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金秋と呼ばれる男の髪は、闇夜と星のようだった。真っ黒な髪に街灯の光りがうつると妖しいほどに艶々としているのだ。女性のメイク道具であるラメのようなものが振りかけられているのではないのかと思うほどだ。
だが、どうやってもその美しい髪よりも顔面にある傷跡から目が離せなかった。額から直線より少し斜めに線が走っており、辛うじて目は怪我をしていないが、鼻や唇の端にもたっする。首まで続いているように見えるが、自ら金秋と名乗った男は、首元に着物とは正反対のスカーフのような布を巻いており、傷口がどこまで続いているのかはわからない。どうやったら、このような傷が出来るのだろうか。
不運な事故だろうか?いや、こういう傷は見た事がある。ドラマや映画の時代劇に出てくる侍で、斬られた痕として残っている。そう、金秋が今相模に向けている長細い刀で斬られた痕だ。
「自分が斬られようとしているのに、考え事か。随分余裕があるな、化け物」
「いや、その。現実味がなくて、どうも信じられないと言うか何というか……」
「じゃあ、斬られてみるか?そうすれば、これが今おまえの目の前で起こっている事だと理解出来るだろう。まぁ、理解する前にお前は消滅するだろうがな」
「しょ、消滅ッ!?」
「安心しろ。何人もこれで斬ってきている。痛みなど感じないよう一瞬で消してやる」
「な、何人も!?というか、俺は化け物じゃないんだ」
「問答無用」
何かが光ったというのを確認した瞬間「斬られるッ」と咄嗟に目を瞑った。
が、次に感じたのはビュッという風を斬る音と、金秋の小さく唸る声だった。
「………おまえ、何者だ」
「…え」
相模が恐る恐る目を開けると、先程より鋭い目で金秋がこちらを見ていた。まだ刀を両手で持ち構えを姿勢を崩していない。
「何者って、ただの人間で……」
「生きているのか?」
「い、生きてますよッ!た、たぶん、ですけど……」
「だが、他の者にはおまえは見えていないようだが」
「そ、それは、少し前から原因不明の透明人間になってしまって。僕だった困っているんですよ」
「透明人間か。なるほどな。だからこれが見えるのか」
「え」
金秋は独り納得したように呟くと、手にしていた長刀をゆっくりと引き鞘におさめた。肌に触れれば血が流れ、体も命も斬って落としてしまう武器が視界から消えた事で、安堵から相模は体中の力が抜けて、そのまま後ろに倒れそうになってしまう。が、そんな時間も与えまいと、金秋は「ついてこい、まがいものの人間」と、相模に背を向けたまま言い残し、颯爽と歩きだしてしまう。その後を迅と呼ばれる犬がついていく。相模が気になるのか、迅は数歩すすむと振り返り、また歩き少しすると後ろを向いて「早く来い」と言っているようだった。
時代外れの武士のような口も態度も悪い男と大きな犬。
怪しすぎる組み合わせの1人と1匹についていくほど、普段の相模ならばバカではなかったはずだ。だが、今は自分を見れる存在、しかも会話まで交わせる相手が見つかった嬉しさが、刀先を向けられた恐怖心よりも勝ってしまっていた。
「ま、待ってください」
先程から小刻みに震えている足を両手で強く叩き、相模は力を入れて立ち上がった。フラフラになりながらも長い髪の侍の後ろを必死に追いかけたのだった。
この男は、一体何なのか?
今からどこに連れていかれるのか?
始末されてしまうのだろうか?
そんな不安から、サラサラと揺れる黒髪の男に話しかける事が出来ず、ただただ影のようについて歩くだけだった。が、歩く度にまぬけな音が夜道に響いた。もちろん、前の長髪の男でも犬でもない、相模自身から聞こえてくる。正確には、彼の腹からだった。
そう。今日こそは誰かと一緒に食事をすると決めて来ていたので朝から何も食べていないのだ。それにあまり金を使いたくないので節約もしていたので、普段からろくな物を口にしていなかったのがいけなかった。ここにきて、圧倒的緊張感がある経験をし、命が助かった事で一気に体の力も気も抜けたのだろう。腹の虫が盛大に鳴り続いていた。
始めはそれの音を無視していた男だったが、あまりにその音が大きく、しかも鳴りっぱなしだったので、知らぬ顔が出来なくなったようだ。
「風流とも言えぬ虫の音だな。おまえの腹で飼っている汚い音の虫は何と言う名だ」
「す、すみません……。自分では止められないので」
「………おまえ、なぜそんなに腹を空かせている。そんなにも腹が減ってるのか?」
「それはいろいろ理由がありまして……。そして、めちゃくちゃお腹空いてますね、はい」
「だったら、食えばよかろう」
「いつも一人だったから、今日こそ俺が見える人を探して食べようと思ってたんですけど。なかなか見つからなくて。それにお金もそんなにあるわけではないので……」
乾いた笑い声を交え、自傷する言葉を並べていると侍風情の男がちらりと振り返り、ため息を吐いた。
「もう少しで俺の家に着く。そうしたら何か食わせてやるからそれまで我慢しておけ」
「ほ、本当ですか?!」
「そんなに嬉しいか」
あまりに声が浮ついていたのだろう。珍しいものを見るように鋭かった瞳は大きく開き、驚いた表情でこちらを見つめていた。
それもそのはずだ。あまりに嬉しすぎて、相模の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいたほどだった。
誰ともしゃべらないだけなら生きていけるかもしれない。けれど、相模は存在さえも感じてもらえない。誰かに見てももらえなかったのだ。見える相手に出会ったとしても逃げられてしまう。寂しさが積み重なって、もう限界だった。
先程まで「この男に殺されるかもしれない」と思っていたはずなのに、何故かそんな恐怖すら薄れ、今は嬉しさが勝り、進める足も軽やかだった。そんな相模の嬉しさが少し前を歩く迅にも伝わったのか、尻尾をブンブン振って相模の周りを楽しそうにぐるぐると回っていた。「おまえとも一緒に食べれるな。お前はドックフードか?」と言うと、代わりに「迅はそんな物は食べん」と金秋が答えた。
「迅は犬ではない。山犬だ」
「山犬って犬なんじゃ」
「あぁ。今はそういう意味だったな。だが、迅は違う。狼だ」
「え?」
「ニホンオオカミだ」
もしかして、食事をごちそうするのではなく、自分が食べられるのではないか。
先程までの飛び上がるばかりの幸せは、また一気に恐怖に変わったのだった。
着物を着こなし、腰には2本の刀を差して、髪を高くに結んでいる男が住んでいる場所。
普通ならば、古びた日本邸宅を思い浮かべるだろう。木造で縁側から小さな庭が見え、そこには鯉が泳いでおり、家の敷地を囲むように武士家では必ず植えられているという竹ががサヤサヤと爽やかな音を鳴らす。そんな昔ながらの平屋の一戸建てを。
「ここ、ですか?」
「あぁ。そうだ。かまわん、入れ」
「は、はぁ」
金秋が足早に入った場所は電車の駅から少し離れた場所にある高級住宅街になるマンションであった。だが、中に入って驚いた。ホテル用に天井の高いエントランスに、大きな壺に飾られた花は相模の身長よりも大きかった。そして、極めつけは大理石の床に出迎えてくれるコンシェルジュだ。「おかえりなさいませ」とにこやかに挨拶してくれる。そんな高級マンションだ。
似合わない。それが第一印象だが、「直木賞受賞作家とか着物を着てる人もこんなところで住んでいたら普通なのか?」と思ってしまい、ならば別に普通かなっと自分の当たり前が凝り固まっているなと実感した。
が、後から思えば刀を持った人が出入りするマンションなどあるはずがない、と最上階の一番奥のドアの前に到着した際に思い直した。
中に入ると、普通のフローリングの廊下が続く。いくつかのドアがあったが、通されたのは一番奥のリビング。普通ならば、夜景が見える大きな窓に高い天井にピカピカの大理石の床。というのが、相模の想像であった。けれど、透明人間というありえない事象を体験している時点でそんな想像など無駄なのだとわかっているべきであった。
「めっちゃ和風ですね」
「日本なんだから当たり前だろう」
「そう、なんですかね……?」
目の前に広がっていたのは、大きな窓を隠すように背が高い障子が並んでいた。そして、張り替えたばかりの草な匂いがする青緑色の畳が一面に広がっていた。その上には大木を輪切りにしたよく田舎の家にあるような立派な机が中央に置いてある。その周りにふかふかしている座布団が並べられている。迅はその座布団に一目散に向かい、丸くなって座った。どうやら、その場所は迅のお気に入りなのだろう。
「迅の隣にでも座っていろ。食事を用意してやる」
「あ、ありがとうございます」
金秋は音もたてずに歩き出し、キッチンへと向かう。しばらくすると、包丁でリズムを刻むような音や、焼き魚や出汁の香りが広い部屋中に漂ってきた。誰かに料理を作ってもらい、その音を聞きながらぼーっと過ごす。そんな事はいつぶりだろうか。もう随分こんな素朴だけど、幸せな時間を過ごしていない事に気付いた。それと同時に、どうして会ったばかりの、しかも怪しすぎる人の家に居るのに安心しきってしまっている自分が信じられなかった。人は誰に関わりを持たない日々が続くと、少し優しくされただけで信用してもいいかもしれない、と不用心になってしまうという事に相模はハッと気づいた。そこからは緩み切って丸くなっていた腰をまっすぐに直して、柔らかな綿でも足が痺れてしまうぐらい体に力を入れて正座をしながら、次に金秋が戻ってくるのを緊張した面持ちで待った。
だが、すぐに腹の音が鳴り響き、その度に迅が瞳だけでこちらを見てくるので苦笑するしかなかった。
空腹が限界を超えて、気分が悪くなった時だった。
「この時代に正座で待つ人間などいるのだな。奇特な人間だ。いや、人間ではないのか」
「だから、人間です、たぶん。って、これは……」
「茶漬けだ」
おかしい。
てっきり、和食の定番である白飯に鮭の塩焼き、ほうれん草のお浸しに味噌汁が出るだろうと期待していた。いや、自分の希望だったかもしれないが侍がつくるのだから、きっとそうだと思ったし、香りではそう判断できた。
が、目の前には焼き魚が乗った白米に出汁のきいた汁が入っている。
「遠慮するな食え」
「い、いただきます」
正直に言えば、久しぶりの人との食事、そして手料理なので豪華なものが食べたかった。が、背に腹は代えられない。今はとにかく腹に何かを入れなければ倒れてしまいそうだった。
準備された漆塗りの箸を持ち、恐る恐る一口温かい汁が吸われた米を救って口の中に入れる。と、そこからは手も口も止まらなかった。
うまかった。今まで食べてきたどんな肉や刺身、コース料理などよりも上手く、感動を通り越して涙が出てくるほどだった。この世にこんな上手い食べ物があるのかと驚愕せざるおえなかった。もしかしたら、やはり金秋という男は人間ではなく、あの世の食べ物振る舞ったのかもしれない。あの世のものを食べたら現世には帰れないという話を聞いたことがあるが、もう止まらなかった。うますぎるのだ。
その様子を見た金秋はまたキッチンに戻り、同じ茶漬けを作り持ってきた。それを相模が夢中になってかきこみ、また金秋が料理をする。これを5回ほど繰り返した頃に、ようやく相模の腹が膨れ満たされたので、箸を置いて「ご馳走様でした」と金秋に伝えた。すると、「よく食ったな」と、自分の分と迅にも同じものを作り、迅の隣にそれを置き、1人と1匹は同時に食べ始めた。金秋は胡坐をかきがつがつと流し込むように食べ、迅はお上品に小さく口を開けて零さないように上手く食べている。犬の方が食べ方に品があるように感じられて思わず口元が緩んだ。
「それで、おまえは何故そんな体になった」
金秋は最後の一口を飲み込むと、相模にそう問いかけた。どうやら、相模の話を聞いてくれるらしい。普通の人間が見る事が出来ない相模を見れて、そして何故か刀を持っている今の時代にはいないであろう武士の姿をしている男。普通の人間ではないのは一目瞭然だ。ならば、この現象について何か知っているかもしれない、と相模は思った。元の人間に戻るための方法など、一向に見つかってはいない。そもそも相模を見える人間が少ないのだ。これは滅多にないチャンスだ。それに、こうやって話せる存在もなかなか出会えない。友人になってもらって、連絡先を交換して、時々会ってくれる人がいるだけでも今の相模にとっては一番うれしい事なのだ。
問題解決よりも、そちらの方が優先かもしれないとまで思う。いや、透明人間が治るならばそれに越したことはないが。何はともあれ、見つけた男の存在は大きすぎるのだ。これをみすみす逃すつもりはない。
相模は自分の周りの魚を逃さないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「原因はわからないんですよ。仕事から帰って自宅で普通に寝て、朝起きたらこうなってまして。通勤電車ではみんなに足を踏まれるは、どつかれるは。職場では無視されて存在さえ認めて貰えずで、かなり凹みました」
「家では誰にも会わなかったのか?」
「はい。誰にも会ってないですね。その日は酔っぱらっててそのままベットで寝ちゃいましたから」
「酔っていた?家に帰る前はどんな行動をしていたか詳しく教えろ」
胡坐をかいた足の上に膝を乗せ、片頬を手に預けたまま視線を相模に移す。その流れるような視線が合うと、相模は恐怖を感じてしまう。瞬きをした瞬間に、また鯉口を切られて青白い剣先を向けられるんじゃないかと思い、金秋の真っ黒な瞳から目を逸らす事が出来なかった。そして、もちろん「教えろ」という言葉に従うしかない。
それで原因がわかるのなら、とその前後の話を思い出し、ゆっくりと話し始めた。
「確か透明人間になる前は残業をした後に同期の男に飲みに誘われて、あんまり乗り気ではなかったんだけど、しつこく誘われたから飲んだんです。そういえば酒には強い方なんだけど、その日はすぐに酔っぱらってしまって、帰りは足元がふらつくぐらいだったんですよね」
「その夜はその同僚の男、1人だけしか会ってないのか?他に話した相手とか」
「まぁ、一緒に飲んだのはその男だけですね。話したりしたのは、店員さんぐらいかな。あー、でも目の前の人がスマホ落としちゃって女の人に拾って貰ったり、酔っ払いのサラリーマン達に絡まれて唾かけられたりしたぐらいかな。そういえば、その飲み会から運が悪いのが続いてるかも」
「ほう………、そんな事があったか」
金秋は何故か楽しそうに笑った後に「やはり迅はよい狼だ」と、座布団の上で丸くなって眠る茶色の毛玉を見つめながら満足そうに笑っている。その細めた目と緩んだ口元のまま視線をずらし、相模と目線を合わせた。
「その透明という妙な現象、何とかしてやろうか」
「本当ですか!?」
「だが、すぐに解決出来るモノでははない。それに大きな力が働いているのだ、危険も多いだろう。それなりの代償もいただかなければ、私もやる意味がない」
「……代償」
アニメや映画などの創作物で出てくる話だ。代償と言われれば、大体が命や記憶、声や肢体の不自由などとられては困る者ばかりを要求される。その代償が何なのか聞くのが怖くなるが、金秋という謎の男に助けて貰わなければ、この透明な体は治る事はないだろう。
孤独のまま生きていくぐらいなら、何かを失ってもいいと思ってしまうのだ。普通に戻れるのならば、代償は払う。そう決意し、相模はゆっくりと頷いた。
すると、それが同意と理解したのか金秋は同じように小さく頷き、その内容を口にした。
「私の仕事の手伝いをしてもらう。お前の力は役に立ちそうだ」
「……仕事って、金秋さんの仕事は何なのですか?」
想像していたものより大分簡単な事に拍子抜けしてしまったが、彼の仕事の内容を聞かないとわからない。もしかして、殺し屋かもしれない。となると、自分も人殺しの手伝いをしなければいけなくなる。さすがにそこまではやりたくない。というか、怖すぎて無理だ、と咄嗟に思った。
相模の問いかけに、金秋は刀の柄を握りしめた。
すると、先程からの笑みは消え、彼を包む空気が一気に重くなるのを相模は肌で感じた。瞳の色は更に暗くなり、鋭さが増し、すぐにでも剣を抜きそうな冷たくピリついた真冬のような雰囲気。
斬られる、と目を瞑りそうになるが、返ってきたのは刀が抜かれる音ではなく彼の低い声だった。
「人斬りだ。人は人でも生きてないモノ。私は、陰妖士(いんようし)の金秋だ。覚えておくがいい」
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