第六十四節 使命を果たすべきとき

織田信長の愛娘であるいとは……

尊敬する父が自分のこころざしを口にするのを何度も見ていた。

「戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい」

と。


「今こそ、その『使命を果たすべきとき』ではないでしょうか?」

彼女は父の背中を強く押し始める。


これが父の人生を大きく変えてしまうことなど……

今の彼女には知るよしもない。


 ◇


いとよ。

『なぜ』、今だと思うのか?」


「先程、お母上[自分を育ててくれた信長の妻・帰蝶きちょうのこと]と明智光秀様という御方にお会いして……

確信したからです」


「明智光秀?


「はい」

「光秀は今、幕府の家臣となっているはず。

幕府の使者として来たのであれば……

盟友の徳川家康と共に尾張国おわりのくに三河国みかわのくに[合わせて現在の愛知県]と、制圧したばかりの美濃国みののくに[現在の岐阜県]から兵を集め、三ヶ国の大軍を率いて三好みよし一族から京の都を奪還せよとの話であろう?」


「その通りです。

足利義昭あしかがよしあき公が将軍となる手伝いをして頂きたいと」


「足利義昭は……

実の兄である将軍・足利義輝あしかがよしてる公が三好みよし一族に殺されて以来、各地を流浪るろうしていたとか。

わしのことをどこからか聞き付けたのであろうな」


「恐らく、そうでしょう」

いとよ。

わしは足利義昭あしかがよしあきという人物のことを『徹底的』に調べた結果、一つの結論に至っている」


「どんな結論に?」


「どうしてそう思うのです?」

「実際。

『行き当たりばったり』の義昭に協力する大名や国衆くにしゅう[独立した領主のこと]など誰もおらんではないか」


「なるほど。

お父上の力で将軍になったところで、周囲に振り回されて『何の役にも立たない』に決まっていると?」


「その通りよ。

あいつと比べれば、第13代将軍であった兄の義輝よしてる公の方がはるかに立派なこころざしを持つ御方であった。

大名や国衆くにしゅう同士のいくさを止めさせようと盛んに働きかけておられたからのう。

そのせいで武器商人どもから激しい憎悪を買い、無残な最期に終わったが……」


こころざしを持つことは立派だと思います。

ただし。

志を貫くのに『こだわって』しまうと、かえって争いの元となって悲劇的な結末を迎えるかもしれません」


「……」

「義輝公のこころざしはご立派でしたが、その志を貫くのにこだわったことで……

?」


「そういう考え方もあるな」


 ◇


彼女は、父の背中を更に強く押し始めた。


「お父上にとって……

今、最もすべきことは何かをお考えください」


「最もすべきこと?」

「お父上は、こう教えてくださいました。

『戦国乱世となった原因は……

おのれの、しかも目先の利益ばかりを追求して争いを招き、それがいくさへと発展した結果として、秩序を崩壊させてしまったからではないか。

秩序を軽んじる振る舞いこそが、戦国乱世の元凶なのじゃ』

と」


「……」

「今、最もすべきことは……

目先の利益よりも『秩序』を優先するお父上こそが、民の平和で安全な生活を守れる唯一の御方であると日ノ本ひのもと中に示すことだと思います」


「……」

「お父上ならばよくお分かりのはず。


「そのことならよく分かっている。

欲でつながった味方ほど、いざというときに何の役にも立たないものはない。

些細ささいな疑いを吹き込まれた程度で疑心暗鬼ぎしんあんきに陥り、小さな火種を起こされた程度でみにくい身内争いを起こして勝手に自滅する連中よ。

そんな邪魔でしかない味方こそ真っ先に斬り捨てるべきであろう!

いくさとは大抵、強い敵と当たったから勝利できないのではなく……

弱くて、何の役にも立たない『味方が足を引っ張った』せいで敗北するものなのだからな」


「そうならば。

今、最もすべきことが何かは明白でしょう」


「その通りです。

正直なところ、人の上に立つ器ではない足利義昭あしかがよしあき公を将軍に据えたところで……

お父上にとって利益になるどころか、むしろ『害』となるに違いありません」


「……」

「そうだとしても!

三好みよし一族から京の都を奪還して義昭よしあき公を将軍に据え、崩壊した秩序を回復させるのです。

それを見た清廉潔白せいれんけっぱく[心が清くて私欲がない人のことを指す]な御方は必ず、お父上のこころざしに共感し、お父上にとって心強い『味方』となるはず」


「……」

「今こそ。

銭[お金]を持ちながら、あるいは武力を持ちながら……

利益がないからと何もせず、いくさで大勢の民が苦しむ姿に見て見ぬ振りをし、ただただおのれの私腹を肥やすことばかりに励む無能な御方との『違い』を示されては如何いかがですか?」


いとよ。

すべて、そなたの申す通りじゃ。

今は味方を得る絶好の機会[チャンス]ととらえるべきか」


「はい。

お父上が使命を最後までまっとうするために必要なのは……

どんなに困難な状況でも決して裏切ることのない、強くて、役に立つ味方なのですから」


「わしにとって最も強くて、役に立つ味方とは……

そなたの育ての母である帰蝶きちょう

そしていと、そなただと思うぞ。

わしにとっては掛け替えのない存在だな」


その後。

織田信長は、明智光秀という強くて、役に立つ味方を得る。


加えて。

将軍に据えた足利義昭あしかがよしあきに人の上に立つ器などなく、常に周囲に流されて行き当たりばったりな行動を続けて信長に害をもたらし、そのせいで信長は何度も窮地に陥ったが……

盟友の徳川家康、家臣の柴田勝家しばたかついえ丹羽長秀にわながひで滝川一益たきがわかずます森可成もりよしなり木下秀吉きのしたひでよしなどは窮地に陥った信長を決して見捨てなかった。

むしろ懸命に信長に尽くし、心強い味方のおかげで信長は何度も窮地を乗り切ったのである。


すべて、愛娘の言う通りとなった。



愛娘に強く背中を押された信長であったが……

一つだけ大きな心配事があるようだ。


いとよ。

わしには、一つ大きな心配事がある」


「どんな心配を?」

「武田信玄」


「武田信玄公!

甲斐国かいのくに[現在の山梨県]のとらとも呼ばれている御方ですね」


「わしは、あれほどまでに優れた『手腕』を持つ男を見たことがない」

「……」


終わりではないか?」


「お父上様。

その心配なら、『ない』と存じます」


「ない!?

それはまことか?」


「わたくしの故郷の恵那郡えなぐん[現在の岐阜県恵那市付近]は、信玄公の領地である信濃国しなののくに[現在の長野県]の隣に位置しています。

信玄公の話ならよく入って来ます」


「信玄の話を聞いて……

いとよ、そなたはどう感じたのじゃ?」


「お父上に、よく『似た』御方かと」

「わしに似ている?」


「協調性に欠け、非常識で、不器用ですが……

並外れた『純粋』さをお持ちです」


「純粋さ、か」

「信玄公ならば、お父上と同じこころざしを持つ味方となるかもしれません」


「そうかもしれないが……

それだけで信玄を信用するのも難しかろう」


いとは、父に対してこう言い切った。

「武田信玄公に背後を襲われる心配はありません。

安心して『全軍』を京の都へと進め、使命を果たされませ」


一方の父は、愛娘の言葉を鵜呑みにできない。

「そなたは鋭い。

わしは、その鋭さを誰よりも理解しているつもりじゃ。

ただ……

並外れて純粋なだけで信用はできまい?

仮に。

信玄にわしの背後を襲う気がないとしても、武田家の他の者たちが同じように考るとは限らんぞ?

『織田信長と徳川家康が領地を留守にした今こそ!

尾張国おわりのくに三河国みかわのくに[合わせて現在の愛知県]、そして美濃国みののくに[現在の岐阜県]を我が物とする千載一遇せんさいいちぐうの好機ではないか!』

こう考える欲深い者どもが必ずいる」


「お父上様。


「行く!?

どこへ?」


「『政略結婚の道具』として、わたくしを武田家へ送り込んでくださいませ」

「なっ!?

何を馬鹿な!

そなたを武田家へ送り込めだと?」


「はい」

「そんなの駄目に決まっているではないか!

わしは、そなたを危険な目に合わせたくない」


「……」

「わしは、そなたに約束したのじゃ。

『手元に置いて大切に扱う』

と」


「それは、わたくしではなく……

お母上のことでしょう。

お父上はわたくしに、こう約束してくださいました。

『手元に置いて大切に育てる』

と。

約束ならば、既に果たされています」


いとよ。

あまりにも危険過ぎる……

織田家と武田家には、何の『えん』もないのだぞ!」


「お分かりでしょう?


「……」

「わたくしもまた、『使命を果たすべきとき』なのです」



【次節予告 第六十五節 信長と信玄が憧れた天才】

弦は……

ある『若者』の話を始めます。

その若者は、史上最も多くの幕府軍の兵を葬り去った『天才』でした。

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