第七十二節 信長と信玄が憧れた天才

「『政略結婚の道具』として、わたくしを武田家へ送り込んでくださいませ」


愛娘のこの言葉は……

父を激しく動揺させた。


「何を馬鹿な!

そんなの駄目に決まっているではないか!

あまりにも危険過ぎる……

織田家と武田家には、何の『えん』もないのだぞ!」


実際。

この時点で、織田家と武田家には何の縁も所縁ゆかりもなかった。


織田家は尾張国おわりのくに、現在の名古屋市を中心とした愛知県西部で勢力を伸ばしていた。

一方の武田家は甲斐国かいのくに、現在の甲府市を中心とした山梨県において数百年にわたって君臨していた。


この2つの地域を地図で見ると、一目瞭然いちもくりょうぜんなことがある。


両市の間には標高2,500mを超える甲斐駒ヶ岳かいこまがたけ赤石岳あかいしだけなどの南アルプスが壁となって立ち塞がっている。

東京と名古屋をたった40分で結ぶリニア中央新幹線は、これを真っ直ぐ貫く経路で建設中ではあるが……

今のところ南アルプスを貫く経路は存在しない。


名古屋市と甲府市を直接結ぶ経路がないため、人々は2つの『迂回』ルートのどちらかを選んで行き来してきた。

1つ目はJR東海道線で静岡市、当時の駿河国するがのくにを経由して静岡県富士市へ行き、富士川沿いを北上する身延みのぶ線に乗り換えて甲府市へと至る東海道ルート。

2つ目はJR中央西線で岐阜県中津川市、当時の美濃国みののくにを経由して木曽の山中を抜けて長野県塩尻市へ行き、中央東線に乗り換えて甲府市へと至る中仙道なかせんどうルート。


要するに。

南アルプスを踏破する登山者でもない限り、駿河国か美濃国を通らなければ甲斐国へと行けないのだ。


織田信長が美濃国を制圧して初めて、武田家という『未知』の相手に遭遇したと言っても過言ではない。

自分の愛娘が……

そんな相手に嫁ぐと言い出したら、どんな父親も激しく動揺するのではないだろうか?


 ◇


激しく動揺する父に対し、愛娘は涙を流しながら語り始める。


「実の娘ではない、このわたくしを……

お父上とお母上は大切に育ててくださいました。

とても幸せでした。

!」


いとよ。

わしにとっても、帰蝶にとっても、そなたは大切な家族の一員じゃ。

ずっと側に置きたいに決まっているではないか。

どこへもやりたくはない」


「お父上が一介いっかいの武士の一人、あるいは民の一人であったなら、それも叶ったことでしょう。

でも。

お父上は織田家の当主なのです。

尾張国おわりのくにを統一し、そして美濃国みののくにを制圧されたことで……

三河国みかわのくにを治める盟友の徳川家康様と合わせて三ヶ国の大軍を率いる身となられました。

お父上は、この日ノ本ひのもとを動かせるほどの『大きな力』を手にされているのです」


「……」

「大きな力を手にした人は……

?」


「ああ、そうじゃ。

銭[お金]を持ちながら、あるいは武力を持ちながら、あるいは影響力を持ちながら……

その力をおのれのためにしか用いることができない者に、その力を持つ『資格』などないのだからな」


日ノ本ひのもとを裏から支配できるだけの莫大な『銭[お金]』を持っていた京の都の商人たち。

その商人と組んで強大な『武力』を持つに至った諸国の有力者たち。

人々を言葉巧みにあおり、そそのかして人気を得、巨大な『影響力』を持つに至った本願寺ほんがんじ教団や他の有名な者たち。

この者たちのほとんどは、その力をおのれの目先の利益のためにしか用いていません。


「ああ、そうじゃ……」

「お母上も。

この、わたくしも。

お父上のことを他の誰よりも理解しているつもりです。

手にした力をおのれのためではなく、他人のために用いる御方であると」


「『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』

わしはずっと……

この使命を果たす機会[チャンス]を待っていた。

すべて、そなたの申す通りよ。

大きな力を手に入れた者は、その力をおのれのためでなく、他人のために用いるべきなのだからな」


「その通りです、お父上。

例えそれが……

辛く、困難な道のりだとしても、でしょう?」


「ああ、そうじゃ。

これは力を持つ者すべてが背負った『宿命』でもある」


「お父上がおのれの宿命に向き合おうとなされているのに……

わたくしだけが安全で、何不自由ない豊かな生活を送ることなどできません。

だって。

わたくしは、お父上の娘でしょう?」


「ああ、そうじゃ」

「お父上の娘として、その宿命を『分かち合いたい』のです」


「はっきりと申すが。

わしはそなたに、実の息子、実の娘以上の愛情を注いで来た」


「……

存じております」


「わしはいとに……

わしの辛く、困難な宿命まで分かち合って欲しいなどとは、微塵も思ってはいないのじゃ。

むしろ安全で、何不自由ない豊かな生活を送り続けて欲しい。

大切な愛娘なのだから」


「お父上のお気持ちはとても嬉しく思います。

ですが、それは……

許されないでしょう」


「なぜ?」

「わたくしは……

?」


いとよ。

どうしても行くと申すのだな?」


「行きます」


 ◇


父と愛娘の話は続く。


「お父上がわたくしにしてくれた、お話の中で……

今でも強く印象に残っているお話がありました」


「どんな話が?」

後醍醐天皇ごだいごてんのうの命で遠い奥州おうしゅう[現在の東北地方]の地を平定して精強な騎馬軍団を持つ南部なんぶ家、伊達だて家、結城ゆうき家などを従えて大きな力を手にした、ある『若者』のお話です」


「250年も前の話だぞ?」

「はい。

手にした力を世のため、人のために用いようと考えた若者は、こう宣言して立ち上がりました。

『崩壊した秩序を立て直し、世をあるべき姿へと戻すためには……

悪い事柄の根をたねばならない。

それは、武器弾薬で銭[お金]を儲けるために日ノ本ひのもと各地で争いや分断を引き起こしている連中よ。

もう一度、京の都へと上って……

連中をことごとく討ち果たそうではないか!』

と」


「……」

「そして。

武器商人たちに味方した幕府の大軍に対して全くひるむことなく電光石火せんこうせっかの早さで京の都へと突き進み、さえぎる敵を次々と打ち破って史上最も多くの幕府軍の兵を葬り去ったのだとか。

いくさの『天才』とはまさにこのこと」


北畠顕家きたばたけあきいえ公の話だな?」

「はい。

顕家あきいえ公は、武田信玄公よりもずっと前に風林火山ふうりんかざんの旗を掲げられました。

きこと風のごとく[動くときは風のように早く]、しずかなること林の如く[林のように静かで]、侵掠しんりゃくすること火の如く[火のような勢いで進撃し]、動かざること山の如し[動かないときは山のようにびくともしない]。

この言葉の通り……

遠い奥州の地から近江国おうみのくに[現在の滋賀県、およそ600km先]までを、たったの15日[1日およそ40km]で駆け抜けました。

『普通』の人が3倍の時間が掛かる距離を、しかも数万人もの大軍を率いてです」


「ははは!

天才に、普通の感覚など通用せん。

常識に縛られていないのだからな」


風林火山ふうりんかざんの旗を掲げた信玄公も……

お父上と同じく、いくさの天才である顕家あきいえ公にあこがれを抱いているのでは?」


「そうかもしれんが」

「お考えください。

顕家あきいえ公が戦った敵は、室町幕府の初代将軍である足利尊氏あしかがたかうじ公でしょう?」


「……」

「つまり。


いとよ。

そなたは……

信玄が、手にした力を世のため、人のために用いる『器』の持ち主だと信じているのか?」


「はい」

「分かった。

そなたが武田家へ嫁ぐ段取りを進めることと致そう」


 ◇


父と愛娘の話は更に続く。


「わたくしが武田家へ嫁いだら必ず……

領地を『空』にして、全軍を京の都へとお進めください」


「何っ!?

領地の守備に兵を割くなと申すのか?」


「はっきり申し上げますが。


「余裕などない!?

なぜ?」


「お父上のすべきことが……

三好みよし一族から京の都を奪還して足利義昭あしかがよしあき公を将軍に据え、崩壊した秩序を回復させること『だけ』ではないからです」


「他に何があると?」

「思い出してください。

義昭よしあき公の兄である義輝よしてる公は、大名や国衆くにしゅう[独立した領主のこと]同士のいくさを止めさせようと盛んに働きかけられておられました。

その『せい』で京の都の武器商人たちから激しい憎悪を買い、無残な最期を迎えています」


「要するに。

三好みよし一族よりも、京の都の武器商人どもの方がはるかに『厄介』な相手だと申すのだな?」


「はい」



【次節予告 第七十三節 京都の商売敵・堺を我が物に】

織田信長は、3つの都市に代官を置いて直轄地することを願い出ます。

「大津と草津……

そして、『堺』」

と。

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