第七十八節 愛娘が引いた、引き金

愛娘が引いた、『引き金』は……

ある同盟を破綻させて侵略戦争へと至ってしまう。


運命の悪戯いたずらなのか?

それとも、人のさがなのか?


 ◇


1568年12月6日。

しんしんと降る雪の中を、風林火山ふうりんかざんの旗を掲げた軍勢が出撃する。


きこと風のごとく[動くときは風のように早く]、しずかなること林の如く[林のように静かで]、侵掠しんりゃくすること火の如く[火のような勢いで進撃し]、動かざること山の如し[動かないときは山のようにびくともしない]。

この言葉の通り……

武田信玄の命令一つで変幻自在に動ける精強な武田軍は、まさに戦国最強と言っても過言ではない。


その先頭を、軍装を赤一色に染め上げた軍勢が行進していく。

武田四天王の一人・山県昌景やまがたまさかげが率いる赤備あかぞなえである。


侵攻して来る武田軍を食い止めるべく、地形で有利な薩埵峠さったとうげ[現在の静岡市清水区]に鉄壁の防御陣を敷いた『元の』同盟相手・今川氏真いまがわうじざねが率いる軍勢は……

敵の先陣が赤備えであることを聞いただけで恐怖におののいた。

1万人を超す軍勢が、あっという間に霧散したのだ!


こうして。

足利あしかが将軍家の一族にして、海道一かいどういち弓取ゆみとり[東海道で最強の大名という意味]とたたえられた今川家の本拠地として長年にわたって繁栄を続けた都市・駿府すんぷ[現在の静岡市]は『丸裸』となった。


 ◇


愛娘が嫁いで成立した『新たな』同盟は、愛娘自身の働きで武田家と織田家に強い絆をもたらしたが……

3


3つの家を結んだ同盟とは、何か?

それは太原雪斎たいげんせっさいというたぐいまれな軍師が甲斐国かいのくにを治める武田家、駿河国するがのくに遠江国とおとうみのくに[合わせて現在の静岡県]を治める今川家、相模国さがみのくに[現在の神奈川県]を治める北条家を口説いて結ばせた同盟のことだ。

歴史の教科書にも登場するほど有名な『三国同盟』である。


付け加えておくと。

三国同盟は、単に3つの家を結んでいただけではない。


どこに、どんな規模の城や都市があるのか。

どこに、どれだけの兵が駐屯ちゅうとんしているのか。

どこに、どれだけの広さの道があり、どこに川の渡し船があるのか、など。


事細かに軍事情報の共有ができていたことは……

あの、軍神ぐんしんと恐れられた越後国えちごのくに[現在の新潟県]の大名・上杉謙信うえすぎけんしんの侵攻時に大いに役立つこととなった。


1560年の夏。

たった8千人の軍勢で春日山城かすがやまじょう[現在の新潟県上越市]を出撃した謙信は、鉄壁の防御陣を敷いた数万人の北条軍をあっという間に蹴散らすと、周辺の大名たちを味方に取り込んで数を増やし、ついには10万人を超える大軍で北条家の本拠地・小田原城おだわらじょう[現在の神奈川県小田原市]を包囲するに至る。


圧倒的な劣勢に、北条家の運命も風前の灯火かと思われたが……

ここで軍事情報を共有していた『成果』が表れ始めた。


「猛獣を倒すのに、何も正面から挑む必要などあるまい。

弱点を見付け、そこを的確に、何度も何度も突いていれば良いだけの話ではないか」

こう言った信玄は、北条家の領内を通る謙信の補給部隊を片っ端から潰していく。


「補給部隊が全滅!?

ひょっとして信玄は、北条家の領内の道という道をすべて把握しているのでは?

これでは兵が飢えていくさにならん」


こうして。

謙信は、圧倒的に優勢でありながら本国へ撤退する羽目に陥ったのである。


 ◇


太原雪斎たいげんせっさいというたぐいまれな軍師が生きていれば、結果は違っていたのだろうか。


事は……

桶狭間おけはざまの戦いで父・今川義元いまがわよしもとを信長に討たれた氏真うじざねが、武田家と織田家の婚姻同盟成立を知ったことに始まった。


同盟成立に怒り狂った氏真は、信玄を口汚くののしり始める。

「おのれ!

信玄!

わしの父の仇、三国同盟の仇と同盟を結ぶとは……

『裏切者』め!」


そして。

非凡ひぼん[優れた人という意味]な父・義元と違って凡人ぼんじん[普通の人という意味]に過ぎない氏真うじざねは、どうやって自分の鬱憤うっぷんを晴らすかで頭がいっぱいになった。


配下の者の一人が、こう言って氏真をあやつり始める。

「武田家の治める甲斐国かいのくに信濃国しなののくに[現在の山梨県と長野県]は海に面していません。

海に面していないということは、『塩』が取れないということでは?」


「確かにそうじゃ」

「『武田家に一切、塩を売ってならない』

こう命じるのは如何いかがです?」


「おお、それは良い!

武田の奴らめ。

塩が無くて困り果てるのが目に浮かぶようじゃ!」


こうして。

氏真うじざねは、第一の『過ち』を犯した。


 ◇


今川家の動きを知ったいとは、氏真という人間にあきれるしかない。


「氏真殿が塩留しおどめ[塩を売らないこと]を?

何と愚かな!

お父上の信玄様が、そんな程度で本気で困り果てることなどないのに……」


「今川家の治める駿河国するがのくに遠江国とおとうみのくに[合わせて現在の静岡県]の商人から買えないなら、北条家が治める相模国さがみのくに[現在の神奈川県]の商人から買えば良い。

越後国えちごのくに[現在の新潟県]の商人から買う方法だってある。

父上が困り果てることなどないだろう」

妻の長い髪を優しくでながら穏やかに答えているのが、夫の四郎しろう勝頼かつよりだ。


相模国さがみのくに越後国えちごのくにの商人は、あきないを広げる絶好の機会到来と小躍りしていることでしょう。

一方で。

商いが減った駿河国するがのくに遠江国とおとうみのくにの商人は氏真うじざね殿を深く『恨む』に違いありません」


「そうだろうな……」

「加えて。

氏真殿は一つ肝心なことを忘れています。

武田家と織田家はあくまで不可侵ふかしん[互いを侵略しないと約束するだけ]の同盟を結んだに過ぎません。

三国同盟のような軍事情報の共有などしていないのです。

塩留しおどめをするほど怒り狂うことなのでしょうか?

それに。

……」


いと

そなたのように、常に相手の立場になって考えられる人は『少ない』」


「……」

「むしろ。

おのれの目先のことしか見えず右往左往うおうさおうし、行き当たりばったりの行動を取る人の方が圧倒的に『多い』のだ」


「民の一人ならば、それでもいいでしょう。

でも!

氏真うじざね殿は、あの海道一かいどういち弓取ゆみとりとたたえられた今川家の当主ではありませんか。


「父は何度か、こう申されていた。

『相続という制度のおかげで……

氏真うじざねという凡人ぼんじんが、絶大な権力と富を得た。

ただし。

氏真という凡人に、絶大な権力と富を持つ資格がないことは誰が見ても明らかであろう?

これは、いずれ……

氏真本人と周囲の人々に、とてつもない悲劇を招くかもしれんな』

と」


「とてつもない『悲劇』……」

「そなたの申す通り、行き当たりばったりの凡人がいつまでも人の上に立ち続けることはできないと思う。

だからこそ。


「あなたは十分に非凡な御方です。

自信をお持ちになって」


いと

ずっと側にいて欲しい。

そなたの支えがあれば……

わしは、この『重圧』に耐え続けられそうな気がする」


 ◇


塩留しおどめ[塩を売らないこと]が何の効果もないこと、あきないが減った商人から怨嗟えんさの声が上がったことを知った氏真うじざねの苛立ちは増していく。


直ちに塩留を解除すれば被害を最小限にできたが、それをしなかった。

父・義元と違って自分に失敗を挽回する実力がないことを知る氏真は……


これでは失敗から何も学べない。

案の定……

氏真うじざねは、第二の『過ち』を犯した。


 ◇


事は意外な方向からやって来る。


海津城かいづじょう[現在の長野市]で越後国えちごのくに[現在の新潟県]との国境を守る武田四天王の筆頭・高坂昌信こうさかまさのぶからあるじの信玄へ送った手紙に……

こう書かれていたのだ。


「上杉家の筆頭家臣である直江景綱なおえかげつな殿より、それがしにこのような話が来ております。

『今川氏真殿は、あるモノを手土産に同盟の話を申し込んで来た。

しかし。

よほど不快であったのか、あるじの謙信様に同盟の話を受ける気は毛頭ない』

と。

親切にも景綱かげつな殿は、モノの中身を一切見ずにそれがしに渡してくださいました」


そのモノとは……

武田家の軍事情報が事細かく記されたものであった。


どこに、どんな規模の城や都市があるのか。

どこに、どれだけの兵が駐屯ちゅうとんしているのか。

どこに、どれだけの広さの道があり、どこに川の渡し船があるのか、など。


そう。

氏真うじざねは何と、共有していた武田家の軍事情報を上杉謙信に漏らしたのである。



【次節予告 第七十九節 愛娘、駿府に火を放つ】

赤備えを率いる武田四天王の一人・山県昌景に、弦は一つの頼み事をします。

「駿府に火を放つのです。

武田軍本隊の略奪行為を決して許してはなりません!」

と。

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