二日目-前〜少女〜

 夢での出来事にだいぶ精神力を削られたようで俺はいつもよりも深く、泥のように眠っていた。

 夢の中で夢と言うものは多重夢と言うようだが、今はそんなことはどうでもいい。

 俺の意識は夢の深層を微かな光すら届かぬ底無し沼をただただ漂っている、そんな感覚。

 それは幸せなひと時であった。

 誰にも邪魔されぬ空間で過ごす、人によっては苦痛に感じるであろうが日々に疲れ切った俺にとっては心地好かったのだ。

 だが、その理想郷はいつまでも続く筈はなく、いつかは終わりを迎えるものである。

 ふと気付くと、音が響いていた。

 決して光が差し込まず無音の空間である筈の底無し沼に響く、時にうざったく時に安心感を与えるものである。

 だが、それは普段から聞き慣れた地味にだが不快になる電子音ではなく、人の笑い声の様なものであった。

 俺は夢の時間は終わりかと思いながら薄っすらと目を開ける。


(朝か。ていうかいつの間にアラーム音を人の声にしたっけ)


 まだ元の場所に留まりたいと思う体に鞭を打つかのように強引に体を起こす。

 そしてうつらうつらとしながらも枕元に置いてあるスマホに手を伸ばしアラームを止め、時刻を確認する。

 すると俺の朦朧としていた意識は一気に覚醒した。

 始業時刻は7時30分、俺が到着しなければならない時刻が7時。

 そして現在の時刻は6時30分である。

 会社までは歩いて三十分はかかるので走ったとしても十五分はかかってしまうだろう。

 急いで身支度を整えようとまだ温かい布団を畳んでいる時にふと、とある疑問が頭の中に浮かび上がって来た。


(あれ、俺アラーム止めたよな)


 アラームは確かに止めた筈だが、先程から響き渡っている人の声は未だにこの部屋に響いている。

 反響かと一瞬考えたが、よくよく聞いてみるとその声は何処かで聞いたことがある気がしたが、今はそんなことはどうでもいい。

 早朝の一人暮らしの部屋に知ぬ笑い声が響いている。

 それが異常であるが事実であった。

 考え得る原因は二つである。

 一つは俺がテレビを点けたまま寝落ちしてしまったという説。

 二つは俺がアラームを笑い声に変更したことを忘れ、その上アラームを消した気になっているだけで消していない説。

 個人的には金銭的な理由で二つ目を推したいのだが、先程時刻を確認しているので一つ目の方が有力だ。

 きっと枕元にでもリモコンが落ちているのだろう。

 そう思い、布団周辺を探してみるが何故か見当たらない。

 時間が迫っていることもあり仕方なくテレビの電源を落とそうとテレビの方向へと向き直ると、急いでいるにも関わらず動きを止めてしまう。

 その理由は簡単であった。

 誰かがテレビの前に陣取っているからである。


(泥棒か!?)


 泥棒らしき人物は不法侵入の意識がないのか、やけに堂々とテレビを視聴している。

 その姿はもしかしたら自分こそが泥棒でないのかと考えてしまう程、堂々としていた。

 俺の頭の中は常にマイナス思考なので、逆上した泥棒に刺される光景という最悪な結末が流れてくる。

 だが、幸いなことに泥棒らしき人物はテレビに集中しているようで、俺の存在には全く気付いていないようであった。

 俺はこの好機を逃してはいけないと、足音を立てぬよう慎重にスマホを拾い、玄関へと向かう。

 だが、普段生活していて直面しないような命の危機に尋常ではない量の汗をかいていた俺は、思わず手を滑らしてしまった。

 ゴトン、という鈍い音が部屋の中に響く。


(お願いだ。気付かないでくれ。神様お願いだ)


 俺は緊張するあまり柄にもなく神に祈ってしまう。

 テレビの音量は大きくもないが、聞こえなかった可能性は大いにあるので、俺はその可能性に賭けることしか出来なかった。

 だが俺の祈りも虚しく、泥棒らしきは驚いた様子でこちらに振り向く。

 俺は急いで玄関に向かおうとするが上手く足が動かず、勢いよく転倒してしまった。

 全身を強く打ったせいか体が言うことを聞かない。

 だが、殺される未来を考えるとそんな痛みなど何処かへ飛んでいってしまう。

 何とか泥棒らしき人物から距離を取ろうと腹ずりで前進するのだが、背面から聞こえてきたのは予想外な言葉であった。


「おはようございます。社畜さん」


 その声は昨晩見ていた筈の夢に登場した少女の声に瓜二つであり、思わず振り返り声の主を注視してしまう。

 昨晩とは服装は違うが、その鴉のような艶やかな黒髪や真朱の瞳は、確かに昨晩見た少女であった。

 あまりの衝撃に言葉が出てこない俺を少女が心配そうに見ながら話かけてくる。


「って大丈夫ですか?社畜さん」

「お、お前。夢じゃなかったのか!」


 少女の心配に対し、やっと出てきた言葉がそれであった。

 少女は俺の驚きの言葉にキョトンとしながらも律儀に応える。


「はて、夢とは何のことでしょうか?」


 俺の思考は一瞬停止した。


(夢じゃない?いやいやそんなことはあり得ないだろ。冷静になれ、俺。これはきっと夢の続きだ。そうだこれも夢だ)


 自分に夢だと言い聞かせ、思考停止した頭を何とか回転させる。

 今すべきことは何か、夢であっても本当に大丈夫なのか、と。

 そんな俺に少女はまたもや話しかけてくる。


「社畜さん?本当に大丈夫ですか?あぁ全身打ったら息出来ませんから苦しくて声が出ない…分かります。はっ共感している場合じゃないですね。救急車!あれっでも救急車って何番でしたっけ。110番?118番?あっでも電話でしたっけ?それがないや。どうしようどうしよう」


 少女は慌ててこちらに寄って来るが、慌てているだけで何もしない。

 ただ、俺に語りかける速度が段々と速くなっているので恐らく軽くパニックに陥ってしまっているのだろう。

 そんな少女を落ち着かせる為に俺はまだ少し痛む体を持ち上げ、少女に声をかける。


「だ、大丈夫だから。だから落ち着けって」

「本当に大丈夫なんですか?いやでも、後々に何かしらの症状が出てくる可能性もなきにしもあらず。どうしようどうしよう。あっ118番!」

「何で海上保安庁の番号知ってんだよ」


 つい突っ込みを入れてしまう。

 だが、少女は俺が突っ込みを入れられたことに少しは安心したのだろう、俺に語りかける速度が段々と落ち着いていった。


「本当に大丈夫なんですか?何かあったら言ってくださいね。私これでも悪魔なので頑張れば何とかなる、筈…まぁなるべく諦めないの精神で」


 最後の方は少し適当に感じたが、それと同時に俺を心配している気持ちがしっかりと伝わって来た。


「ありがとな。でも大丈夫だから」

「ならいいのですが」


 少女はまだ完全には安心していない様であったが、まあいいだろう。

 俺はどうせ夢なのだからと、そんなことを考えていた。

 そんな俺の思考を読み取ったのか、はたまた無意識に俺が口に出していたのか、少女は俺が気になっていることについて語りかけてきた。


「そういえば、社畜さんは先程私に向かってこれは夢か、と仰っていらっしゃいましたよね」

「あ、あぁそういえば、そうだな」

「大丈夫ですか?やはり頭を打たれたのでは?」


 少女の少し失礼な言い方に俺は眉をひそめる。

 そんな俺の感情を読み取ったのか、それとも元々の性格なのか少女は、最初に訂正らしきもの入れつつ言葉を続ける。


「いえ別にお前頭大丈夫か?とかそういった意味ではなく、頭を打ってしまったようなので冷静に状況を判断出来ていないのかな、と思いまして」


 やはり訂正ではないようだ。


「どういう意味だ?」

「えぇと、今を夢と思っていらっしゃるので」


 少女は何を当たり前のことを言っているのだろうか。


「いやいや、思ってるも何も夢だろ?」

「いえ何を仰っているのか、これは現実ですよ?」

「またまた…」


 俺は否定をしようしたが、とある重大な事実に俺は気が付いてしまい途中で言葉が途切れてしまう。

 そんな俺を不審に思ったのか少女は、


「社畜さーん」


と俺の顔の前で小さく手を振りながら呼びかけてくるが、今の俺に反応する余裕は一切なかった。

 俺は急いで身支度を整え、少女に一言、


「留守番頼む」


と言いながら扉を閉める。

 時刻は7時16分、遅刻ギリギリである。

 それは今が夢だと理解している筈だが体が勝手に反応して出社してしまう、悲しき社畜の性であった。


ーーー


 会社に到着した時刻は7時31分、遅刻であった。

 俺は朝から三十分程遅刻したことについて小一時間程度、上司の小言を聞いていた。

 普段ならば胃がキリキリと痛み始めているのだろうが、俺は上の空で上司の声が全くと言っていい程耳に入って来なかった。

 まぁその態度が小言を長引かせた主な原因なのだが、俺が聞いていなくともある程度言って満足したのだろう途中で、


「もういい仕事に戻れ」


と俺は解放され、通常業務へと取り掛かった。

 だが、仕事中も先程と同じく上の空で、仕事に身が入らない。

 夢であるとはいえ、会社に遅刻すると焦って見知らずの少女を家に置いて来たのはよくないのではないのか、少女が連続で登場するのならば何かしらの意味があり、しっかり向き合うべきではなかったのか、と。

 今からでも帰るべきかなども頭に浮かんできたが悲しき性を持っている以上、早退などは何故か体が許さない。

 ならば早く終わらせて帰るだけだ、と俺は頭を切り替え仕事に取り組んだ。


ーーー


 幸い俺の仕事量は元々多くはなかったので、何とか定時内には終わらせることが出来た。

 では、何故普段は残業三昧なのかと疑問に思うだろうがその理由は至極簡単である。

 何故なら普段から上司や部下の仕事を押し付けられているからであった。

 普段通りであれば俺は胃を痛めながら機械的に仕事をこなしていただろう。

 だが、今日の俺は一味違う。

 これは夢なのだという謎の安心感からくる勢いに任せきっぱりと仕事を断り、定時退社をすることが出来のだ。


(定時退社なんて何年ぶりだろうか)


 外は夕日が沈みかけてはいるがまだ明るく、夕陽に照らされた住宅街からは夕飯の匂いが漂って来る。

 道行く人々は茜色に染まった道を少し寂しそうに、だが雰囲気や足取りは寂しさとは反対に軽い。

 俺もその雰囲気につられてか、不思議と足取りが軽くなる。

 夢だとはいえ、俺は数年ぶりに見る茜色に染まった景色に心揺さぶられつつ家路を急いだ。


ーーー


 家の前に到着すると俺は家の扉に手をかける前に一度、大きな深呼吸をする。

 もしかしたらこれは現実で朝の出来事は寝ぼけて見ていた夢かもしれない、それとも疲れで見えてしまった幻覚かもしれない。そんな考えが頭の中を駆け巡る。

 だがいつまでも玄関前に立っている訳にはいかないので、俺は意を決してドアノブに手をかける。

 俺は今朝鍵をかけ忘れていたらしく、扉は何の抵抗もなくすんなりと開いた。

 だが、直ぐには家に入らず、夢だとは思っているが念の為に扉を少し開いた状態で家の中へ声をかける。


「ただいま」


 部屋の中はとても静かで自分の声が反響して来た、という俺の淡い希望を打ち砕くかのように部屋の奥から、


「お帰りなさーい」


と小さな声が聞こえて来た。

 どうやら未だに俺は夢を見ているようだ。


(まだ夢から醒めないのか)


 俺はそう思いながら頬をつねってみる。


(痛い)


 痛かった。

 どうやらよくフィクションの中で登場する、夢か現かの判別方法は当てにならないようだ。

 だが、落ち着いて考えるてみると今朝も転んで痛みを感じていたので今痛みを感じないというのはおかしいのだ、と納得出来た。

 そういえばこの夢は現実と大差ないようだったのではないか。

時間の流れや匂い、温度、痛み。

 まぁ現実ではこの夢は六時間にも満たないだろう。

 そう俺が玄関で思考していると、部屋の奥から少女が出て来た。

 きっと俺が中々部屋に上がらないので、今朝のこともあり心配になったのだろう。


「社畜さん!大丈夫ですか?頭が痛いとか、何かありましたか?やはり油断は禁物だったんですよ…ぶつぶつ」


 少女の話す速度が段々と速くなっていく。


「大丈夫だから、な?」

「いやでも、ですが…ぶつぶつ」


 どうやら少女は自分の世界に引き籠ってしまい、全くではないが俺声は届いていない様である。

 話し合おうにも話が通じず、俺は何か少女の気を引けるものはないのかと少女に関する殆どない記憶を捻り出そうとするが中々浮かばず、頭を抱える。


「やっぱり力ずくに引き留めた方が良かったんじゃ…ぶつぶつ」


 その間にも少女は更に、自分の世界へと引き籠もってしまう。


「焼きぷりん」


 どうしたものかと悩んでいる俺の口からまるで天啓の様に、誰かに操られた様に漏れた言葉。

 その言葉に少女は、先程までの態度が嘘かの様に素早く反応する。


「焼きぷりんあるんですか!」


 少女の瞳は色こそ変わらなかったのだが、俺の幻覚かそういった仕組みか輝いて見えた。


「い、いや多分なかった筈」

「そうですか…ないんですか。そうですよね。私みたいな奴に食わせる物などある訳ありませんよね…ぶつぶつ」


 俺が否定をすると、少女は再び自分の世界へと籠もってしまった。

 折角少女を世界から引きずり出すことに成功したのに、またもや籠られたら堪ったものではない。

 それに夢とはいえここまで落ち込まれると少し心配になる。

 少女の籠りを阻止すべく、俺は咄嗟に、


「買いに行こう」


と口にした。

 その瞬間少女はにやりと、如何にも悪魔ですと言わんばかりの笑みを浮かべた。


(こいつ、まさか俺を嵌めたのか!?)


 どうやら俺は少女の策略にまんまと嵌められてしまったらしい。

 少し心配をした自分が馬鹿らしく思えてくる。

 そんな俺を余所に少女は、


「社畜さん、早く行きましょうよ!まだですか?ねぇねぇねぇ」


と、俺を嵌めたことなどなかったかのように騒いでいる。

 正直言ってしまうとうざい。

 この一言に尽きる。

 そんな少女の変わり様に俺が呆れていると、少女は早る気持ちを抑えられなくなったのか俺を押し退け外に出ようとするので、俺は慌てて少女の行手を阻む。

 少女は機嫌良く外へ出ようとしているところを止められ、少し不機嫌になったことが目に見えて分かる。


「何で止めるんですか!?私は外へ出るんだー!焼きぷりんが私を呼んでいる!悲しんでいるんだ!」


(ぷりんに意識はないだろ)


という突っ込みを飲み込みつつ、外へ出ようと暴れる少女の腕を掴む。


「待て待て、出かける前にお前靴とかあるのか?」

「え?今のままでいいじゃないですか。何が駄目なんです?」


 少女は裸足であったので、流石にそのままではいけないと思ったのだ。


「流石に裸足は駄目だろ」

「何でですか」

「いいから、少し待ってろ」


 何でだと不満をたれる少女を他所に、俺は少女が履けるような靴がないのかと靴箱を探す。

 すると少し埃が積もっていたがサンダルを発見した。


(そういえば最近は忙しくて暫く履いていなかったな。というか忘れてたわ)


 そんなことを考えつつ俺は軽く手で埃を払い、少女に手渡す。


「一応埃は払ったからこれ履いて行け」

「まぁありがたくお借りします」


 少し驚いた。

 てっきり埃が積もっていた靴など履けるか、と文句を言われるかと思っていたので素直に礼を言われるとは思ってもいなかったからだ。

 そんな驚きがつい口から漏れてしまう。


「意外だ」


 俺の呟きに少女は不満を顕にする。


「意外って何ですか!意外って!」

「い、いや嫌がられると思ったから」

「靴のことですか?馬鹿にしないでください。人から物を借りるのに対して礼をしないような悪魔は低級悪魔です!私はある程度の地位や品格は持っていると自負しています。そこらの低級悪魔と混ぜないでください!」

「ごめんごめんて」


 品格という言葉に少し違和感を覚えたが、少女の言葉を遮らなければ、このまま少女は止まらなかっただろう。

 少女は雑ではあるが謝られたという事実に満足したのか、いそいそとサンダルを履いている。

 そんな少女を横目に俺は自分の鞄を玄関に置き、財布と携帯だけを取り出し、ポケットへ仕舞う。


「社畜さん!準備完了です。行きましょう!」


 サンダルを履いた少女の姿は服装と靴が合わさってなく、少々滑稽であったがいいだろう。


「じゃあ行こうか」


 俺が言い終わる前に少女は扉を開け外へと出ていた。

 俺は少女の後を追い扉を閉める。

 行き先は安定のスーパーであるが、何故か俺の心は弾んでいた。

 余談だがスーパーの名は「セントー」である。決してスーパー銭湯ではない。


ーーー


 スーパーに到着すると、少女は俺の側は離れないが物珍しそうに店内を物色していた。

 先程までの少女の雰囲気は「わくわく」というのが似合っていたが、今は「うきうき」という方が似合っている。

 余程楽しいのだろう。

 少女は店内を物色しながら、


「これは何だろう。とまと?美味しいのかな。あっこれは見たことある。昨日食べたなぁ。きゃべつって言うのか…ぶつぶつ」


としきりに何かを呟いている。

 俺はそんな少女の腕を引きながら目的の物を特に迷うことはなく、次々に籠へと入れていった。

 俺はお目当ての物を持ったので会計の列に並ぼうとするが、少女に袖を引っ張られる。

 どうしたのかと尋ねれば、少女は真剣な面持ちで、


「焼きぷりんが呼んでいます」


と言い放った。

 そういえばぷりんを買い忘れていたことをすっかり忘れていた。

 少女はそう言い終わるや否や歩き出し、直ぐに焼きぷりんを両手でしっかりと持ち、満面の笑みで戻って来た。


「別に焼きぷりんじゃなくてもいいんだぞ」

「焼きぷりんが私に助けを求めていたんです。陳列されている姿はまるで悪の権化である天使に囚われた姫」

「天使なのに悪なのかよ」

「全てのとは言いませんが天使は嫌な奴ばかりです。だから悪の権化」


 少女の世界観は全く理解出来なかったが、少女が焼きぷりんを気に入ったことは理解することが出来た。

 会計を済ませている間にも少女は焼きぷりんから目を離さない。


(そんなに好きなのかよ)


 俺はぷりんに熱のこもった視線を送っている少女を観察しながら会計を済ませ店を出ると、少女は袋から焼きぷりんを取り出し、手でしっかりと包み込んだ。

 その手つきはまるで繊細な硝子細工を扱っているようであった。


ーーー


 玄関に到着するやいなや少女は靴を脱ぎ捨て、冷蔵庫の前まで走って行く。

 だが少女の血色の悪い手が冷蔵庫に辿り着く前に少女は足を滑らせてしまい、少女が大切にしていたぷりんは、少女の手という名の檻から大空に羽ばたくように宙を舞った。

 少女は何とか手を着いて顔と床との接吻は免れたが、ぷりんはと言うと床に激突してしまい、容器内のぷりんが原型を止めていないことは想像に難くなかった。

 一瞬の沈黙が辺りを包み込む。

 俺は荷物を玄関に置き少女に駆け寄るが、少女は床に手を着いたままの状態で固まっている。

 少女の視線の先にはぷりんが転がっていた。

 どうやら少女はあまりの衝撃にこの状況を理解していないらしい。

 だが次第に状況を理解したのか、少女の肩は小刻みに震え始め、少女の顔を覗き込むと目には大粒の涙が浮かんでいた。


「大丈夫か?」


 俺が少女に声をかけると、俺の存在に気付いていなかったのか、少女は声をかけられたと同時に顔を背けた。

 きっと少女の小さなプライドから俺に涙を見られたくなかったのだろう。

 俺は少女にかける言葉が浮かんでこなかったので、箪笥から取り出したタオルを少女の目の前にそっと置き、買った物を冷蔵庫に仕舞う。             

 その間少女はタオルに顔を埋めていた。

 俺は買った物を仕舞い終わるとしっかりと手を洗い、台所へと立った。

 俺が台所へと立ったと同時に少女は起き上がり、地面に転がっているぷりんを大事そうに胸に抱え冷蔵庫の中へと運び、そっと扉を閉めると無言で部屋の隅に移動し何かを呟き始めた。

 俺は今は少女を放って置いた方が正しいだろうと思い、眼下の食材たちに集中する。

 今晩の食事内容は既に決まっている。

 そうして俺の手は迷いもなく食材を昇華させていった。

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