幕開け

 フロントからの電話があったのは午後五時五十五分のことであった。

 レストランはフロントの上にちょうど乗っかるような位置にあるから、一行は中央党に向かった。外はもう夜の色に染まっていた。塀に夕日がはばまれているのだろう。空を見上げると、塀に切り取られた空が赤く燃えていた。この八角形の空間だけが夜を先取りしているのだ。うっすらと見える門は閉じていて、跳ね橋も上がっていた。

 もう全員そろったのだな……。紗綾はそんなことを考えながら。ぼんやりと暖かいランタンに照らされた道を美輝について歩いていった。この時間になっては、あの鮮やかな花壇も色褪せて、濃紺の世界に呑まれようとしている。点々と灯る道しるべが反対に彼女を心細くさせて、慌てて舞の手を握った。舞もその手を握り返してくれた。

 レストランには既に十名ほどの客がいた。その中には各界の著名人も居たようだが、紗綾はとんとそういうことに疎いものだから、先程会った本宮の存在しか目に留まらなかった。そんなその他大勢の紳士淑女客人の前にある、一段高いステージに籠塚が大臣よろしく座っている。ステージの袖にはチーフの桐沢、浦添と料理長以下スタッフが並んでいた。

「やあ、これでみんなそろったな。それじゃあ桐沢君、はじめようか」

 紗綾たちが本宮の座るテーブルにつくか否か、籠塚が客席まで聞こえるほどの声でそう呟いた。桐沢が合図をすると、会場に音楽が流れ始めた。それが残響に変わると、桐沢が開会の挨拶を簡単に述べ、マイクが籠塚に移った。籠塚はニヤニヤと笑いながらマイクをコンコンと叩くと、この度は、と演説を始めた。この籠塚のスピーチは典型的なものだったし、聞くに耐えないほど長かった。その割に、このあと起きる出来事ほどのインパクトはなかったのだから、あえて紙面を割くことは避けよう。長ったらしい挨拶を終え、籠塚がワイングラスを持った。多くの客人がワインを片手にする中、三人は形ばかり、オレンジジュースを手に持った。

「それではみなさん、ご歓談のひと時を。石廊崎アートリゾートに乾杯、駒澤文名に乾杯」

 合図とともに再び音楽が流れ始め、各テーブルで乾杯の余韻が続いた。それがあらかた落ち着くと、先程まで整列していたスタッフたちがテキパキとクロッシュの載ったワゴンを各テーブルに配した。この時注意深い人間がいたら、この中で最も大きなクロッシュがステージ上の籠塚のテーブルに横づけされるのを見ていただろう。紗綾もそのことには気づいていたが、オーナーとはそういうものだろうかと気に留めずに己の前に置かれたクロッシュを見つめた。舞はそれを見つめると、前菜を刺したフォークを一旦置いて紗綾に耳打ちした。

「なんだかすごく、緊張するご飯だね」

 それもそうである。お嬢様として通っている美輝はこういう場に参加することも珍しくはないのかもしれないが、レストランといえば安いイタリアン、奮発してもチーズ入りのハンバーグという生活をしている紗綾と舞にはこの環境全てが初めてである。言うまでもなく、クロッシュで料理が運ばれてくるのはテレビでしか見たことがないから、

「初めて見たよこの銀色のやつ。なんていうの?」

 と紗綾も聞き返した。すると美輝が二人の間に入ってきて、

「それはクロッシュと言うの。フランス語で鐘という意味。料理が冷めたりチリがついたりしないようにするためのものですよ」

「へぇ、さすがね」

 感心しているのかいないのか、舞はオレンジジュースを飲み干してストローでジュッと音を立てた。その音を聞いてスタッフの人が苦笑いをしながらクロッシュを取り去った。

 その中には山のようなローストビーフが入っていた。思わず舞はストローに息を吹き込むと、わぁと言ってしまった。しかしその声は誰の耳にも届かなかっただろう。彼女の声に重ねるようにして、吹き抜けに大きな野太い悲鳴が響き渡ったのだから。

 その瞬間はまさに一枚の絵のようであった。誰もがその声の主である籠塚のテーブルの方に目をやっていた。籠塚は椅子から転げ落ち、何やら指を差している。これがもしも絵画であったなら、そこにはこの世のものならぬものでも災厄、人智を超越したモノが彼の目の前には描かれるのだろう。そう、この時まさに彼の目の前にあったのは悪夢であった。しかもそれは誰の目にも見える形の、恐ろしい造形物であった。彼の驚きを人々が理解した瞬間、流れ続けていたジャズをかき消すように悲鳴と怒号がこの先頭の中に飛び交った。

 紗綾は思い出したようにグラスを置くと、すぐさまステージに登ったが、彼女もそこにあるモノが何であるか知った瞬間、全ての反応を忘れてしまったように、固まってしまった。

 それは女の生首であった。しかし、それがただの生首であったとしたら、彼女をこれほどまでに驚愕させることはできなかっただろう。

 明らかにその死体は意図をもって飾られていた。生首は巻かれた白いナプキンにどす黒いシミを作っている。その両脇には切断された左右の腕が置かれていて、右手に持たれたナイフが左腕の肉を切り分けるように刺している。一方左手に握られたフォークは欠けた右手の小指を刺していた。青黒い肌を晒した生首の唇には切断された左手の薬指がくわえられていた。目玉は白く濁り、互い違いの方向を見つめている。すこし、口元が笑っているように見えるのが、この悪夢をより一層ひどいものにしている。

 真っ先に動いたのはチーフの桐沢であった。桐沢はクロッシュを取ったまま固まっているスタッフからクロッシュを奪い取ると荒々しくそれにかぶせ、スタッフをステージから突き落とし、ワゴンを下げていった。

 その対応があまりにも鬼気迫っていたから、蜂の巣を突くような騒ぎは一瞬にして、水を打ったように静まり返ってしまった。

「あなた、ステージから、降りなさい」

 ほどなくして桐沢が戻ってくると、桐沢はまず紗綾にそう指示した。紗綾がそれに渋々従うと、続いて彼女は先ほどの一連の出来事がオーナーを相手にしたイタズラであったとアナウンスした。もちろん紗綾含めほとんどの客は納得していなかった。桐沢に問い詰めるものもいたが、桐沢は頑として口を開かなかった。当の籠塚はスタッフに支えられながら一足先に席を外してそのまま帰ってこなかった。

 今になって思い返してみれば、紗綾たちが籠塚の姿を見たのも、これが最後であった。

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