第八十三節 六郎という名の男

ことが響いている。

彼女のかなでる美しい音色は、その場にいる人々を魅了するのに十分であった。


しばらく経つと。

曲のクライマックスが近付いて来たのか、はく[テンポのこと]がだんだん速くなっていく。

げんはじく彼女の指も激しく動き、もはや素人の目では追えない程になった。

さすがはことの名手が成せる技なのだろうか。


そして、クライマックスを迎えた瞬間!

突如として音が止まってしまう。

あまりの出来事に驚いた人々が彼女の方を見ると、げんはじく彼女の指の動きが完全に止まっているようだ。


同時に激しくき込む。

せきはすぐ終わるどころか、激しくなる一方でことを弾くどころではない。


続いて大量の血を吐いた。


 ◇


「そんな馬鹿な!」


恵林寺えりんじ[現在の山梨県甲州市]の境内けいだいにある木の上にひそみ、彼女を見ていた『男』は思わず声が出そうになった。

「なぜだ!?

武田家に親を殺され、その復讐を果たすために生きると誓っていたわしは……

雇い主の依頼を受けていとという女子おなごの飲み水に少しずつ毒を入れていた。

しかし彼女の人柄を知るほど、わしの心は激しく抵抗するようになった。

『あの女子に罪はない!』

と。

そして。

毒を入れることが出来なくなってしまったのだ!」


「わしは……

雇い主に対して、こう訴えた。

『これは親の復讐とは何の関係もない!

それがしに、あの女子を殺すことはできない!』

と。

そして、ついに雇い主は折れた。

甲斐国かいのくにの民を数百人ほどあやめることにはなったが……

わしは、伊賀者いがものを使って徳川家康の弟を奪還することに成功した。

加えて。

伊賀者を追う秋山信友あきやまのぶとも率いる武田軍と、織田家に属する遠山とおやま一族を、美濃国みののくに恵那郡えなぐん[現在の中津川市、恵那市]にて衝突させた。

この武田軍と織田軍の衝突によって、両者の争いはいくさへと発展するに違いない。

おびただしい兵糧や武器弾薬が売れることだろう。

安心せよ、六郎よ。

と!」


そして六郎は……

途中から恵林寺えりんじにやってきた一人の侍女じじょに思いを留める。


「まさか、あの侍女が!?

わしに代わって飲み水に毒を入れ続けていたのでは?」


木の上から六郎の気配が消えた。


 ◇


恵林寺えりんじ境内けいだいには、いくつかの井戸がある。


一人の若い侍女じじょが……

その中の一つの井戸に、水をみに来ていた。


背後に誰かの気配を感じた瞬間、首筋に冷たい物が当たっていることに気付く。

「声を出すな。

出せば斬る」


「誰?」

「おぬし……

妙に落ち着いているな。

わしと同じ『刺客しかく』であろう?」


「だから何?」

「あの女子おなごに毒を持ったのか?」


「だったら何?」

!」


「……」

「あの女子おなごを殺す必要はないはずだ!」


「……」

「なぜだ!

なぜ殺す必要もない人まで、無闇むやみに殺そうとする?」


「お目出度めでたい男……

恵那郡えなぐんのような『辺境』の地で武田軍と織田軍が衝突したところで、いくさへと発展するわけがないのに」


「何っ!?」

「武田信玄も、織田信長も、いくさを望んでなどいない。

それすらも分からないとは……」


「辺境の地での小競り合いで片付けられてしまうと?

ならば!

なぜ、武田軍と織田軍を衝突させた!?」


「そんなもの……

おのれの頭で考えな!」

こう言いつつ、侍女じじょの『ふり』をしていた刺客が飛ぶ。


一瞬の隙を突いて喉元の刃から逃れたのだ。


 ◇


少しの距離を置いて、六郎と女刺客おんなしかくが対峙した。


「全て。

お前のせいではないか。

お前は、雇い主にこう助言していた。

躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたは防備の優れた高台にあって手が出せない。

ただし。

武田家と織田家で何らかの問題[トラブル]が起きれば……

武田家に属する者から離しておくという口実で、あの女子おなごを他の場所へ移すことができるかもしれない』

と」


「それは、つまり。

あの女子おなごを、躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたから出すために武田軍と織田軍を衝突させたと?」


「ああ。

そのため『だけ』にな」


「『織田信長の愛娘を殺す必要はない』

!?」


「嘘に決まっているだろう。

間抜けな男め」


「全て……

わしのせいなのか」


「だから。

全て、お前のせいだと申しているではないか」


女刺客おんなしかくが冷たく笑う。

六郎を精神的に追い込むつもりなのだろうか。


「お前は、もう用済みよ。

たかが毒を入れるだけの任務さえ全うできない腰抜けな男。

わたしという刺客に気付けず、あの女子おなごを守ることさえできない腑抜ふぬけな男。

雇い主は、裏切者を煮るなり焼くなり好きにせよと申していたが?

さあ。

いさぎよく死ね」


「おぬしは……

『哀れ』だな」


「何っ!?」

想定外の反応に、女刺客おんなしかくの方が取り乱し始めた。


「わしだけではない。

使


「は?

お前と一緒にするな!

わたしは間抜けでも、腰抜けでも、腑抜けでもないわ!」


六郎の喉元を狙って女刺客おんなしかくが一気に距離を詰める。

「もらった」


しかし、手応えがない。

狙ったはずの喉元がそこにない。


その瞬間、あることに気付く。

「これは……

まさか!

わたしがられただと?

こんな奴に。

ば、馬鹿な!」


女刺客おんなしかくはようやく、自分の喉元から大量の血が吹き出していることに気付いたようだ。


 ◇


一方。


彼女の方は日毎ひごとに衰弱していた。

恐らく、砒素ひそ系の毒によるものだろう。

嘔吐おうと吐血とけつが続いてひどく痩せ細ってしまっている。

当然ながらことを弾くどころではない。


一人の若い男が彼女の前に現れた。

「姫様。

それがしは、六郎と申します」


「六郎、殿……?

わたくしに何か?」


「どういうことです?」


「姫様に毒を盛りました」

「あなたが……

わたくしに毒を?」


「姫様。

どうぞ、それがしに死をたまわりたく」


「……」

「遠慮はいりません。

それがしは、犯した行為の『代償』を支払う覚悟で参ったのですから」


「……」

「どんなにむごたらしい死も……」


「六郎殿。

あなたではありませんね?」


「えっ?」

「目です」


「目!?」

「わたくしは、まず目を見て人を判断しています。

あなたの目には……

『欲』というものがない」


「それがしに欲はありません。

武田家に親を殺され、その復讐を果たすため『だけ』に生きています」


「六郎殿。

わたくしに、全てをお話し頂けませんか?」


「はい」


 ◇


六郎は全てを語り始めた。


「とある『武器商人』に拾われた、それがしは……

復讐を果たすための刺客しかくとして育てられました」


「生きる目的が、復讐を果たすためだけだなんて……

何て可哀想。

さぞやお辛かったことでしょう?」


彼女は自分の辛さよりも、他人の辛さを思いやろうとする人物であった。

六郎を更なる後悔の念が襲う。


「それがしは何という愚かな真似を……

いと様。

大罪人たいざいにん』のそれがしに、情けなど無用です」


「……」

いと様。

何卒なにとぞ、それがしに死をたまわりたく……」


「いいえ。

それはなりません。

あなたには、生きることを命じます」


「生きる?

なぜ?」


「あなたがんだ目をしているからです。

とても『純粋』な御方だと分かりました」


「純粋?

それがしが?」


「あなたは……

『使命』を全うするために生きるべき御方だと思っています」


「どんな使命を?」


「承知しました。

いと様から与えられた使命を、それがしは最後まで全うすると誓います」


「行きなさい」

六郎の気配が消えた。


 ◇


その夜。


恵林寺えりんじへ向かって、夢中で駆ける男がいる。

最愛の妻が吐血とけつしたと聞いたからだ。

自身の治めている諏訪郡すわぐんから、何もかも投げ出して駆けた。


四郎しろう勝頼かつよりである!

直ちに門を開けよ!」


鈍い音を立てて門が開くと……

男は下馬げばせず、騎馬のまま寺の中へと入っていく。


「勝頼様。

ここは武田家の菩提寺ぼだいじにございます。

神聖な場所にて……」


下馬げばしているどころではないわ!

妻はどこだ!」


「あちらにございますが……

何卒なにとぞ下馬げばを」

「うるさいっ!」


恵林寺の僧が部屋のある建物を指差すと、男は騎馬のまま駆けた。

手前で馬を乗り捨てて建物の中へと入っていく。

障子しょうじを開けると、そこには男が愛してやまない妻がいた。


「あなた様……

お会いしとうございました」


あれだけ可愛らしかった妻は、あまりにも変わり果てていた。

勝頼は現実を受け入れられず我を失った。


「な、なぜだ!

なぜこのようなことに……」


「何者かに毒を盛られたのでございます。

気付いたときには、もう……」

後ろに控えていた僧が、勝頼の質問に応える。


「何だと?

このくそ坊主ぼうずが!

うぬは妻のそばにいながら、一体何をしていた!」


勝頼はいつの間にか刀を抜き放っていた。



【次節予告 第八十四節 織田信長の愛娘、その遺言】

妻を傷付けた者たちに復讐したいと望む夫。

彼女はこう訴えます。

「この事実を、『隠す』のです」

と。

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