第陸章 長篠設楽原、決戦の章

第八十一節 織田信長の愛娘、殺害の真相・前

この世界には、大きく2種類の人間が存在してきた。


自分の目先の利益のために、各地で争いや分断を引き起こす者たち。

そして。

誰かから勧められたことを、何の疑問も抱かず勧められるままに行う、言わば『広い道』を歩く大勢の人々。


一方で。

「普通だから、みんながやっているから、薄汚い行為に手を染めて構わないとでも?

いや違う!

誰かから勧められるままに、行き当たりばったりの行動を繰り返すなど……

ただの傀儡くぐつ[操り人形のこと]ではないか!

わたしは人として、人らしく生きたい」

こう言って『狭い道』を歩く、清廉潔白せいれんけっぱく[心が清くて私欲がない人のことを指す]な少数の人々。


両者の違いは決定的であった。

妥協の余地も、歩み寄れる部分すらない。

要するに相容あいいれない存在、不倶戴天ふぐたいてんの敵である。


先制攻撃を仕掛けたのは、後者に属する織田信長の愛娘・いとであった。

前者が長い時間を掛けて練りに練り上げた計画をぶち壊したのだ。

計画を邪魔されて悔しがる前者が、彼女を激しく憎悪し、『抹殺』を図るのも当然の成り行きだろう。


彼女の手によって火蓋が切られた、この戦いにおいて……

一時的な和平が成立することもない。

両者の間には、底なしの憎悪があるだけなのだから。


「わたしは、両者の間に『敵意』を置いた。

前者は後者のかかとを砕き……

そして。

後者は、前者の頭を砕くであろう」

世界で最も読まれている本に書かれている通りなのだ。


操り人形として生きるか、人として生きるかは自分次第である。


 ◇


2人の会話は続く。


「その後。

何の前触れもなく、わしは……

いと龍勝寺りゅうしょうじで病死したとのしらせを受けた」


「龍勝寺?

信濃国しなののくにの山奥[現在の長野県伊那市高遠町]にある禅宗ぜんしゅうの寺のことでしょうか?」


「うむ」

「要するに。

重い病を患ったいと様は、龍勝寺にて療養されていたものの……

治療の甲斐かいなく亡くなられてしまったと?」


「そういう『筋書き』だな」

「筋書き!?

一体、どういうことです?」


いとの死を聞いて悲しみに暮れた、わしは……

愛娘の形見をもらおうと武田家へ使者を走らせたところ、程なくしてこの遺髪いはつが届いた。

しかし!

甲斐国かいのくに[現在の山梨県]へ潜入させていた甲賀こうが[現在の滋賀県甲賀市]の忍びが、わしにとんでもないしらせを送って来たのじゃ」


「どんな報せを?」


恵林寺えりんじ[現在の山梨県甲州市]!?

それは武田家の菩提寺ぼだいじ[先祖代々の墓があり、葬儀や法要をお願いする寺のこと]として知られる、龍勝寺りゅうしょうじと同じ禅宗ぜんしゅうの寺でしょうか?」


「ああ」

「信長様。

いと様は、四郎しろう勝頼かつより殿の正室であるだけではありません。

武田信玄の『正統な後継者』に指名された信勝のぶかつ[このとき既に信勝が成人するまでは勝頼が武田家当主を代行することに決定している]のお母上でもある御方です」


「ああ……

そうじゃ」


「それほどの御方ならば!

武田家と縁もゆかりも無い龍勝寺りゅうしょうじよりも、信玄によって再興され、武田家の菩提寺ぼだいじとなった恵林寺えりんじの方が療養先に『相応ふさわしい』のは誰が見ても明らかではありませんか」


「ああ……

そうじゃ」


「それなのに。

なぜ、龍勝寺りゅうしょうじで亡くなられたと『偽る』必要が?」


「『殺害』の事実を隠すためよ」

「殺害!?

一体、誰がそんなことを?」


いくさで銭[お金]を儲けている武器商人ども」

いと様は……

武器商人たちのくわだてによって殺害されたとおっしゃるのですか!?」


「ああ。

そうじゃ」


 ◇


2人の会話は続く。


いとの死に不審なものを感じた、わしは……

多数の忍びを雇って徹底的な調査を命じた。

分かったことは2つ。

1つ目は、いとが周到な『罠』にめられていたこと。

2つ目は、いとを罠に嵌めた『黒幕』が京の都の武器商人どもであること」


!?

一体……

どんな方法でいと様を?

お教えください。

信長様!」


仙千代せんちよよ。

教えてやろう。

我が愛娘、殺害の『真相』をな」


 ◇


「事の始まりは……

武田軍が駿府すんぷ[現在の静岡市]を制圧した際のことであった。

先陣の山県昌景やまがたまさかげは、今川家で人質となっていた一人の男を保護した。

名を康俊やすとし

母は、あの於大おだいの方[大河ドラマのどうする家康では松嶋菜々子さんが演じている]よ」


於大おだいの方?

徳川家康殿のお母上ではありませんか」


「ああ。

康俊やすとしは、父は違えど家康の弟に当たる」


「加えて。

於大おだいの方と申せば……

我が子への愛情がことほか強い御方であったようで、離縁された後も息子へ何度も手紙を書き続けていたと聞きます」


「ああ。

我が母とは正反対だな」


「……」

「話を続けるが。

於大おだいの方は最初、康俊やすとしがすぐに返されると思っていたらしい。

ところが!

康俊を預かっていたのは三浦なにがしという今川家の家臣であり、その者は武田軍侵略の際に武田信玄へと寝返っていた」


「要するに。

康俊やすとしは、三浦なにがしという者の『所有物』であったと?」


「ああ」

「そうならば。

於大おだいの方は、その三浦なにがしという者と交渉して康俊やすとしを買い戻すのが筋では?」


「その通りではあるが……

我が子への異常な愛情を抱く母親に、筋道など通用せん。

於大おだいの方の美しい顔は、たちまち鬼の形相ぎょうそうへと変わっていったのだとか。

『我が子を傷付ける下衆ゲスどもがっ!

地獄へ叩き落としてやる!』

とな。

ついには、兄の水野信元みずののぶもと[大河ドラマのどうする家康では寺島進さんが演じている]を動かして多数の伊賀者いがものを雇ったのじゃ」


「伊賀者!?

京の都の武器商人の『飼い犬』として各地で潜入工作や破壊活動[スパイ活動のこと]に励む、伊賀国いがのくに[現在の三重県伊賀市など]出身の忍びのことではありせんか」


「ああ。


 ◇


織田信長と万見まんみ仙千代せんちよとの会話は続く。


「それから、しばらくして。

甲斐国かいのくにの、とある村で凄惨せいさんな虐殺事件が起こった。

数百人が住んでいた村が、たった一夜にして壊滅した」


老若男女ろうにゃくなんにょを問わず、そこにいた人々は全員なぶり殺しにされたと?」

「ああ」


「何と酷い……

?」


「いや。

『人でなし』のやから仕業しわざよ」


「人でなしの輩?

それは、銭[お金]のためなら『何でも』する者が多い伊賀国いがのくにの人々のことを指す言葉では……」


「ああ、そうじゃ」

「もしや!

於大おだいの方が雇った伊賀者いがものは……

康俊やすとしの護衛の兵たちの目を逸らすための『陽動』として、わざと事件を起こしたと!?」


「さすがだな。

仙千代せんちよ

良い読みをしている」


「信長様。

数百人もの民を一方的に虐殺されたのを見た武田信玄の方は、尋常ではないほど怒り狂ったと思います。

何をしたのでしょうか?」


「家臣の秋山信友あきやまのぶともへ向かって、こう申したのだとか。

『わしはな……

人に危害を加えたクズどもが何の裁きも受けず、のうのうと生きていけるような世を絶対に許しはしない!

!』

と」


至極しごくもっともであると思います」

「そして。

伊那谷いなだに[現在の伊那市、駒ケ根市、飯田市など]の兵を預かった信友のぶともは、康俊やすとしを連れ去った伊賀者いがものどもへの猛烈な追撃を開始したのじゃ」


 ◇


「信長様。

伊賀者たちは、どこへ向かって逃げたのでしょうか?」


「京の都の武器商人の手引きによって……

伊賀者いがものどもは伊那谷いなだに飯田いいだから木曽きその山中[現在の長野県木曽福島町]へと入り、美濃国みののくに恵那郡えなぐん[現在の岐阜県中津川市、恵那市など]へと向かっていた」


「美濃国の恵那郡!?

そこは……

信長様に属し、かついと様の出身でもある遠山とおやま一族の領地ではありませんか。

まさか!

京の都の武器商人は、『武田軍と織田軍を衝突』させることを狙っていたと?」


「ああ。

遠山一族に嫁いで岩村城いわむらじょう[現在の岐阜県恵那市岩村町]の女城主となっていた我が叔母[おつやの方のこと]は、信友の目的が侵略でなく大罪人の『捕縛』であると理解していたが……


「誰かから勧められたことを、何の疑問も抱かず勧められるままにやるとは……

何たる愚か!」


「こうして。

秋山信友が率いる2,500人と、一族の総力を挙げて迎撃に出た遠山一族の兵3,000人が上村かみむらの地で衝突した」


「それこそが……

武田軍と織田軍が衝突したとされる、上村合戦かみむらかっせんの全容であったと」



【次節予告 第八十二節 織田信長の愛娘、殺害の真相・後】

上村合戦の『原因』を作った遠山友勝。

この男の養父は遠山直廉と言い、織田信長の妹を妻に迎えていました。

つまり直廉の娘として生まれた弦は、上村合戦の原因を作った男の妹でもあったのです!

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