第七十六節 武田信玄との対峙

「幕府の秩序を乱し、世を乱す賊を討て!」


何の前触れもなく『賊[秩序に逆らう反逆者という意味]』と見なされ、数万人もの大軍が電光石火でんこうせっかの早さで向かってくるとの報告を受けた堺の住民たちは……

恐怖のどん底へと叩き落された。


誰かが流し、誰かが拡散した『デマ』を信じて着の身着のままで逃げ出す住民の殺到で都市は大混乱に陥り、混乱に乗じて暴徒と化す者まで現れた。

金品を奪い取られ、情け容赦のない暴力まで受けた老人、女性や子供の悲鳴が響き渡り、日本一の繁栄を誇った都市は瞬く間に無法地帯と化していく。


「おのれ!

ここぞとばかりに悪事を働く、どうしようもないクズどもが!

乱暴狼藉らんぼうろうぜきによる犠牲者をこれ以上増やさぬためにも、速やかに三好みよし一族の軍勢を招き入れて屑どもをことごとく討ち果さねばならん!」

堺の有力商人の筆頭格・今井宗久いまいそうきゅうが怒りのままに声を上げる。


「し、しかし!

肝心の三好一族の軍勢は……

織田信長の大軍に京の都を追われ、阿波国あわくに[現在の徳島県]まで逃げ出しているとか。

招き入れる前に信長がやって来てしまうのでは?」

こう異を唱えたのが、これまた堺の有力商人の一人・津田宗及つだそうぎゅうだ。


そして。

もう一人の若い有力商人が声を上げた。

後の豊臣秀吉に重用ちょうようされて千利休と名を変える、千宗易せんのそうえきである。


宗久そうきゅう殿。

その信長から脅迫状が届いたと聞きましたが、まことの話で?」


「真の話ではあるが……」

「どんな内容だったのです?」


「『わしに服従を誓い、大人しく銭[お金]を差し出せ。

そうすれば堺を討つことはしない』

と」


「何と!

100年以上の長きにわたって自由と独立を保ってきた、この堺に……

服従を迫って来たと?」


「うむ。

こんな要求は、前代未聞ぜんだいみもんぞ。

信長め!

一体、何を考えているのじゃ。

気でもれたか[気が狂ったという意味]」


「確かに。

気でも触れたかのような要求ではありますが……

足利あしかが将軍家の正統な後継者である義昭よしあき公を奉じた信長の軍勢は、その大義名分によって続々と兵が集まり、今や6万人もの大軍に膨れ上がっているとか。

仮に三好一族の軍勢を招き入れたとしても、6万人もの大軍には到底かなわないのでは?」


「くっ!

大義名分で集めた大軍を『利用』して、この堺を我が物にしようとするとは……」


まんまとしてやられましたな」


「……」

「ところで。

脅迫状の内容は……

服従を誓い、銭[お金]を差し出せという『要求のみ』だったので?」


「いや。

我らが代表の地位に留まることを許し、その商圏と財産を保証し、いくさをする際には必要な兵糧や武器弾薬はすべて堺が独占することを許すと」


「我らに兵糧や武器弾薬の『独占』を許す!?

そんな魅力的な約束など、聞いたことがない!」


「脅すだけ脅しておいて、商人なら誰もが魅力に感じる約束を申し入れてくるとは……

信長は只者ただものではない」


「只者どころか、いくさの天才では?

たった『一撃』で我らに勝利するとは見事!」


「……」

「迷っている場合ではありません!

宗久そうきゅう殿。

直ちに、信長様へ使者を出されては如何いかが?」


「信長へ使者を出す『意味』を分かって申しているのか?

宗易そうえき殿」


「意味とは?」

「信長は、この堺に服従を迫っているのだぞ?」


「この堺が、信長様の『物』になるということでは?

十分に分かっているつもりですが」


「我らは、今まで多くの血と汗を流して自由と独立を保ってきたのじゃ!

それを……

今ここで、すべて捨てろと?

ご先祖様に何とびればいい?」


宗久そうきゅう殿。

受け入れるしかありますまい」


「……」

「時代遅れの議論に無意味な時間を費やすよりも……

ここは一刻も早く信長様に服従を誓い、その軍勢を一部借りるべきでしょう」


「信長の軍勢を一部借りる?」

乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働いたクズどもをことごとく捕らえるためです。

二度と同じことを繰り返さないためにも、悪事を働いたらどうなるかの『見せしめ』が必要では?」


「それはそうだが……

軍勢まで貸してくれるかのう」


「ご存知ありませんか?

信長様は京の都に入ったとき、兵の一人が都に住む女子おなごに少し触れたのを見ただけで……

その激情のままに馬上から刀を振り下ろし、その兵の首を自らね飛ばしたとか」


「何と苛烈な!」


 ◇


日を置かずして。

服従を誓う起請文と、莫大なお金を積んだ荷車が信長の元へ到着した。


「ははは!

堺の武器商人どもめ。

なかなかに判断が早いではないか。

さすがは応仁おうにんの乱の勝利者だけあるのう。

何!?

クズどもを捕らえるための軍勢を貸せだと?

良かろう。

猿っ[秀吉のこと]!

代官の松井友閑まついゆうかんに付いて行き、速やかに堺の治安を回復して参れ!

残りは帰るぞ!」


そして。

混乱に乗じて乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働いた者に加え、言葉巧みに人から金品をだまし取った者、根拠のない噂で人の不安をあおった者までことごとく捕らえられて首をねられ、城門の前に数日さらされた。


たった一撃で堺に勝利し、治安も瞬時に回復したとの報告を秀吉から受けた信長は……

終始上機嫌であったという。


 ◇


一方。

甲斐国かいのくに[現在の山梨県]へと着いたいとは、武田信玄の後継者である四郎しろう勝頼かつよりとの祝言しゅうげん[結婚式]を挙げる。


その晩。

妻と2人きりになった夫は、一つの誓いを立てた。


「甲斐国まで、よく参られた。

いと殿。

そなたを我が妻に迎えた以上は……


「嬉しゅうございます。

四郎様。

不束者ふつつかものではありますが、宜しゅうお願い致します」


そして。

妻の手を優しく握った勝頼は、妻の目を見て自分の考えを語り始める。


「それがし……

そなたのお父上、信長殿を『尊敬』しているのだ」


「まあ!

それはまことにございますか?」


「正直なところ。

人の上に立つ器ではない足利義昭あしかがよしあき公を将軍に据えたところで、足を引っ張る存在となるだけなのは誰が見ても明らかであった。

そうだとしても!

三好みよし一族から京の都を奪還して義昭よしあき公を将軍に据え、崩壊した秩序を回復しようとなさる振る舞いは『立派』だと思う」


妻の目から涙が流れ始めた。

「あなた様が、お父上と全く同じ考えをお持ちであったとは……

こんなに嬉しいことはありません」


「それがしも、こんなに嬉しいことはない。


2人は、一つになった。


 ◇


数日後。

いとは、岳父がくふの武田信玄と『対峙たいじ』している。


そこには信玄に加え、一族の重鎮である穴山信君あなやまのぶただ武田信豊たけだのぶとよ清廉潔白せいれんけっぱく[心が清くて私欲がない人のことを指す]で実力にも秀でた高坂昌信こうさかまさのぶ山県昌景やまがたまさかげ内藤昌豊ないとうまさとよ馬場信春ばばのぶはるの武田四天王が脇に控えていた。


「信長殿の愛娘がどれほどの女子おなごなのか……

皆も交えて話そうぞ」

こう言った岳父の強い希望で決まった会合であったが、対峙するだけでも凄まじい圧力を感じていたに違いない。


しかし。

その隣には、心強い『味方』がいる。


何があっても、自分だけは妻の味方でいようと決めていた……

武田四郎しろう勝頼かつよりである。


 ◇


「こんな片田舎の甲斐国かいのくに[現在の山梨県]まで、よく参られた。

いと殿。

長旅、お疲れであろう?」


「お気遣い頂き有り難く存じます。

皆様、お優しい御方ばかりで……

もう疲れてなどおりません」


「それは重畳ちょうじょう

ところで、そなたは……

恵那郡えなぐん[現在の岐阜県恵那市付近]を治める遠山とおやま一族の出であるとか?」


「はい。

わたくしの実の父は、遠山直廉とおやまなおかどと申す者にございます」


「ただ……

そなたは幼くして故郷を離れ、信長殿の手元で育てられたと聞いた。

故郷から引き離されて辛かったのでは?」


「お父上も、お母上[信長の妻・帰蝶のこと]も、わたくしを実の子として大切に育ててくださいました。

辛いと思ったことはありません」


「そうか、それは良かったのう。

さて……

いと殿。

この甲斐国かいのくにへ来て、何か感じられたことはありますかな?」


「来て数日ゆえ、まだ何も分かっておりませんが……

見事に感じたことが2つございます」


「ほう。

その2つとは?」


「1つ目は、『治安の良さ』です」

「よくご存知じゃ。

ならば、いと殿。

一つ尋ねたい」


「何をお尋ねになりたいのでしょう?」

乱暴狼藉らんぼうろうぜきを働く者、言葉巧みに人から金品をだまし取る者、根拠のない噂で人の不安をあおり、人を傷付ける者。

こういう、どうしようもないやからは……

何処どこにでも存在している。

ただし。

?」


「『法』です」



【次節予告 第七十七節 愛娘、死す】

武田一族の中で、織田信長の本当の目的を見抜く者がいました。

「信長殿の目的は……

堺を我が物にすることでは?」

と。

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