第八十五節 徳川家康の手で始末された者

悲しみのどん底へと叩き落とされた四郎しろう勝頼かつよりであったが、その悲しみに浸る『時間』は残されていない。


甲陽軍鑑こうようぐんかんという歴史書には……

勝頼が妻を迎えた経緯について、こう書かれている。


「織田信長から武田信玄へ遣わされた使者が、次のような申し出を行った。

『それがしは、美濃国みののくに苗木なえぎにいる妹婿の娘を幼少の頃から手元に置いて養っていた。

姪ではあるが、実の子供以上に心を砕いて育ててきた。

その娘は15歳であり、高遠城たかとおじょう[現在の長野県伊那市高遠町]のあるじで20歳となられた四郎殿へ嫁がせたい』

と」


いとは、ただの娘ではなかった。

幼少の頃から手元に置いて大切に育てられ、実の子供以上の愛情を注がれた『織田信長の愛娘』であったのだ。


その結果として……

いとは、信長という人物を熟知することとなった。


「信長様は桁外れに『純粋』な御方。

おのれの正義を、信念を貫くためならば、手段など選びません」

と。


愛娘、殺害の真相を知った信長がどんな行動に出るか……

いとはすべて読むことができたのである。


第一に。

京の都を包囲し、火を放って、前代未聞の虐殺と略奪を行うこと。


第二に。

武田一族の徹底的な殲滅せんめつと、恵林寺えりんじの徹底的な破壊を目指すこと。


「だから。

あなた。

この事実を、絶対に明らかにしようとしてはなりません」


死の間際。

いとは、こう言って夫へ強い警告を発したのだ。


 ◇


父と相談した勝頼は、亡き妻の『遺言』を直ちに実行し始める。


その1つ目。

いと龍勝院りゅうしょういんという戒名かいみょうが付けられた。


戒名とは、生前に出家したことを意味する名前である。

特に。

高貴な人に対しては、最後に院を付けるのが当時の習わしであったらしい。

武田信玄の正統な『後継者』に指名された信勝のぶかつ[このとき既に信勝が成人するまでは勝頼が武田家当主を代行することに決定している]の実の母である以上、当然と言えば当然だろう。


加えて。

龍勝院りゅうしょういんという戒名かいみょうを付けたことは……

いと甲斐国かいのくに恵林寺えりんじ[現在の山梨県甲州市]ではなく、信濃国しなののくに龍勝寺りゅうしょうじ[現在の長野県伊那市高遠町]で死んだと周囲を『あざむく』のに一役ひとやく買った。


冒頭に引用した甲陽軍鑑こうようぐんかんという歴史書にもある通り、20歳の頃に高遠城たかとおじょうあるじを務めていた勝頼にとって、城下にある龍勝寺りゅうしょうじは勝手知ったる場所でもある。

いとの殺害を隠すための偽装工作を施すには格好の寺であったとも言えるだろう。


こうして。

歴史書の筆者たちも、いとの遺言にまんまと『あざむかれ』た。

龍勝寺りゅうしょうじに問い合わせたところで「勝頼の奥方とは縁もゆかりもない」と言われ、死んだ場所も死んだ原因も分からず途方に暮れた挙句……

信勝のぶかつを産んだときの難産で死んだと出鱈目でたらめを書く有り様であった。


それだけではない。

後に恵林寺えりんじは織田信長の徹底的な『破壊』対象となり、住職を含む関係者たちは生きたまま焼き殺された。


恵林寺を徹底的に破壊した理由が分からない歴史書の筆者たちは、信長が古い時代の象徴を破壊したかったとか、狂気であるなどと言ってその場を取りつくろっているが……


結果として。

武田家の本拠・甲府こうふ[現在の甲府市]は戦火から守られ、武田家の居城・躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたも無事であった。

徹底的な破壊対象は恵林寺のみであったようだ。


これは、あまりにも『不自然』ではないだろうか?

辻褄つじつまの合わない理由でその場を取り繕うのではなく、もう少し自分の頭で筋道すじみちを立てて考えた方が良いかもしれない。


 ◇


そして2つ目。

兄弟の中でも、いとを最も慕っていた妹を呼んでこう言った。


「松よ。

兄の頼みを聞いて欲しい」


「何でしょう?」

「織田信長殿の『後継者』である信忠のぶただ殿へ嫁いで欲しいのだ」


いと様がお亡くなりになったからですか?」

「うむ。

いとの遺言には、こうあった。

『武田家と織田家を結ぶ糸を、決して絶やしてはなりません。

両家が争うようなことになれば……

戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成するどころか、わたくしたちのまことの敵である武器商人を肥え太らせるだけではありませんか。

むしろ。

武田家と織田家は手を携え、共にまことの敵を倒すべきなのです』

とな」


「兄上。

あの御方の願いならば……

松は、喜んで参ります」


「頼んだぞ。

妹よ。

そなたが、両家を結ぶ新たな糸となるのだ」


こうして成立した松姫と信忠のぶただの婚約であったが……

真相を知った信長が激しい憤怒の感情を抑えられず、愛娘が読んだ通りの行動を起こしてしまったことで、松姫の輿入れが困難な状況となってしまう。


ただし。

復讐の鬼と化した信長も、松姫と信忠の婚約を『解消』させることはしなかったようだ。


信忠自身も、正室は松姫ただ一人であると認識していたらしい。

子供を作るために何人かの『側室』を置きはしたものの……

使


信長も、その息子の信忠も、愛娘の遺言を尊重し、その言葉を最後まで守り通そうとしていたのだろうか?


 ◇


織田信長と万見まんみ仙千代せんちよとの会話に舞台を戻そう。


「信長様。

いと様、殺害の真相を教えてくださり……

まことにありがとうございます」


「ところで、仙千代よ。

わしは……

愛娘の殺害に関わった奴らをことごとく『成敗』すると決めていた」


「存じております。

そのために京の都を包囲し、火を放って、前代未聞の虐殺と略奪を行われているのでしょう?」


「ああ。

『黒幕』である上京かみぎょう[現在の京都市二条通より北側]の武器商人どもは、何があっても絶対に容赦しない」


「……」

下京しもぎょう[現在の京都市二条通より南側]の倍の銀を差し出して詫びを入れてきたところで……

許されると思ったら大間違いぞ!

おのれが犯した愚行を悔やみながら死ね」


「……」

「次は……

その『実行者』どもよ」


「実行者とは、誰です?」

「第一に。

愛娘を恵林寺えりんじへ送った武田一族の徹底的な殲滅せんめつと、恵林寺の徹底的な破壊。

そして第二に。

愛娘が恵林寺に入る『きっかけ』を作ってしまった者ども」


「きっかけ、とは……?」

「仙千代よ。

もう忘れたのか?

あの上村合戦かみむらかっせんがなければ……

加えて、合戦の引き金となった家康の弟の奪還計画がなければ……

愛娘が恵林寺えりんじへ送られることはなかった」


「ま、まさか!

信長様。

上村合戦に関わった者たちもことごとく成敗なさると?」


「良いか。

邪悪なくわだては、黒幕一人の手では絶対に完成しない。


「……」

「ゆえに、実行者も同罪ぞ。

特に……

奪還計画を実行した伊賀国いがのくに[現在の三重県伊賀上野市周辺]の者どもは絶対に容赦しない。

京の都と同じ目に合わせてくれよう」


「信長様。

そもそも奪還計画は、於大おだいの方[大河ドラマのどうする家康では松嶋菜々子さんが演じている]のことほかほか強い我が子への愛情が『発端』でしたが……」


「ああ……

そうじゃ」


於大おだいの方までも成敗なさるのですか?」

「わしは、於大の方を成敗する気には到底なれん。

我が母にも……

ほんの少しでいい。

於大の方が持っている我が子への愛情を、わしにも向けてくれたならと思うと……」


「お気持ち、お察しします。

信長様。

罪はむしろ、兄の水野信元みずののぶもと[大河ドラマのどうする家康では寺島進さんが演じている]の方にあると見るべきでしょう。

妹の暴走を止めるどころか……

伊賀者いがものを雇って計画を進めたのですから」


「仙千代よ。

実はな……

この件については、家康と話が済んでおるのじゃ」


「家康殿と?

どんな話をなさったのですか?」


「家康はな、身内の者が愛娘の死に関わったことに強い責任を感じていた。

だからこそ。

於大おだいの方を成敗しない代わりに……

2人の男を必ず始末するとわしに約束した」


「2人の男?

誰と誰です?」


「1人目は、奪還計画によって戻ってきた弟自身」

「ん!?

その者は確か、戻る道中の凍傷が原因で病死したはずですが……」


「病死ではない。


「ま、まさか!?

実の弟に毒を盛ったと?」


「ああ。

家康を甘く見ない方がいいぞ?

良くも悪くも、目的のためなら手段を選ばない男だからのう」


「2人目は……

水野信元みずののぶもと?」


「家康は約束してくれた。



【次節予告 第八十六節 勝てば官軍、負ければ賊軍】

織田信長は、室町幕府と和平を結ぶ『勅命』を賜ろうとします。

万見仙千代は驚き、こう言うのです。

「国境を守る兵を根こそぎ引き抜いて5万人もの大軍を集めたのは、幕府を滅ぼすためだったのでは?」

と。

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