第七十七節 愛娘、死す
「法です」
「まさに、その通りじゃ。
さすがは
治安の良さの理由を答えた愛娘に対し、
「『
信玄様の定められた、この法の内容を……
すべて読ませて頂きました」
「何と!
内容を『すべて』読まれたと?」
「はい。
武田家の一員となる以上、法の内容をすべて知っておくのは当然の務めにございましょう」
「いやはや、大したものよ」
「中でも……
『
この法に、わたくしは共感を覚えました」
「ほう!
わしが
「暴力そのものを無くすのが狙いなのでは?」
「まさに、その通りじゃ!
どんな『理由』があろうとも。
わしは決して許さぬと決めた」
「信玄様。
そこには、相手を傷付ける『意図』がなかった場合も含んでいるのでしょうか?」
「
意図のあるなしに関係なく……
相手を傷付けた結果に対する『代償』は、必ず支払わせねばならん」
「わたくしは、この国の治安の良さの理由がよく分かりました。
代償を必ず支払わせることが、暴力をしようとする者への強い『抑止力』となっているのですね」
「
暴力を見逃すから。
あるいは、犯した結果に対する代償を支払わせないから……
暴力を犯す
明確な刑法を定め、暴力を決して見逃さず、犯した結果『以上』の代償を支払わせて見せしめとするしかない」
「お父上も、信玄様と全く同じことを申されていました。
そもそも刑法とは、見せしめによって悪事への抑止力とすることを目的に作られたのだと」
「うむ。
治安を回復する最も効率的なやり方であろう」
「その通りだと思います」
◇
「ところで、
2つ目は何かな?」
「2つ目は、『道が広い』ことです。
これは……
前線へ、速やかに兵糧や武器弾薬を届けるためにございましょう?
信玄様もお父上と同じく
「そんなところまでよくご覧になっているとは……
見事じゃ。
戦の勝利に必要な条件は、第一に補給、第二に地形だからのう」
「はい。
お父上も、信玄様と全く同じことを申されていました」
「信長殿も同じことを考えておられるとは……
やはり、信長殿は
同盟相手としてこれほど心強いものはない」
「お父上のことを『味方』と思って頂き、これほど嬉しいことはありません」
「それは良かった。
さて。
そなたとの会話、存分に楽しませてもらったぞ」
「
「
そなたを手元に置きたいと願った信長殿の思いも、そなたとの別れ際を信長殿がどれほど寂しいと思ったのかも、今はよく分かる気がする。
今日この日より……
武田家の一員として、この信玄を『父』と呼んでもらいたいがどうじゃ?」
「有難き幸せにございます。
では、今日この日より『お父上』と呼ばせてくださいませ」
「ああ。
我が息子、四郎のことを宜しく頼む」
「改めて、宜しゅうお願い致します。
お父上様」
やはり。
あの武田信玄と
彼女の表情は、少し和らいだように見えた。
◇
ここで。
ある男が……
愛娘と信玄の会話に割って入って来る。
「
一つお聞きしたいのだが、よろしいかな?」
その男は、信玄に近い場所に座っていた。
家臣ではなく一族の重鎮なのかもしれない。
「まず。
名乗りを上げるのが礼儀では?」
愛娘がその男を見るよりも早く、夫である
その表情には苛立ちが見える。
「これは失礼……
言葉では詫びながらも、その表情からは詫びの気持ちは見当たらない。
「
夫の気遣いに、妻は笑顔で応じる。
「わたくしは大丈夫です。
あなた様、ありがとうございます。
何をお尋ねになりたいのでしょうか?
「信長殿は、数万人もの大軍を率いて京の都へと進軍されたようだが。
領地を守る兵は足りているのでござろうか?」
「その質問の『意図』は何だ?」
「ん?
それがしは、味方のことを案じたまでにござるが?」
妻はまた、笑顔で応じる。
「正直に申し上げます。
お父上、信長様は……
領地を『空』にして全軍を京の都へと進めております」
「何と!
領地を空にして?」
「もう一つ。
正直に申し上げます。
お父上、信長様は……
大軍を率いて京の都へ軍を進めている間に、信玄様に背後を突かれることを『恐れて』おいででした」
「ならば。
なぜ領地を空に?」
愛娘の話に驚いたのか、今度は信玄が割って入った。
「信長様は、こうお考えでした。
『
と」
「ははは!
人の上に立つ器ではない
そうだとしても。
崩壊した秩序を回復しようとする振る舞いは『立派』だと思うぞ」
「……」
「確かに。
織田軍と徳川軍が領地を留守にした今こそ、
ただし!
そんなことをすれば、我らは恥知らずな卑怯者との
信玄だけでなく……
◇
この状況でも、
「『
「どういう意味だ?」
「我が穴山家に出入りしている武器商人が、こう申しておりました。
『信長殿の目的は……
堺を我が物にすることでは?』
と」
「堺を我が物に!?」
「我らは今、
もし信長殿が堺を我が物としたらどうなるでしょうか?
今川家に勝利して海に面した港を手に入れたとしても、信長殿の許しなくば堺から何も買えませんぞ?」
「信玄様と同じく
当然ながら、大量の武器弾薬を持つ堺の『重要性』に気付いているはずでは?」
「
おぬしは何か、勘違いしているのではないか?」
夫の
「勘違いとは?」
「信長殿は味方であろう?
なぜ、味方に疑いを投げ掛けるような
「醜い真似?
それがしは、当家のことを案じて申し上げているのですが」
「信長殿の立場になって考えてみよ。
堺が三好一族を支援するようなことがあれば、どうなる?」
「どうなる、とは?」
「勢いを盛り返した
「……」
◇
織田信長と
「『わたくしが一番お役に立てることは、武田軍に一兵たりともお父上の領地を侵略させないことです』
こう申して、
わしの
同盟関係に亀裂が入ることはなく、武田軍は一兵たりとも我が領地を侵略しようとはしなかった」
「
「うむ。
特に
「四郎勝頼を差し置いて後継者に?」
「うむ」
「それだけ、信長様の愛娘が産んだ息子への期待が大きかったと?」
「ああ。
だが、その後。
わしは……
『愛娘、死す』との報せを受ける羽目になった」
「一体、何か起こったのです?」
【次節予告 第七十八節 愛娘が引いた、引き金】
愛娘が引いた、『引き金』は……
ある同盟を破綻させて侵略戦争へと至ってしまいます。
そして侵略戦争は、愛娘の命を奪う運命へと発展していくのです。
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