予告通り

「無い……!」

 翌朝、美術室に踏み込んだ舞と紗綾、そして美輝の三人は目の前の光景に目を疑った。そこには昨日まで確かにあのメデューサの首が入っていたはずなのだ。しかしどうしたことだろう。今彼女たちが見ているアクリルの箱の中はただアクリルの台座があるだけで、あの奇妙な女の首の像が見当たらないのだ。

 そう、予告通り犯人は「魔女の暦」を奪い去ったのである。

「とにかく、函南先生が来るまで待ちましょう」

 なにも事情を知らない美輝だけが冷静であった。もちろんそんな美輝のことだから、二人の様子に何か思うところはあったようだが、それを今聞こうとはしなかった。全ては顧問の前で話すべきと考えたのだろう。

 三人が窓際に立っていると、バラバラと他の部員たちがやってきた。そして三人がそこに立つ意味を知ると、己もそこに立ち、何かを待つのであった。

 舞にはそれが重圧であった。美輝は何も知らない。あの予告状を知っているのは副部長の自分と紗綾の二人きりなのだ。また何か責任問題になるか……といささかナーバスになりはじめていたところに、多くの人の視線を感じるのはあまり嬉しいことではない。どうにかしないと、と思うのだが、どうすることももちろんできない。チラと紗綾を見てみると、紗綾はアクリルの箱の中の空虚を見つめながら、思案する顔をしていた。


 紗綾はここまでの出来事を思い返していたのだ。


 この日、紗綾と舞はきっかり七時に美術室のある東棟五階についた。無論そのためにはだいぶ早起きをしなければならず、そこに面倒くさがりな舞と一悶着あったのだが、とにかく指定された時間通りに着いたのである。

 美術室の鍵はいつも廊下に隠している。彼女たちはそこに隠した鍵を用いることで、顧問の函南先生が不在であっても制作環境を持つことができるのだ。本来であればルール違反なのだが、昔からのことであるし、なにせ美術部は文化祭の装飾制作を担っているものだから下手に邪魔できない。そんなことをしようものなら対外的なイベントで大恥をかくことになる。だから生活指導や警備員室からも半ば黙認されているのだ。最後に美術室を出る部員は必ず美術室を閉め、鍵を元の場所に隠す取り決めになっている。

 この日も舞は鍵を取り出すと扉に挿した。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」

 舞の言葉に紗綾も息を飲んだ。もしあの予告状が本当なら、もう既にか、今まさにか、あの「魔女の暦」に何か起きているはずなのだ。紗綾は舞の目を見るとゆっくり頷いて、鍵を握る舞の手に己の手を添えた。

 鍵はかかっていた。たしかに鍵の外れる感触がした。

 あらためて二人は顔を見合わせた。

 そこに美輝が現れて、三人揃って扉を開けたのである。

 その瞬間三人は猛烈な熱気が這い出して来るのを感じたのだ。

 それは春の夜明けにふさわしからぬ空気であった。

 美輝はまず舞を疑った。またイタズラして暖房を運転したままにして帰ったのではないかと。しかし舞は否定した。それには紗綾も同情した。確かに舞はこれまで数え切れないほどのイタズラを紗綾にしてきた。しかし暖房を運転したままにする類の、あまり面白くないイタズラをする人ではない。長く付き合ってきた紗綾がそう思うのだから、少なからず説得力はあると思ったのだが、美輝はどうにも承服しかねていた。

 美輝が暖房の電源を切り、冷房に切り替えると、ゆっくりと空気は熱を失いはじめた。生暖かく、そして次第に涼しい空気へと換気されていく。紗綾はその空気の流れを感じながら、 ふと本来の目的を思い出したのだ。そこには、空虚なアクリルの箱があるだけであった。


「せ、瓦木先輩、昨日からあの作品気にしていましたよね? ひょっとして何か……」

 児玉はここに来てようやく昨日紗綾があの作品を気にしていたことを思い出したようだ。彼女の質問に紗綾は頷くと、内ポケットから例の予告状を取り出したのである。

「昨日私の所にこんな手紙が舞い込んできてね。ここに、銀色の魔術師って人が『魔女の暦』という作品を盗もうとしているって書いてあるんだ」

 その言葉を聞いた瞬間の一同の顔を紗綾は浚う様に見渡した。作者である日置は固く唇を結び、児玉は食いいらんばかりに予告状を見つめていた。この子は……昨日見ていないからこの子が宗像さんなのだろう。血の気の引いた顔をして半歩引いている。早川は毅然として立って、その側の辻堂が肩を竦め、早川の手を握ろうとしている。成岩はどうしたものかとオロオロキョロキョロ、早く顧問がこないかと気にしているのだろうか。小杉は作品の置かれていたアクリルケースを見つめている。最後に美輝と目があった。

「紗綾、何故その事を私にも教えてくれなかったのですか。そうすれば何らかの対策が打てたかもしれないというのに」

 彼女の口から出た言葉に驚きの色はなかった。二人の素振りから予想していたに違いない。

「うん、ごめんね。でも本当に何かが起こるとは思っていなかったんだよ。なんたって、言っちゃ悪いけど美術部員の作品を盗もうなんて、話が小さいしね。何かのいたずらだろうって思ってたんだ」

「で、でも、瓦木先輩だったら、すぐに解決してくれるんじゃないですか?」

 というのは日置である。その言葉に成岩も頷いた。二人の視線を感じて紗綾は少し照れくさくなってしまった。それを隠そうと微笑むと、どうしても不自然な笑いになってしまう。途端、いつものようにお腹が鳴る。

 ぐぅ。

 紗綾はもう一度照れ隠しに笑ってお腹を抑えたが、一同はどこか呆れた目で紗綾を見つめている。ただ美輝と日置だけは紗綾に何かを期待する目を向けていた。

「いやぁ、そう言われるのは嬉しいけど……。なんて笑ってる場合じゃないや。でも、もうちょっと待ってくれればそれでいいかな。そうだ、だからちょっと聞いていい? 昨日美術室を最後に閉めたのは誰かな」

 ざわざわと一同が顔を見合わせた。その中からすっと白い手が上がる。

「わ、わたしと成岩先輩です……多分」

 それは宗像であった。

「はい、おそらくわたしと宗像さんだと思います。でもその時はまだ……!」

 泣き出しそうに眼を赤くした成岩に紗綾は手を差し出すと、

「いや、成岩さん。大丈夫、そのことを聞きたいんじゃないんだ。別のことなんだけどね、その時エアコンの電源は切ったかな?」

「えっ、エアコンですか……。いえ、わたしは知りません。ついていたんですか?」

「エアコンなら昨日はついていなかったと思いますよ。そんなエアコンに頼るような気候じゃありませんし……」

 と言ったのは小杉である。彼女の言葉に早川も頷いた。紗綾はそれを見てふむと唸ると、

「なるほどね」

 と呟いて壁に掛かったエアコンのリモコンを手に取った。

「先輩、何かわかったんですか?」

「うん、いや、まあ大体の目星はついてるんだけどね」

 紗綾は成岩の質問に軽い気持ちで答えたのだが、思ったよりも皆の反応は大きかった。小さくどよめきが起きた。皆口々に誰が、どうやって、なんで、と訊いてきた。しかし紗綾は手を振るのみで、それには答えなかった。

 三十二度、紗綾はそのモニターには暖房の最大出力が表示されていた。

 紗綾はそのままエアコンの吹き出し口に眼をやると、ちょうどその直下が立体作品の展示スペースであることを確認しもう一度ふむ、と唸った。

 紗綾の頭の中では着実に論理の積み木が組み上げられていた。

 もしそうならば……。

 紗綾はつかつかとロクロの棚に歩み寄ると、空になったアクリルのケースを持ち上げた。

「あっ」

 誰かの声がした。しかし紗綾は構わずその透明なアクリルの囲いを置くと、まじまじとメデューサの首が置かれていた土台を見つめた。そして紗綾は予想通りのモノを見つけると、にんまりと口角を上げて微笑んだ。まさにそれは紗綾の頭の中で勝利のラッパが吹かれた瞬間であった。

「先輩……、どうしたんですか?」

 三十秒ほどして日置が問うた。紗綾はこの言葉を待っていたのだ。

「ん、どうもしてないよ。ただ、もう大丈夫。銀色の魔術師のしたことはわかったよ」

 言うまでもなく、一同の中にざわめきが広がった。紗綾はそれを手で制すると、手品師が種明かしをするときのように、姿勢を正して黙礼をした。

「でもその前にね、ちょっと言っておきたいことがある。この予告状を見るに、銀色の魔術師さんは私との勝負を望んでいるみたいだね。だけどこれ、警察の手を借りて、この便箋の入手法や、指紋、筆跡を調べちゃえばすぐに誰の仕業かわかっちゃうものだと思うんだ。だけど、きっとそれは余りにもひどいとわたしは思うの。これはきっと銀色の魔術師さんの些細ないたずら……かなって。それを躍起になってあの手この手で追い詰めるのは銀色の魔術師さんの望むわたしのやり方じゃないでしょう。それなら私はそういう策は講じない。だから銀色の魔術師さんも、私の推理が当たっていたら正直に負けを認めてほしいって思うの」

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