいてゐる。

 自分は再び足を前に進めた。

 崖にかこまれてゐた左右は、段〻に開け、道幅もひろがつて行く。坂は勾配が緩やかになつたり、急になつたり、曲がつたりしながら、まだ先の方へと續いてゐる。


 ふと氣附くと背後から澤山たくさんこゑやら、あしおとやらが聞こえてきた。

 振返ると尋常科の高學年の生徒であらう子供達が幾人いくにんも近附いて來る。かれらの足取りは思ひのほか速く、緩慢な步みの自分はもう一團いちだんに追附かれてしまつた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 ほがらかに挨拶をしながら自分の橫をずん〴〵過ぎて行く。どの顏にも屈託の無い笑みがはずむやうに浮かんでゐる。


 子供達の後姿を見送つてゐると、左に曲がつて行く坂の上から、あの人の姿が現れた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 子供達はあの人とも挨拶を交して行く。相互に知合ひと見えて、あの人は其場そのばに立止り挨拶の他にも何やら一言二言、銘〻めい〳〵に優しくこゑを掛けてゐる。

 一頻ひとしきり擦違すれちがふと自分にかる會釋ゑしやくを向け乍らあの人がこちらへ下りてくる。自分も同じやうに會釋ゑしやくを返して坂を上る。

 いつも通り涼し眼差まなざし眞直まつすぐに向けられてゐるのだが、自分はそれ眞面まともに見返すことが出來できない。汗が出るやうな思ひで、杜若かきつばたをあしらつた裾模樣すそもやうぼんやりと眺めつゝ膝を前に進めた。

 一閒いつけん程に近附くとお互ひのあゆみが止まつた。

 あの人が深〻と頭を下げる。

 自分も同樣に低頭した。


「こんにちは」

「こんにちは」

澤山たくさん子供が上つて行きましたね」

「えゝ、坂の上に、會堂チヤアチがあります。そちらに――」

「さうすると、あの子らも皆、耶蘇ヤソですか?」

「えゝ」

「でも、風體みなりはてんでにばら〴〵ですね」

「信仰に、貴賤きせんの別はありませんから」

失禮しつれいを申しました――」

じつはね、わたくし先達せんだつ洗禮せんれいをしていたゞきましたの」

「――さうですか。孤兒院こじゐん手傳てつだひをなさつてゐるのは、僕も存じてゐましたが……」

「家族には隨分ずいぶん反對はんたいされましたけれど……」

「そこまでの御覺悟おかくごとは、存じませんでした」

「覺悟なんてありませんわ。おすがり申したまでで……」

「さうでしたか」

「さうですの」

「慥か、今日から聖母月マリヤづきでしたね」

「さう――。御覧なさい。欅の若葉が、あんなにも鮮やかに――」

「あゝ、さうでせう。あなたは、最早、御戾りにはならぬのでせうな?」

「戾る? 戾るも何も全てはあるがまゝですわ。天主かみごいちにん思召おぼしめしのまゝ

「おや、うぐひすきましたね?」

「えゝ、近頃は隨分上手に――」

「又啼きました……」

然りアメン……」

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