問題の作品
部員の作品は一人一作と決まっている。それぞれ思い思いの絵を描いては部室に転がっていた適当な額に収めて展示しているのだ。一番豪奢な金の額縁には美輝の作品が入っている。無論舞のいたずらである。しかし、こんな額縁に入れられるのは美輝の絵くらいしかなかろう。彼女の祖父、駒澤文名初期の作、「夜市」の模写であった。
対する舞はというと、「部員シリーズ3」と題して、並んでイーゼルに向かう小杉と成岩のデッサンを提出していた。ちなみにこの一作は、掲示されるまで小杉と成岩には秘匿されていたものである。二人は猛抗議したのだが、結局折れてこうして掲示されているのだ。
その隣には成岩と小杉の静物画がかかっている。おそらく舞の描いたのはこの絵を描いている二人なのだろう。モチーフは同じであるが、若干角度が異なる。二人のタッチや物、色の見方の違いが表れていてなかなか教育的である。
いつも紗綾が腰をかけている窓際のろくろ棚には山吹色のクロスがかけられて、そこには立体作品が置いてある。中には隼の名前もある。展示品だから当然手を触れられぬように透明アクリルの箱の中に収められているのだが、なかなか持ちやすそうな渋い茶碗だ。そしてその横になんだかよくわからないペンギンのようなものが置いてある。ああ、そういえば葉月がこんなものを作っていたかもしれない。ご丁寧にもアクリルの箱には氷山の写真が貼られていた。
問題の作品「魔女の暦」は葉月のペンギンの隣に展示されていた。作品の札には、
『魔女の暦 中二 日置咲良』
とある。
しかし、いったい作者はどういう人なのだろう。それはこぶし大ほどの小さなメドゥーサの首だった。メドゥーサとはギリシャ神話にでてくる女の怪物である。頭髪が数匹の蛇から成り、宝石のように輝く眼は見たものを石に変える恐ろしい怪物である。神話によれば彼女はペルセウスに首を斬られて殺されたというから、これはまさしくそのメドゥーサの首の像ということだ。あんまり気色のよい作品とは言えない。
紗綾がまじまじと作品を覗き込んでいると、背後から視線を感じた。振り返ると見慣れぬ顔と、先ほど見た児玉の頭がパーテションの陰から覗いていた。
「あっ」
と知らぬ顔の方が頭を引っ込めた。慌てて児玉がその襟首をつかんだようで、カエルのような鳴き声が聞こえた。
「ほら、咲良ちゃん。何逃げてるの。ああ、すみません、先輩。それ咲良ちゃんの作品ですよね? ほら、咲良ちゃん」
「へい」
と猫のように襟を掴まれ、渋々表れたのは白衣を着た少女であった。白衣とは美術部には似つかわしくない格好である。紗綾が目を丸くしていると日置もその視線に気づいたようで、
「ああ、これですか?」
にへっと八重歯を覗かせ、白衣の裾をパタパタと扇いだ。
「評価シートだけ見に来たんです。
そう言ってくるりと振り向く先には児玉である。むつかしい顔をしている。しばらく思案したようで、ふふんと言うとようやく襟を放してもらえた。
「ああ、なるほど。ご苦労様」
紗綾が言うと日置はふふんと嬉しそうに笑ってくるりと白衣の裾をなびかせた。ふわりと有機溶剤の香りがした。
「それじゃ智慧ちゃんあとはよろしくね!」
「え、ちょっと」
ようやく何か聞けるかと思ったら、日置はそのまま入り口に向けて駆け出したではないか。これには紗綾も児玉も驚いた。足を踏み出す間も無かったのだ。
「すみません、先輩。私としたことが取り逃がしてしまいまして」
「いえ、いいんですよ。ああ元気なのは大事でしょうね」
紗綾はそう言うと、あっはっはと笑った。なんだか昔の舞みたいな子だなぁと思ったのだ。
「そうだ、児玉さん。一つ聞いてもいいかな?」
「あ、はい。なんでしょう?」
「この日置さんの作品だけど」
と言って、紗綾は再び問題の「魔女の暦」に視線を落とした。この作品を先ほどの闊達な女の子が作ったとは……。作っている姿というのがどうにも想像できなかった。作品はアクリル板の土台の上に載せてある。作品に触れるのは厳禁であるから、これまた透明アクリルの箱がかぶせてある。その姿はどこかあの手品のスフィンクスのようであるが、上下が逆である。
「これ、どういう作品なのかな。メドゥーサの首のようだけど?」
「ああ、それ。私も訊いたんですけど、なんでも好きな小説に出て来たそうで、メドゥーサの首が。それでその小説の名前をタイトルにしたみたいなんですね」
へぇ、と紗綾は呟いた。なるほど、それでああいうタイトルなのか。どうも背伸びしたタイトルだと思っていたが、小説から引用したとなると納得がいく。
「それにしても立体って、珍しいね」
そう、この部活において立体作品を提出する部員は希少なのである。多くが油彩にせよ水彩にせよ絵を描いて出品することが多いのだ。紗綾の周りだって、隼はいつもろくろを回しているが、考えてみたら彼くらいなものである。以前美輝に尋ねてみたら、やはり材料や器具を揃えるのが面倒なのだという。
「そうなんですよ。あんまり絵を描くのは好きじゃないみたいなんです。合宿で言ってました。去年の文化祭の時は分子模型でしたっけ、それでネコ作ってましたよね、覚えています?」
ああ、そういえばそんな作品あったかもしれない、と紗綾は想いを巡らした。その一方で、分子模型で猫を作るというのはいかがなものかと思えた。とりあえず作ってみたと言おうか、いかにも見た目が奇抜なものを作りましたという作品に紗綾はあまり惹かれないのである。
「立体は誰もやらないから面白いですよね。今回のこれはなんでしょう、石膏ですかね……?」
「あれ、それじゃあ日置さん、
児玉はコクリとうなづいた。
「そうです。そもそもあまり活動には来ないんですよ。来ても遊んでばかりで……。どこかの誰かさんみたいなんです」
ぷっと紗綾は思わず吹き出してしまった。パーテーションの向こうから大きなくしゃみが聞こえた。
「いえ、もちろんちゃんと作品は出してるからいいと思います。それと、咲良ちゃんの場合、兼部してますからね。忙しいのもわかりますよ」
たしかに、石膏くらいなら家でもできよう。それに考えてみれば石膏だって化学変化で硬化してるのだ。なんなら化学部の活動で作ったのかもしれない。
しかし……、と紗綾は思う。先ほどの猫の例にせよこのメデューサの首にせよ、仮に日置の親類に高名な彫像家がいたとして、このような作品を出すことを許せるのだろうか。美輝は偉大な芸術家にして彼女の祖父、駒澤文名を語るたび、彼の彼女の作品に対する厳しくも愛ある評価の数々を聞かされてきた。だからこう思うのかもしれないが、どうしても素人考えの目を惹くもの、自分の好きなもの止まりの作品に盗むほどの価値を見出せずにいた。ひょっとすると己の想定は既に棄却するべきものなのかもしれない……。
彼女の想定とは、この作品が真実芸術家の作であることであった。日置の親類にそういう者があり、彼女がその人の作を流用していたとすると、たしかに盗む意味はある。しかし先ほどの児玉の証言を聞くうちに、どうもその線は薄そうに思えてきたのだ。
やはりただのイタズラなのだろうか。
「ありがとう、児玉さん。もし日置さんにまた会ったら、私が興味深い作品だって言ってたって、そう伝えといて」
紗綾はなんとなく心の中にモヤモヤとしたものを飼いながら話を逸らそうと試みた。あまりこの作品にばかり気を取られていては怪しまれてしまう。まだあの予告状のことは舞にしか知らせていないのだ。無用な混乱を招くのは良く無い。
「はい」
児玉はそんな紗綾の感情に気づいているのかいないのか、ただそれだけポツリと口から出すと、小さく会釈して溜まり場に戻っていった。
この後紗綾はせっかくだし他の部員の作品も一通り見ることにした。彼女の目をひいた絵はいくつかあった。早川の作品なんかもその一つで、細かい折り目とシワのついた金属板の上にアクリル絵の具でピサロの「りんごの収穫」を描いた作品であった。そもそも点描の作であるが、凹凸の激しい金属板がさらに点の色合いを分割し、光の反射と見る方向で印象の変わる面白い模写であった。
もう一つは宗像瑞穂の作品であった。花の標本のデッサンである。何が良いというのを表現するのが難しいが、博物館で見たかのような、その硬質な、一見すると無機質にも見える姿に惹かれたのである。
こうして紗綾は中学美術部に関する情報を集めると、暇そうに椅子を積み上げ遊んでいた舞を諌めて連れて帰り、明日に備えて早寝をしたのである。
このとき紗綾がもう少し「魔女の暦」に注目していれば、これから語る一騒動は起きなかったことだろう。しかし紗綾はあの予告状を過小評価していたのだ。
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