第八十四節 織田信長の愛娘、その遺言
「このくそ
うぬは妻の
我を失った夫に落ち着きを取り戻させたのは、自らの力でその身を起こした
「あなた。
その刀を、お納めください。
僧たちに罪はありません。
わたくしの命は、恐らく今夜限り……
『最期』の一夜を一瞬たりとも無駄にしたくないのです」
「分かった。
すべて、そなたの申す通りだ」
◇
妻から全てを聞いた夫は、最初に激しい怒りを覚えた。
「おのれ!
武田四天王の足元にも及ばない『無能』ぶりに加え、武器商人ごときの口車に乗せられて我が妻を
奴らは、どこまで武田家の足を引っ張れば気が済むのか!」
もっと激しい怒りを覚えたのが、六郎の雇い主に対してであった。
「奴だけは……
奴だけは絶対に許さん!
必ず、わし自らの手で、この世で最も
ただし。
最期の一夜である以上、『時間』は何よりも貴重である。
夫はすぐに怒りを
◇
妻は、夫の手を握って語り始める。
「あなた。
この『事実』をすべて明らかにするおつもりですか?」
「当然だ。
事実をすべて明らかにし、関わった奴らを
「六郎殿の雇い主の『武器商人』は、武田家の領土拡大に貢献した功労者でもあるとか。
また。
実力があるか否かは別として、
「……」
「しかも。
六郎殿が全てを話してくれたおかげで、
肝心の『証拠』は何一つ残っていません」
「……」
「
事実を明らかにする意味はないでしょう……」
「そ、そんな馬鹿な!
それでは……
そなたの無念を晴らすことができない!」
「……」
「それに。
証拠が何一つないとしても。
そなたを殺して誰が一番『利益』を得たかを見れば、黒幕も、その実行者も、おのずと明らかになるはず」
「……」
「父と手を組んで、この
その背後で糸を引く京の都の武器商人ども。
どちらも、決して自らは踊らない。
己の頭で筋道を立てて考えられず、誰かから勧められたことを、勧められるままに実行してしまう愚か者を
実行者を始末したところでキリがない。
傀儡に成り果てる奴など、いくらでも
「……」
「だからこそ。
黒幕をすべて始末せねばならないのだ!
京の都の武器商人までは手が届かないとしても、この国の武器商人とそれに組した奴らを
わしは、そなたの無念を何としても晴らしたい」
「あなた。
わたくしの無念を晴らすことよりも、もっと深刻な『問題』があるのではありませんか?」
「深刻な問題?」
「わたくしが、織田信長の愛娘であることです」
「……」
「信長様は、わたくしに実の子供以上の愛情を注いでくださいました。
ゆえに。
間違いなく、わたくしの殺害に関わった者を絶対に容赦しません。
あのお人柄とご気性ならば……
京の都の武器商人の
「京の都の武器商人を根絶やしに?
どうやって?」
「京の都を包囲し、火を放って、前代未聞の虐殺と略奪を……」
「何と!
あの京の都を灰にするのか?
無関係な人々も巻き込むことになるぞ?」
「信長様は桁外れに『純粋』な御方。
己の正義を、信念を貫くためならば、手段など選びません」
「そこまでやるのか……」
「わたくしは、幼い頃から信長様の手元で育てられました。
お母上の
お父上のお人柄も、ご気性も、わたくしは十分に心得ております。
そして。
信長様の復讐は、京の都に火を放つ『だけ』では済まないでしょう」
「まだあると?」
「武田一族の徹底的な殲滅と、恵林寺の徹底的な破壊……」
「武田一族の
それは……
我が武田家と、
「はい。
武田家は、信長様の『
「そんな……
馬鹿な!」
「だから。
あなた。
この事実を、絶対に明らかにしようとしてはなりません」
◇
「
そなたは……
この事実を、『隠す』べきだと申すのか?」
「……」
「お願いです。
わたくしが重い病を患い……
この
「み、自ら!?」
「はい」
「
そなたは、信長殿に対して『嘘』を付いても構わないと思っているのか?」
「むしろ。
父に対しては嘘を付く方が良いと思っています。
これは、父が過ちを起こさないために必要なことですから」
「それは分かったが……
そなたの無念はどうする?
どれほどの代償を支払う羽目になっても……
わしは、そなたの無念を晴らしたい!
そなたは、わしの一番大切な、たった一人の妻なのだ」
「お気持ちは嬉しく思いますが、優先順位を間違えてはなりません。
今は……
わたくしの無念を晴らすよりも、武田家と織田家が手を携え、共に『
「真の敵……
銭[お金]の力で、裏から
「はい」
「いかにして倒すか、そなたには考えがあると?」
「あなたもご存知の通り……
武器商人たちの力の源泉は、彼らの持っている莫大な銭[お金]にあります。
その流れを『断て』ば良いのです」
「銭[お金]の流れを断つ?
確かに、それができれば武器商人どもは痩せ細って力を失うとは思うが」
「方法は2つです。
1つ目は、幕府より『
「それは……
「はい。
もし従わない大名や
「東は、我が武田軍が討つと?」
「あなたには優れた軍略の才能があり、武勇に優れた武田四天王もいます。
無敵の武田軍に
その圧倒的な武力を恐れ……
東にいる大名や
「なるほど。
そして、2つ目は?」
「2つ目は、『
つまり。
「
「わたくしは、こう思っています。
鉄砲の弾丸の原料となる『
それと引き換えに南蛮人に売り渡す『奴隷』が必要となり、異国へ売られる男女や子供の悲劇がいつまでも続いてしまう。
こんな貿易など、我が国にとって百害あって一利なしではありませんか」
「確かに。
南蛮貿易のせいで、人を売り買いする
そのための
悪循環だな」
「はい。
このように
武器商人たちは痩せ細っていくでしょう」
夫は、妻の手を握って誓った。
「
今……
強く確信したことがある。
信長殿ほどの英雄が、なぜ大勢いる姪の中で、しかも幼少の、そなた『だけ』を手元に置きたいと願ったのか?」
「……」
「そして。
わしが
「あなた」
「常に誰かの役に立ちたいと考え、そのためならば
約束しよう。
わしは必ず信長殿と手を携え、共に
「あなた……」
「だから。
頼む!
ずっと、わしの側にいてくれ……
死なないでくれ!」
◇
翌朝。
織田信長の愛娘、死す。
享年23歳。
愛する妻が息を引き取る瞬間を見た夫は、思わずこう叫んだ。
「どうしてだ!
どうして、死が二人を分かつのか!
誰か教えてくれ!
どうして人は、死ななければならないのか!」
動物と比べてはるかに『特別』な存在であるはずの人間。
その人間が、動物と同じく、やがて必ず訪れる死から逃れられないのは、一体なぜなのだろう?
この大いなる疑問の答えは……
どの書物を読めば得られるのだろうか。
【次節予告 第八十五節 徳川家康の手で成敗された者】
織田信長は、愛娘の殺害に関わった者たちを尽く『成敗』すると決めていました。
『黒幕』である上京と、その『実行者』。
『邪悪な企て』は、実行する愚か者のせいで完成してしまうからです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます