1章

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 相模白峰(さがみしろみね)は透明人間になっていた。


 自分自身でも、どうしてそんな事になったのか、まったくわからない。当たり前だ。普通に生き、生活していただけなのに、体が透明になり誰にも認識されなくなったのだから。


 初めに体の異変に気づいたのは、会社に出勤した時だった。いつも乗る満員電車で何度も体を押されたり、足を踏まれたり、怪訝な表情で睨まれたりという災難続きで、職場に着く頃にはヘトヘトだった。自分のデスクに隣に座る同期の男に愚痴でも溢そうと近づいた時だった。



 「おはようー。今日は本当に酷い朝だったんだ」

 「………」

 「体は押されまくるは、ヒールで足を踏まれるわ、怪訝な顔で見られるし。ほんと、最悪だったわ」

 「………」

 「………おい。何だよ、何で無視するんだ?おまえまで、俺を災難な日にしたいのかよ」



 抗議の声を上げるが、それさえも無視される。

 視線さえもこちらを向いていない。

 何で無視されるんだ。昨日、何かこの男が怒るような事をしただろうか。いや、今はお互いに違う仕事に取り組んでいるので、仕事で何かやらかしてしまったわけではないはずだ。悪口なんて言うほど暇な仕事でもないし、飲み会を断ったりもしていない。いや、むしろなかなか誘われないが昨夜は珍しく誘われ、ベロベロに酔って夜の街を歩くまで付き合ったはずだ。まぁ、嫌々だったが、久しぶりならいいかなって思えたぐらい長い時間飲んだのだ。

 無視される原因が全くわからないのだ。



 「あれ?今日、相模さんお休み?打ち合わせの予定だったんだけどな」

 「………え?」

 「部長、休みの連絡とか聞いてますか?」



 同期の男は、遠くに座る上司の男に質問すると「そんな連絡は受けてないぞ。出社してないのか?」と、顔を顰めながら自分のスマホを確認する。もちろん相模からの連絡は入っているはずがない。相模は出社し、同じフロアの彼のデスクに居るのだから。今まさに、目の前に立っている。

 会社全員で俺の事を無視すると決めて、存在さえ消そうとした作戦なのか。小学生の子どものようないじめでも受けているのか?と、考えたがすぐに違うとわかる。

 部長も同期の男も、そして他の社員たちはニヤけた表情などみせず、至って普段通りなのだ。むしろ、「相模さん、無断欠勤なんてしたことないじゃない?」「どうしたのかしら?」と女性社員は心配さえしてくれているようだ。



 「どういう事だ?」



 焦った相模は、同期の男に駆け寄り、彼の肩を掴んだ。



 「おいッ!ふざけないでくれよ。俺はここにいるだろ?!どこ見てるんだよ!」

 「ッ!!」



 男はやっとの事で相模の方を向いた。

 が、その表情は驚愕と恐怖で目と口は大きく開かれ、相模はそれを見て悟った。



 「今、誰か俺の肩に触ったか?」



 震えあがった声でそういう同期の男。

 彼の視線、言葉、表情でわかってしまった。



 俺は、誰にも見えていないのだ、と。












 それから、白峰は会社を休みに続けた。

 今は誰にも会わなくても生活できる世の中だ。透明人間となっても不便はない。メールをすれば会社には連絡できるし。アプリで料理も注文出来る。


 「………けど、孤独だ」



 元々、仕事以外で人と話す事はなく、休みの日は食料を買い込んでゲームをしたり本を読んだりする、所謂休日引きこもりという奴だ。だから、透明人間になった時は焦り不安にもなったが、「仕事以外に外にも出ないし、まぁ何とかなるかな」という、自分で驚くべきぐらいにそれ状況を冷静に受け止められていた。幸いにして、仕事は自宅で行う事が出来るもので、出社もせずに週に数回電話でやり取りをするぐらいだ。何故か電話を通せば会話が出来ていたのが不思議であったが、根っからの引きこもりだった相模にとっては、ありがたい自体でもあった。



 が、そんな生活はあっという間に急変する。

 自宅勤務可能な職場であったが、1か月に1度は出社しなければならず、それを相模は病気を理由に断り続けていた。始めは信じてくれていた職場の仲間も一向に診断書も提出しない、出社もしないというルール破りの連発する相模を信じられなくなったようで、報告メールも用件のみの冷たいものに変わっていった。電話口でも「まだ出社しないんですか?」と言われてしまい、相模も返事に困る事が多くなった。



 『相模。上からの決定事項がある。本日付けで退職してくれ。理由はわかっているな』

 「………はい」

 『お疲れさん。会社にある荷物は送ってやる。俺からの餞別だ』

 「………わかりました」

 『1年前のお前の事は信頼していたし、人間として好きだったよ』



 ありがとうございました、の言葉を言い終わる前にガチャリと無機質な音が耳から脳内に響き渡る。

 その言葉は1年前の相模が言わなければ、上司には聞いてもらえないのだと知った。


 





 「それにしても、誰かと一緒に会話しながら食事したいな」



 もう1年ほど、直接誰とも話していないと、誰でもいいので話したくなるものだ。透明になる前になる前は人と会話するのは億劫だと思っていたはずなのに、今はコンビニやスーパーのレジの人でもいいから会話をしたいと思ってしまうほどに人との関わりに飢えていた。自分でもよくわからないが、やはり人に認識されないと言うのは切ないもののようで、暇さえあると街をうろつくようになっていた。


 どういうわけか、相模が身に着けたり持っているものも同時に見えなくなってしまうようで、買い物など出来るはずがなかったのだ。なるべくは、通販で冷凍食品を買ったり、出前をとって食事をしていた。どうしても買い物をしたい時は、申し訳ないと思いつつも、商品を勝手に取り、その代金に上乗せしたお金をそっとレジ横に置いていた。きっとその店は不気味に思っているはずだと思うと、頻繁には出来ずにわざわざ遠出をして買い出しをする事もあった。

 そして、仕事を失った事によりますます人間と話す事がなくなり、お金も簡単には使えない。困窮した生活を過ごしていた。もちろん、自宅のみで可能なネットビジネスも始めたが、そういうものは軌道にのるまで時間がかかるものだ。貯めていたお金を使う生活が続いたが、銀行通帳を見るとため息と不安が増す日々が続いていた。



 そんな毎日から逃れるように、相模は街中を歩いていた。

 相模は人とぶつからないようにきょろきょろと視線を絶えず動かしながら町を歩く。



 「今日こそは誰かと話す……っ!」



 雑踏に紛れるような小さな声だったが、強い口調でそう自分に言い聞かせて忙しそうに歩く人々の目を見つめる。そして、とある_人物を探すのだ。それが、相模が街をぶらぶらと歩く、もう1つの理由だった。けれど、そのとあるを見つけるのには、辛抱強く待たなければいけない。見つけ出すのが難しい。そして、見つけたとしても簡単には話す事など出来ない人物だ。

 人通りが多い駅前まで行くと、相模はとある古びたビルに背中を預けて佇んだ。ここならば、誰かが立ち止まったり待ち合わせなどで留まる事がないはずだと考えたのだ。そして、じっと歩く人々の目を見つめ続ける。


 初夏といえど、人が集まる場所は、やはり暑い。街中ではアスファルトの照り返しが酷く、日陰で佇んでいる相模でも喉が渇いてくる。今日は見つけて話をするまでは帰るつもりはなかったが、自然ともうこの場から立ち去りたい気持ちが増してくる。透明人間になったのだから、暑さや寒さがましになるぐらいと特典があってもいいのではないか。なんて、一人で愚痴を溢してしまいそうになった時だった。



 「ぁ」



 とある_若い男と相模の視線がバチンと合った。その瞬間に相模は小さな声を発したが、スーツを着た若い男はすぐに視線を逸らし、目線を足元に向けた後、足早に去っていこうとする。



 「待って!」



 ずっと待っていた存在をみすみす見逃すわけにもいかず、相模は人にぶつかるのも構わずにスーツの男へ一目散に走る。相模とぶつかった人々は、足を止めて怒ったり、驚いたりしてそちらの方を見るが誰もいないため、皆が不思議な表情を見せている。が、相模はそんな事どうでもよかった。

 相模と目が合った男に近づくと、相模は迷う事なくサラリーマンの男の左腕を掴んだ。



 「ひっ!」

 「お、俺の事が見えるんだよな。あ、驚かせて悪かった。けど、俺はおまえと話しがしたいだけで」

 「や、やめろ!」



 サラリーマンと思われる男は、顔を真っ青で引き攣っており、声は恐怖で震えていた。相模が掴んだ手を思いっきり振り払い、相模はゆっくりと後ずさりする。そして、いつもと同じ言葉を相模に向かって言い放った。



 「ゆ、幽霊だ………」

 「ち、違うんだッ!」



 スーツの男は、震える体を抱きしめるように持っていたカバンを胸に抱えて、前を見ずに走り去っていく。先ほどの相模と同じように誰にぶつかるのも構わない必死な形相だった。

 その場に残された相模はその男の背中を呆然と見つめた。背中が子どものように小さくなり、人混みに紛れて見えなくなると、大きくため息をついた。



 「さっきの人、何?幽霊と言ってなかった?」

 「え、こわ。見える人?」

 「えー、少しおかしい人なんだよ」

 「そっちの方がこわいよ」



 落ち着いてくると、周りの人々の言葉が耳に入る。好き勝手な想像をして、怖がって馬鹿にして人を蔑む。心配する人なんかいない。

 そして、自分の事も見えない。ただに人間。どんッどんッとまた人にぶつかってしまう。



 「くっそッ」



 相模は、ポケットに両手を突っ込んで、下を向いて歩き始めた。

 もう誰かとぶつかる事を気にしてなどいられないほど、疲れていた。


 先程の男と同じように、俯きながらその場から去ったのだった。










 この世に者以外の存在。それは人間が見る事が出来る者のみが存在していると言われる。

 幽霊や妖怪、おばけ、など様々な呼ばれ方をされているが、一言で言ってしまえば、生きている人間や動物以外の人外。それを見る事が出来る人間は数少ない。稀と言っていいほどだ。相模が普通の人間だったときも、そんな人間は周りにいなかったし、「幽霊が見える」と言われたら、胡散臭いな、と思ってしまっていただろう。もしかしたら、そう思うのが半数以上なのかもしれない。

 だが、いざ自分が普通の人間とは言えない透明人間になって感じた事。それは、幽霊が見える人は思った以上に多いという事だ。はっきりと見える人間は稀なようだが、感じる事が出来る人は多いようで、相模が居るところを、視線は合わないにしても見つめてくる人は多かった。けれど、先程のスーツ姿の若者のように、しっかりと相模の目を見て、しかも話す事が出来る存在は数少ない。

 だからこそ、見逃したくなかった。



 「話したいだけなんだって。むしろ、食事も奢ってやるから一緒に食事してくれないかな。はー、霊感あるキャバ嬢とか居たら常連になるのに」



 逃した魚はでかかった事に悔しさを隠せないまま、相模は呆然と街を歩いていた。

 確かに周りには見えてないだろう人間以外の存在から突然声を掛けられら、恐怖でしかないし、そんな人外の存在に食事なんて誘われたら、自分が何かさせるって思うだろうな、とあの恐怖の表情を見せて怯えていた男に対して申し訳ない気持ちにもなる。だが、「誰かと会話をしたい」という欲求を我慢出来なかった。


 自分は人間以外の存在、幽霊や妖怪、化け物になってしまったのだろうか。

 そう不安になる事がある。実は気づかないだけで死んでいるのではないか、と。だが、仕事も出来ているし、お腹も空くし風邪もひく。ただ透明人間になっただけなのだと思いたい。

 もちろんネットで「透明人間 治す方法」と検索してもわからない、近所のお寺に行っても会話できる人もおらず、ただ何かがいると思われたのかお経らしきものを唱えられただけで、それが治る事はなかった。



 「やっぱり、俺、化け物にでもなったのかな……」



 弱々しい声とため息が出た。

 気が付くと、大通りから外れたさびれた商店街についた。日は暮れてきたが、店が閉まる時間ではないだろうからシャッター街なのだろう。誰からも見捨てられた街。どこか自分に似ている。そんな風に思ったからだろうか、自然にそちらへ足が進んでいた。随分古くなった街灯が点灯しはじめるが、どこか薄暗い。今は夕暮れ時で空が明るいのでまだいいが、夜の帳が完全に降りたら、この街灯だけでは心もとない明るさだろうなと思う。風が吹く度に、錆び付いたシャッターがガタガタと鳴っている。

 そんなシャッター街を歩く人は疎らで、相模は安心して肩を落とした。昼間にも歩いてどこか店が開いていたら通いたい、だがその店主が少し霊感があって怖がりではない人だといいな。なんて、馬鹿げた願いを頭に思い描いた時だった。



 「ワンッ!」



 突然、背後から犬の声が聞こえ、アーケードに響いた。それと同時に、軽い足音がこちらに近づいてくるのがわかった。相模は咄嗟に後ろを振り向いたが、それはすぐに目の前に来ており、気づくと同時に相模に飛び付き、相模はそのまま犬と共に尻もちをついて倒れていた。



 「な、なんなんだ!?おい、ちょっと……」



 目の前にいたのは黒と茶色が混ざった毛をもつ日本犬のようだった。その犬が、何故か相模の体を押し倒し、動けなくなった相模の顔をべろべろと舐めたり、匂いを嗅いだりしていた。押し倒された時は襲われるのかと思ったが、どうやら違うらしい。何故か懐かれているようだ。



 「ワンワンッ」

 「わ、わかったから落ち着け。後で餌買ってやるから」



 そう言って、その犬の頭を恐る恐るに撫でてやる。すると、嬉しそうに尻尾を振り、甘えるように声を鳴らした。

 


 「おまえには、俺が見えるんだな……」



 会話ではない。

 けれど、久しぶりに怖がられずに、近づいてくれて関わりをもってくれた。

 そんな犬がとても愛おしく感じられ、相模は自然と口元に笑みを浮かべており、その少し硬い毛を撫で続けていた。それが嬉しいのかその犬も目を細めて黙ってされていた。

 この犬だけは、俺が見え懐いてくれる。そう思うとどうにも離れがたい。

 自分の生活だけでいっぱいいっぱいだが、この犬と生活できれば寂しさなど感じなくなるんではないか。想像しただけで相模の気持ちは満たされていくようで、胸が熱くなった。



 「おまえ野良犬か?俺のとこに来るか?」

 「人の物を連れ去ろうとはいい度胸だな」

 「………え?」



 低い声が近くで聞こえる。

 ハッと犬から視線をそらすと、相模が倒れている場所の目の前に男が一人佇んでいた。足音も気配もしなかったので、相模はここまで近くまで人が来ていたのに声を掛けられてやっと気づいた。

 切れ長の真っ黒な瞳は鋭く、睨みつけるように相模を見下ろしている。

 そして、その男は今時珍しい着物姿であり全てが黒色の服装だった。黒色は青白い肌を恐ろしいほど引き立てており、男そのものが闇のようだった。瞳の鋭さと黒の着物の次に目を引くのは左腰にある二本の刀だった。帯刀しているのだ。まるで、数百年前の武士のようだ。



 「迅(じん)。面白いものを見つけたな」



 その男がそういうと、相模から離れなかった犬はすぐに着物の男に近づき、傍の座り込んで男を見上げながら尻尾を振っている。

 男がゆっくりと相模の方へ近づいていく。すると途中で商店街の淡い街灯の光りが彼の顔を照らした。

 そこで相模の視線は男の姿に釘付けになった。

 男の顔には大きな傷があったのだ。額から首元にかけて痛々しい傷跡があったのだ。すでに傷口は塞がっているが、それでも酷い怪我だったのだろうか肌の色が違っているのだ。少し赤みをおびた、まるでそこの傷口が「痛い痛い」と言おうとしているような、唇と同じような色であった。


 キンッという空気を切り裂く音が聞こえたと思うと、青白い光と共に冷たい剣先が眼前に置かれた。



 「なッ………」



 いつの間にか腰にさしていた刀を抜き、相模に向けていたのだ。

 驚きと恐怖から相模は悲鳴を上げる事も出来ずに、男の肌と同じ青白い刀を震えて見つめる事しか出来なかった。



 「珍しい化け物。この金秋(きんしゅう)が、この刀で切り刻んで殺してやろう」



 初めてその男が笑みをこぼしたが、それは妖しくも美しいほどの表情であり、相模は彼こそが化け物ではないか。  

 そんな風に思えてならなかった。




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