第八十節 侵略戦争は、愛娘の命を奪う運命へ

「今、飯を食ろうておる。

しばし待たれよ」


略奪行為を阻止したい武田四天王の一人・馬場信春ばばのぶはるは、こう言って道を塞いでいたが……

いつまでも時間稼ぎをすることはできない。


武田一族の重鎮・穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよの部隊は、ついに都市の入口へと到達する。

そして。

要所を押さえた武田四天王の一人・山県昌景やまがたまさかげの部隊と一触即発の事態となった。


「奴らの放った火が燃え広がっているぞ!

一刻も早く都市の中へと入らねばならないのに、あの赤備あかぞなえが入口を塞いでいるではないか!

くそっ!」


武田一族の兵士たちの中で、武田軍最強と言われる赤備えの恐ろしさを知らない者はいない。

当然ながら。

正面から赤備えを突破しようとする者は、誰一人として現れなかった。


「くそっ!」

信君のぶただ信豊のぶとよは何度も舌打ちしながらほぞを噛んでいる。


 ◇


2人に同行した武器商人も同じであった。


……

それはあくまで、信玄様の目が届く範囲内でのこと。

見られなければ何の問題もない。

証人がいない以上、後で指摘されても知らぬ存ぜぬを貫けば良いだけよ。

だからこそ!

武田軍本隊でも先陣に近い信君のぶただ信豊のぶとよの部隊に同行し、あるじの目が届かぬうちに駿府すんぷ[現在の静岡市]を略奪する絶好の機会であったのじゃ!

それを!

あの山県昌景やまがたまさかげ馬場信春ばばのぶはるがっ!

信長の愛娘に何を入れ知恵されたか知らんが、わしらの計画を『邪魔』しおって!」


「くそっ!」

周囲がよく見える高台に立って何度も悪態をついている武器商人であるが、あることに気付く。


「よく見ると……

昌景まさかげの赤備えでは数が足りないのか、都市のすべての入口を塞ぐことができていない!

それは、そうか。

駿府すんぷは尋常ではない広さがあるのだからな。

やってきた信春のぶはるの部隊が慌てて隙間を埋めようとしているが、埋め終わるにはまだまだ時間が掛かるに違いない。

これは好機では?

よし!

2人の馬鹿を再びけしかけ、隙間から都市の中へと侵入させよう!」


こう言って高台から降り始めた武器商人は、続けて信じられない光景を目の当たりにする。

「ん?

赤備えの一部が離脱を始めたぞ!

これで、隙間を埋めることは『不可能』になった!」


武器商人は嬉々ききとして高台を降りていく。


 ◇


氏真うじざね奥方おくがたが逃げ遅れている!?

まことなのか、それは?」

山県昌景やまがたまさかげは最初、氏真の妻が逃げ遅れている事実を信じなかったらしい。


「良いか。

ここから西にある掛川城かけがわじょう[現在の静岡県掛川市]に籠城ろうじょうして態勢を立て直したい氏真にとって……

奥方の父であり、相模さがみ獅子ししとも恐れられた北条氏康ほうじょううじやす殿が唯一の『希望』であろう?

だからこそ。

一刻も早く城に妻を入れ、父の氏康殿へ援軍を乞う書状[手紙のこと]を書かせる必要があるのだ。

それにも関わらず!

駿?」


「足の不自由な奥方を運ぶには、どうしても時間が掛かってしまう。

今は奥方の安全よりも時間が『優先』であると……」


「は?

何を馬鹿な!

おのれの大切な妻さえも置き去りにするような奴に、誰が付いていく?」


「はい。

それは、そうなのですが……」


「己の命を危険にさらしてでも家族を、民を、家臣を守る『覚悟』に心を打たれるからこそ、人は付いていくのではないか。

氏真うじざねの馬鹿は、こんな単純な真理すら理解できないと?」


「実は。

氏真の意思ではなく、配下の者がそう『勧めた』から決めたという話のようです」


「は?

あの馬鹿は……

誰かから勧められたことを、何の疑問も抱かず勧められるままにやっているだけ?」


「はい。

おのれの意思すら持てないあるじに、大勢の者が愛想を尽かした結果……

命令に従って掛川城かけがわじょうに入ったのはごくわずかに過ぎず、他はことごとく信玄様や徳川家康へと寝返ったとか」


「当然だろう!

それで。

逃げ遅れた奥方は、今どうしている?」


「そ、それが……」

「それがどうした?

早く申せ!」


輿こしもなく、数人の侍女じじょとともに徒歩で西へ逃れているとか」

「何っ!

足が不自由なのに徒歩で?

護衛もなくか?」


「は、はい……」

「くそっ!

都市を守る兵が圧倒的に足りないが、致し方あるまい。

そちは数百の兵を連れて直ちに奥方を救いに行け!

万が一でも奥方の身に何かあれば……

父である北条氏康ほうじょううじやす殿の逆鱗に触れるのは必定ひつじょうぞ?

!」


昌景まさかげ様。

それだけで……

あの氏康うじやす殿が我らに大軍を向けて来るでしょうか?」


「甘い!

甘いぞ!

そちは、なぜ関八州かんはっしゅう(関東地方全域のこと)のほとんどの者が氏康殿を『支持』するのか理解できていないようだ」


「なぜなのでしょう?」

「さっきも申したではないか。

おのれの命を危険にさらしてでも家族を、民を、家臣を守る『覚悟』に心を打たれるからこそ、人は付いていくのだと」


「……」

「同時に。

?」


「それは、その通りです」

関八州かんはっしゅうのすべての者が見ているのだ。

『愛娘を傷付けられたと知った氏康殿は、どう動くか?』

とな。

氏康殿は必ず、無敵の武田軍が相手でも関係なく陣頭に立って戦おうとするに違いない」


「何と!」

「『人の上に立つ』とは、そういうことなのだ」


昌景まさかげ様。

氏真うじざねの奥方を守ることがどれだけ大事なことなのか、よく分かりました。

必ずや救い出して見せます!」


こうして。

一人の女性を救うために、数百人の赤備えが西へと駆けて行った。


 ◇


「今じゃ!

隙間より都市の中へと侵入せよ!」


穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよの部隊は都市の中へと侵入したが……

既に火が燃え広がったのもあって、都市への略奪は限定的であった。


「くそっ!

足利あしかが将軍家の一族にして、海道一かいどういち弓取ゆみとり[東海道で最強の大名という意味]とたたえられた今川家の本拠地として、京の都に匹敵する繁栄を誇る都市』

こううたわれた駿府すんぷには……

あふれんばかりの金銀財宝や息を呑むほどの美男美女、育ちの良い子供ガキまでいる。

売ればどれだけの値が付くか分からんほどにな!

わしらは桶狭間おけはざまの戦いで父が討たれたと聞いて右往左往うおうさおうする『馬鹿息子』の氏真うじざねを操って三国同盟を破綻させ、武田四天王と違って『無能な一族』の信君のぶただ信豊のぶとよけしかけて駿府を略奪する計画を見事に成功へと導いた!

山県昌景やまがたまさかげ馬場信春ばばのぶはるが邪魔しなければ……

いや違う!

!」


武器商人の憎悪は、ひたすらいとへと向かう。


 ◇


「何っ!?

我が愛娘が輿こしもなく、数人の侍女じじょとともに逃れる羽目に陥っていただと?

許さん!

絶対に許さんぞ!」


最初は氏真うじざねの振る舞いにあきれ返り、武田軍の侵略戦争を黙認していた相模国さがみのくに[現在の神奈川県]の大名・北条氏康ほうじょううじやすであったが……

愛娘の話を聞くと、その表情はたちまち鬼の形相ぎょうそうへと変わっていく。


「氏真の無能ぶりは誰もが知っていた。

ならばこそ、我が愛娘の保護を最優先に図るのは当然のことではないか。

それを!

我が愛娘よりも都市への略奪を優先しおって!

相手が無敵の武田軍だろうと構うものか!

わしは必ず……

大切な家族を傷付けた者への報復を最後まで成し遂げて見せる。

全軍、出撃!」


一方。

駿府すんぷを攻略中の武田軍は……

背後から迫って来る地鳴りのような音に驚愕きょうがくし、大混乱に陥った。


北条氏康ほうじょううじやすが数万人の大軍で襲い掛かって来ただと!?

見て見ぬ振りをする約束だったはずでは?

何っ?

家族を傷付けた者への報復?

氏康は、たった一人の『愛娘』のためにここまでやるのか!」


「それにしても……

北条軍の勢いは、何と凄まじいことか!

全軍が火の玉となってこちらへ向かって来るぞ!

あんなのと戦ったら無事では済まない!

『撤退』せよ!」


「嘘だろう……

あの無敵の武田軍が、北条軍の勢いに負けて撤退していく!

くそっ!

くそがっ!

すべて、あの『女子おなご』のせいじゃ。

!」


武器商人の憎悪は、ひたすらいとへと向かっていく。


 ◇


織田信長と万見まんみ仙千代せんちよとの会話に舞台を戻そう。


駿府すんぷの民を守ろうと戦っておられたのですね。

そして。

その戦いは、武器商人を『敵』に回すことになったと……」


「『最初』からいとはすべて分かっていた。

裏から日ノ本ひのもとを支配する武器商人どもを敵に回すことが……

何を意味するのかを」


……

でしょうか。

それでもいと様は、戦いの黒幕たちとの全面対決の『引き金』を引いた……」


「こう申していた。

『普通だから、みんながやってるから、略奪行為に見て見ぬ振りをするなんて……

わたくしは絶対にできない!

全身全霊で戦います』

とな。

火蓋ひぶたは、いとの手によって切って落とされたのじゃ」



第伍章 引き金、弦の章 終わり

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