第七十九節 愛娘、駿府に火を放つ

今川氏真いまがわうじざねが、共有していた武田家の軍事情報を敵方の上杉謙信に漏らしたらしい」


この事実を知ったいとは、氏真うじざねという人間にただただあきれ返るしかなかった。

塩留しおどめ[塩を売らないこと]に何の効果もないからと……

ここまでやるのですか!

しかも。

あの上杉謙信殿が、こんなモノをもらって喜ぶような御方ではないことくらい、考えればすぐに分かることではないの?

行き当たりばったりに加えて、やることなすことがあまりにも『的外れ』でしょう!」


「恐らく。

塩留も、情報を漏らしたのも氏真うじざね本人の『意思』というより……


「そんなのは、ただの傀儡くぐつ[操り人形という意味]と何ら変わりがない!

こんなあるじの下にいる領民たちがあまりにも可哀想……」


「我らと同じく、父である今川義元いまがわよしもとの仇と同盟を結んだ徳川家康への対応もあまりに杜撰ずさんなものであったらしい。

『今川家を裏切って織田信長と結んだ家康を討つ!』

こう申して領民から税を取り立てておきながら、一方的に討伐を中止し、奪い取った銭[お金]を返すこともしなかったと聞く。

領民たちの心はもう、嘘付きの氏真うじざねから完全に『離れた』と見るべきだろうな」


「……」

「氏真の過ちは、それだけではないぞ。

!」


「死地?」

駿河国するがのくに遠江国とおとうみのくに[合わせて現在の静岡県]を侵略する『大義名分』を与えてしまったのだからな」


「……」

「家康は、税の取り立てで苦しむ『民を救う』という大義名分を掲げて遠江国とおとうみのくにへ堂々と進軍できる。

そして。

我ら武田家は……

『国を守る』ため、敵方に軍事情報を漏らして国を危険にさらした賊を討つという大義名分を掲げて駿河国するがのくにへ堂々と進軍できるようになった」


嗚呼ああ……

わたくしは、武田家と織田家が手を携えて一緒にいくさのない世を作りたいと願っただけなのに!

ねえ、あなた!

どうしてこうなるの?

?」


「それは違う!

違うぞ!

いと

そなたは何も悪くない。

すべては、氏真うじざねの無能が招いたことだ!

『自業自得』ではないか!」


「……」

「目先のことばかりに右往左往うおうさおうし、行き当たりばったりの行動を繰り返した挙句、先人たちが苦労して築いたものをすべてぶち壊しおって!」


「でも。

あなた。

わたくしのせいで、駿河国するがのくに遠江国とおとうみのくにの人々が侵略の餌食になってしまいます」


「まだ、そうなると決まったわけではない。

幸い。

信長殿とこころざしを同じくする家康ならば、配下の兵たちの虐殺や略奪を決して許さないだろう。

だが!

問題は、『我ら』だ」


「我ら?」

清廉潔白せいれんけっぱく[心が清くて私欲がない人のことを指す]で実力にも秀でた高坂昌信こうさかまさのぶ山県昌景やまがたまさかげ内藤昌豊ないとうまさとよ馬場信春ばばのぶはるの武田四天王ならば問題はないが……

一族の重鎮である穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよは別。

この2人は、血統に優れるが実力はないという点で氏真うじざねと何ら違いがない。


「そ、そんな!

あなた!

何とか止める方法はないのですか?」


「一つだけ、ある」

「どんな方法です?」


「武田四天王に先陣を務めてもらうことだ。

先陣を務める分、犠牲は多いだろうが……

武田軍本隊が着く前に今川家の本拠地である駿府すんぷ[現在の静岡市]を完全に占拠してしまえば、2人は何の手出しもできまい」


「お願い。

あなた……

何卒なにとぞ、駿府に住む人々を守って」


 ◇


1568年12月6日。

しんしんと降る雪の中を、風林火山ふうりんかざんの旗を掲げた軍勢が出撃する。


四郎しろう勝頼かつよりの画策で、武田軍先陣は武田四天王が務めることとなった。

武田軍最強と恐れられた赤備あかぞなえを率いる武田四天王の一人・山県昌景やまがたまさかげが一番手、不死身の鬼と恐れられた武田四天王のもう一人・馬場信春ばばのぶはるが二番手である。


そして。

勝頼は、地形で有利な薩埵峠さったとうげ[現在の静岡市清水区]に鉄壁の防御陣を敷いた今川氏真いまがわうじざねが率いる軍勢にある『噂』を流した。


薩埵峠さったとうげという高所に陣取ったからといって、鉄壁などとは片腹痛い!

そちたちは肝心なことを忘れていないか?

三国同盟では、互いを援護しやすいよう軍事情報の共有まで図っていた。

どこに、どんな規模の城や都市があるのか。

どこに、どれだけの兵が駐屯ちゅうとんしているのか。

どこに、どれだけの広さの道があり、どこに川の渡し船があるのか、など。

我ら武田軍はすべてを知っているのだ!

薩埵峠への補給路となっている道も。

勿論もちろん

薩埵峠を避けて駿府すんぷへとなだれ込む道さえも、な。

今!

武田軍最強の赤備あかぞなえが、そちたちが妻や子を残した駿府へとまっしぐらに向かっている。

こんな場所を守っている場合ではないぞ!

駿!」

と。


こうして。

1万人を超す軍勢が、勝頼の策にまんまとまった。

あっという間に霧散した。


武田軍本隊が着く前に駿府すんぷを完全に占拠すべく、『無人』となった薩埵峠さったとうげ山県昌景やまがたまさかげ馬場信春ばばのぶはるの部隊が疾風怒涛しっぷうどとうの勢いで通過していく。


 ◇


穴山信君あなやまのぶただ様。

武田信豊たけだのぶとよ様。

一大事ですぞ!

薩埵峠さったとうげにいる今川軍が霧散し、山県やまがた殿と馬場ばば殿の先陣は無傷で通過したとか」


「何っ!?

このままでは、山県と馬場に戦利品を全部取られてしまうではないか!」

付き添っている武器商人から事情を聞いた信君のぶただ信豊のぶとよはにわかに慌て始めた。


「慌てる必要などありません。

今は戦国乱世。

日ノ本ひのもと各地で起こるいくさに必要な兵糧や武器弾薬のあきないのため、我ら武器商人は『常に』日ノ本各地を巡り歩いております」


「ん!?

それは、つまり。

?」


御意ぎょい

多少狭くはなりますが……

峠の登り坂を通らず駿府すんぷへと至る道に心当たりがございます。

急ぎましょう!」


 ◇


駿府へあと一歩と迫った山県昌景やまがたまさかげ馬場信春ばばのぶはるは、すぐ後ろに穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよの部隊が続いていることを聞くと思わず驚愕きょうがくした。


「奴ら、どんな手を使って?

早い!

早すぎる!」


「落ち着かれよ。

昌景まさかげ殿。

確か……

あの2人には、出入りの武器商人が付き添っていたはず。

道という道に精通しているのでは?」


「あの、薄汚い武器商人めが!

奴から血祭りに上げてやろうか!

それにしても、信春のぶはる殿。

このままでは占拠する前にあの2人が駿府すんぷに着いてしまうぞ」


「そういえば……

昌景殿。

おぬしは、出陣前にいと様から何か頼まれていたのではなかったか?」


「ああ。

弦様は、こう申されていた。

『どうしても駿府の占拠が間に合わなかったら……』」


「間に合わなかったら?」

「『駿府に火を放つのです。

火を放ってしまえば、略奪も人の売り買いもできないでしょう』

と」


「火を放てだと!?

確かに、略奪も人の売り買いもできないだろうが……」


いと様は、最後にこう申されていた。

『武田軍本隊の略奪行為を決して許してはなりません!』

と」


「……」

「信春殿。

今は戦国乱世。

日ノ本ひのもと各地でいくさが起こり、各地で略奪や人の売り買いが『普通』に行われている。

だから何だ?

?」


「……」

「いや違う!

断じて違うぞ!

誰かから勧められたことを、ただ勧められるままに実行するなど……

ただの傀儡くぐつではないか!

そこらにいるけだものと一緒よ。

人ですらないわ!

わしは、どんな手を使ってでも駿府の住民への略奪行為を止めて見せるっ!」


「昌景殿。

おぬしの申す通りだ。

武田軍の一番手は、おぬしだ。

おぬしがしたいようにすれば良い。

わしはこの道を塞いで、できる限り時間稼ぎをさせてもらおう」


「信春殿、痛み入る。

それでは御免!」


 ◇


駿府すんぷに乱入した山県昌景やまがたまさかげは、大声で住民に避難を促した。


「略奪を目的とした別の軍勢が『東』から迫っているゆえ……

女子おなごや子供を売り買いされたくないなら直ちに『西』へ逃げよ!」


それでも。

できるだけ多くの家財を持っていこうとする住民たちのせいで、避難は遅々として進まない。


これを見た昌景まさかげは配下の兵たちに、こう命じる。

「致し方ない。

東より火を放て!

背後から火が迫れば、住民たちも慌てて避難するに違いない」

と。


一方。

道を塞いだ馬場信春ばばのぶはるは……

やって来た穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよが道を空けるよう迫ってきたが、こう言って嫌がらせをしていた。


しばし待たれよ」

と。



【次節予告 第八十節 侵略戦争は、愛娘の命を奪う運命へ】

略奪行為を阻止したい武田四天王と、略奪行為を働きたい武田一族は一触即発の事態となります。

これによって足の不自由な氏真の妻が徒歩で逃げ出す羽目に陥り……

ある人物の逆鱗に触れてしまうのです。

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