暗夜行(6/7)

 城壁は限りなく高く、その内部は限りなく広かった。建材は常に白を基調としていて、後は穏やかな色が控えめに使われている。ただし黒だけはどこにも使われていない。

 天界都市の中はどこからともなく湧き出てくる光に満たされているという表現が正しいだろう。ここには世界中の人々の祈りが集められ、莫大な魔力の貯蓄池となっているのだ。

 天使族も半分異界の存在なので召喚されない限りはこの世界に存在できない。だが、世界中であらゆる人々が捧げる祈りが天使族の無期限の滞在を可能にしている。

 これこそが天界の勢力が優勢であることの根本要因である。

 私とアーダラクの周囲に高濃度の魔力が集まってきて微かに光が強くなった。このところ使い続けてきた蓄積魔力が補充される感覚に心が少しだけハイになった。

 これが天界都市の数少ないメリットの一つだ。


 我々が道を辿り進むと、周囲に奇妙な姿の者たちが集まってきた。炎が人の形を取ったもの。霧が集まったようなもの。触角を持った雷のボール。そのいずれもが空中に浮いている。

「精霊たちだ」私は説明した。

 精霊には決まった形というものがない。だから人の形を取っている精霊は人間との付き合いが長いと見てよい。言葉による意思疎通ができるのはこの種の精霊だ。

 それに比べて奇怪な形をした精霊は自分の性質に忠実なもので、強力な存在が多い傾向にある。

「ザ・ルールでは精霊は召喚されない限りこの世界に存在できないはすですが」とアーダラク。

「だから召喚されるまでの間に彼らが居るのがここ、天界の城だ」

 魔導士のすがるような目に私は首を横に振った。

「精霊たちは神に属しているわけでもないし、実際には自分たち以外のどこにも属してはいない。彼らは我々が言うところの神よりもずっと古く強力な存在だ。彼らがここにいるのはただ単に魔力の密度が高くて居心地がよいからだ。

 例えるならばこの世界は冬のようなもので、ここ焚火が燃えている場所に彼らは集っているに過ぎない」

「しかしザ・ルールは」魔導士が縋るような声で抗議した。

「ここの主になる前には私もザ・ルールは神が創りあげて運用しているのだと思っていた。今ではそうではないと知っているが、ではザ・ルールとは何かと問われればわからないと答えるしかない。

 精霊たちは本当にザ・ルールに縛られているのか、それとも縛られているように振舞っているだけなのか。それは私にもわからないんだ」


 精霊の中から一際輝くものが進みでてきた。人型をしていて二つの翼をもつ。そして全身が光を発している。翼の先の羽毛までもが光でできている。

 光の天使と呼び称される存在。

 それは口を開いた。

「やあ、ダーク。ここに来るとは珍しい」

 マドウフ・ベイル。太古の光の精霊。

「やあ、マドウフ・ベイル。光輝くものよ」私は挨拶をした。「久しぶりと言いたいところだが、この間の吸血鬼騒ぎで会ったばかりだな」

「そうだったかな。下界の記憶は留めるのが難しくてね」

「連れないな。今の時代、あんたを呼び出すのは私ぐらいのものだぞ」

「つまり君を殺せば私はゆっくりと永遠の昼寝を楽しめるということになる」

「本当はそんなこと、ちっとも思っていないくせに」

「君に私の心の何が分かるというのかね」

 言葉は突き放したものだが、光の精霊は微かに笑っていた。それは長い間の人間との付き合いで学んだものだ。

 我々は深淵を覗いて学習するが、深淵もまた我々を覗き返して学習するのだ。


 マドウフ・ベイルはその光でできた美しい眉をわずかに歪ませた。

「何だか臭いな。ダーク。前に体を洗ったのはいつになるのかね。百年前?」

「とんでもないことを言いだすな。あんたは」私は呆れた。

 念のために言っておくが、私は清潔好きだ。狼の姿のときでも体を舐めることだけは忘れない。

「いや、臭い。どれ」

 そう言うと光の精霊は口をすぼめて息を私に吹きかけた。

 焼けた石畳の匂い。夏のさなかのお日さまの匂い。弾けかえる魔力の匂い。原初の精霊の力。きらきら光る何かを含んだ熱い風。渦巻き清める何か。そして突風。

 自分の体に纏わりついていた悪臭が瞬時に消えるように感じた。アーダラクたちも驚いたような顔をしている。彼らも今のを正面から浴びたのだ。

 その高い鼻を使って空気の匂いを嗅ぐと光の精霊は満足したように言った。

「うん、だいぶマシになった」

「君の心遣いは有り難いが、マドウフ、そろそろ行かなくては」

「そうだな。ダーク。二度とその顔を私に見せないでくれ」

 それが合図であるかのように精霊たちは立ち去った。

 私たちは歩を進めた。玉座への道のりはまだまだ長い。



 白い小石を楕円形に磨いて小道の周囲に敷き詰める。たまにアクセントとして可憐な花の集落を間に散りばめる。自然に生えたように見えるがすべて計算し尽くして配置してある。

 こういうのを見ているとたまにそこにくしゃくしゃに丸めたハンバーガーの包み紙を投げ捨ててやりたくなる。だがきっとそれをやると管理役の天使が一晩泣きはらす羽目になるからやるわけにはいかない。

 やれやれ、人の上に立つ者は気が休まる暇がない。

 だから天界の経営も実際には六大天使に任せっきりだ。たまに重要な案件、例えば三大悪魔からの宣戦布告をどう躱すかなどの相談だけに乗っている。


 ウリエルたちが厳しく注意したお陰で、今のところ天使の姿はどこにも見えない。我々から見えない場所に隠れてこちらを見ているに違いない。

 やがて道は広くなり、天界都市の主道に出た。

 天界都市とは言え、ここは天使たちの住処というだけであり、実際に死んだ人間たちの魂が住む場所というわけではない。それはこことは別にある。

 主道の尽きる先はただ一つ。神の玉座だ。

 無数の天使たちが守っているので部外者がここまで来ることは普通はできないが、今回は私が案内しているのだから問題はない。

 神の玉座は文字通りの玉座で、正体不明の巨大な白い宝石を繰り抜いて作られている。そしてそこには誰も座っていない。

 我々はその玉座の前で立ち止まった。

 魔導士はもう好奇心ではち切れないばかりだった。左右を忙しなく観察している。玉座に文字でも彫られていないかと嘗め回すように見ている。

 ようやくその注意がこちらに戻って来た。

「我が君?」


 私は玉座に背中を向けてその前にどっかりと座り込んだ。二人にも座るように指で示す。ここの床はチリ一つ落ちていない。だから座っても神父服が汚れる心配はない。

 被服部門のマダラク尼僧は次に神父服を汚して帰ってきたら私にそこにある尼僧服全部の洗濯を命じると断言している。天使や悪魔よりも私は彼女が怖い。


 私は彼らに秘密を話し始めた。

「神はいない。そもそもの最初から」

「今なんと?」

「そして同時に神はいた。そもそもの最初から」

 私は背後の玉座を指で示した。

「我々は長い間、神という存在があり、そして我々を押さえつけていると感じていた。だがそれは間違いだった。この世界のどこを探してもそんな神は最初から居ない」

「しかし我が君。天使たちは」

「すべては詐術だった。新しい住処を見つけにこの世界にやってきた天使族はこの場を見つけ、それを神と断じた。少なくとも神ということにした。神が存在するという幻想を広め、それを持って世界を支配し、秩序を広げようとしたのだ」

 私は目を瞑った。そうしていると闇大戦がすぐ昨日のことのように思い出せる。

「この玉座の上にいるのは力の塊だ。ただし我々が考えるところの自我は持たない。いや自我はあるのかもしれないが、我々には理解できないし、会話もできない。ただ作用だけがある。それは神というよりは現象というのが正しい。ただそこにあるだけの現象そのものなのだ」

「しかし玉座にそれを安置できたということは天使たちは少なくとも神との意思疎通ができたということではありませんか」

 魔導士は抗議した。

「玉座に神を安置したのではない。ここに彼らが神と認めたモノがあったから、その周囲に玉座を置き、そしてそれを守る形でここ天界都市を要塞として築いたのだ」

 それ以上何かを言おうとした魔導士を俺は手で制した。

「あのとき、闇大戦の最後のあの時、玉座を護る四大天使が倒れ、誰もいなくなったこの神の座に、俺は座った。愚かなるダークは」


 ああ、あの苦痛。あの叫び。


「この『神』という場所はそれに触れた者に経験と知識を流し込む。この地球に生きたすべての者の魂に直結する記憶をだ。

 あらゆる意思、あらゆる意見、あらゆる思想、あらゆる望み、あらゆる絶望、悲しみ、苦しみ、喜び、泣き、笑い、怒り、落ち込む。

 際限なく、止めどなく、何の意図も、選択もなく、そして容赦がない。

 それはきっと消化というプロセスの別の形での現れなのだ」

「経験と・・知識ですか」

「そうだ。この地球に生きたあらゆるモノが過ごした歳月。そのものだ。それは俺に流れ込み、俺を押し流し、膨大な知識と経験の海の中で溺死させた。俺は避けようもなく百年分の人々の動物の植物の虫たちの細菌たちの魔物たちの生きざまの中に埋没した。それに包まれ、それに溺れた。強制的にすべてを学んだ」

 私は頭の中の記憶と一緒に暴れる無数の映像にめまいを覚えながら続けた。

「わかるか? アーダラク。洗脳ではない。元の人格も記憶も意思も意識もちゃんとある。ただそれに他のものが加わっているのだ。つまりは私は強制的に学び、成長させられたのだ。歳を取ったのだ。問題はそうして学んだことが今までの私の経験よりも遥かに大きいということなのだ」

 そしてそれらがすべて終わったとき、私はファーマソン神父になっていた。自分の中の奥深くに眠っていたファーマソン神父の人格を見つけなければ、ただの超がつく多重人格の人狼になっていただろう。もちろんそれは狂っていると断言して間違いない状態なのだ。


「我が君」

 まだだ。まだギースがカチリと嵌ったあの感じがしない。魔導士アーダラクはまだ心の隅では疑っている。

「だからな。アーダラク。我が魔導士よ。私はお前にも同じ試練を受けさせようと思う。そうすればきっと分かって貰えるだろう」

「我が君!」

 悲鳴を上げてヤツは逃げ出そうとした。私は素早くヤツの足を掴むと、ヤツを頭上に抱え上げたまま立ち上がった。

「止めて! 止めてください。お願いです。我が君」

「ダメだ。これしか方法がないことはお前も理解しているだろう」


 もちろん魔導士は理解していた。だから魔法のギースも私を止めない。私が洗脳されたのではないことを完膚なきまで証明できる方法がこれしかないとアーダラクも認めているからだ。そして私が彼を殺そうとしているのではないから、彼に命を返すと約束した魔法のギースも私を止めようとは働かない。

 私は悲鳴を上げ続けるアーダラクを玉座の中へと放り込んだ。その体が玉座から湧き出る乳白色の霧に包まれてこの世界ではないどこかに沈み始める。頭が霧の中に埋没すると悲鳴は聞こえなくなった。魔導士の伸ばした両手の先だけが霧から出ていて、私はそれをしっかりと握った。魔導士がその手を痛いほど握りしめ返す。もちろんもうまともな意識はないはずだから、純粋な反射運動だ。

「我が魔王?」アラバムが言った。

「お前はやるな。お前はシェイプシフターだ。無数の人格を受け入れれば、その時点で吸収した人格の数だけ体が分裂してしまう。最後は目に見えないほどの肉片になって死ぬぞ」

 アラバムの体がぶるっと震えた。玉座からできるだけ離れようと慌てて身を引く。

「もちろんやりませんよ」小さく呟いた。


 三十ほど数えた。アーダラクの手を引くと、乳白色の霧の中からやつの頭が現れて悲鳴を上げた。

「ああ、我が君。助けてください。早く引き上げて! ひどいんです。苦しいんです。たくさんの、たくさんの魂が!」

 まだだ。私は再び彼の頭を霧の中に押し込んだ。

 いまこの瞬間、大量の魂の奔流が彼の心を満たしている。


 それは苦痛なのか?

 その通り、この世の何をも越える苦痛だ。

 それは快楽なのか? 

 その通り、この世の何をも越える快楽だ。

 私がダークで彼の魔術施術を受けていたときを思い出す。あまりの苦痛に処置を止めてくれと何度頼んだことか。そして彼がそれを聞き入れることは決して無かった。

 我が君、ここが我慢のしどころです。これが終わったら、貴方様はもっともっと強くなります。

 微かに笑みを浮かべて彼は施術を続けたものだ。

 こんなところでささやかな意趣返しをすることになろうとは人生とはわからない。


 もう三十ほど数える。また引き上げる。

「おねがいです。わ、わがきみよ。もどさないでください。な、なかはほんとうにひどいんです。あらゆるコエが。あらゆるカオが。みとめます。あなたはセンノウされていない。だからだして! ここからだして!」

 まだだ。暴れるアーダラクの頭を再び押し込む。

「わがきみぃぃぃぃぃぃ」

 悲鳴が途絶える。


 私のときはひどかった。周囲に生きている者は誰もいなかったのだ。

 石化して砕けている大天使の残骸。血だまりの中でピクリとも動かない配下たち。ザリクの首は胴から切り離されていたし、ナブリオスは大天使の槍を受けて胴体に大穴が開いていた。他にも大天使の死体が三つに、魔物たちの死体が百近く。

 あれは本当にひどかった。何が一番ひどいのかと言えば、その光景に私、ダークが満足していたことだ。最も強い者のために他の者が犠牲になるのは当然だと本気で信じていた。

 そして私は何も考えずに玉座に座り、それが恐るべき罠であることに遅ればせながら気がついた。

 乳白色の霧の中にまともに引きずり込まれたのだ。誰も引き上げてくれる者もいないまま。

 自力で玉座から脱出するのには手こずった。この霧の中には方向というものが存在しない。

 自分の中にファーマソン神父を見つけ出して、魂の霧の中から脱出するまでに百年の経験の海の中を泳いだ。快楽も苦痛も希望も絶望も悲嘆もこの中にはあり余っていた。


 さらに三十。霧から顔を出したアーダラクは喉も枯れよとばかりに叫び続けた。

「我が君航空機はヒレを動かし燃え上がる大地の中満月と新月の恋愛は俺のケツの穴の先にあるアメリカ大陸のあの野郎女房に手を出しやがってやめてそれを壊さないで今夜のプロポースはICBMの着弾でステーキの焼き加減はメタハイドラヒドラジン」

 うん、よし、出来上がりだ。今度は彼の体を一気に引き上げた。これでほぼ十年分ぐらいの経験に相当するはずだ。

 恐怖の目でアラバムが見つめる中、私はアーダラクの頬をひっぱたいた。

 肉体の痛みはどんな場合でも最優先として扱われる。

 左右に忙しなく動いてたアーダラクの瞳がまっすぐ私を見た。

「狂えるこの千年紀の最悪最強の魔導士アーダラクよ。目を覚ませ。自分を取り戻せ」

 もう一回頬を張り飛ばす。

「真の自分を見つけろ。それを見失うんじゃない」

 うまく行くだろうか?

 私のときはうまく行った。だがそれは何の保証にもならない。

「俺が誰だか言ってみろ」

「あ・・う・・ダーク様」

「ではお前は誰だ!?」

「バージャック、いや、ボニアン。いやウィルカス。いや」

「狂える叡智たるザブン・テイラス・アーダラク」

「・・アーダラク・・」

「誇りある者よ。それがお前の名前だ」

 もう一度思いっきり彼の頬を張り飛ばした。彼の口の中で奥歯が折れる感触がした。

 大丈夫だ。今の時代には差し歯という技術がある。

 アーダラクの目の焦点があった。それと同時に私の回りで魔法のギースが踊り、頭の中でカチリと音がしてきちんと嵌るのがわかった。

 魔法のギースは完成した。

 アーダラクが改めて認識したのだ。これは洗脳ではなく、学習なのだと。


 私は両手を伸ばし、魔導士の肩を掴んだ。

「聞きなさい。アーダラク。私は・・ダークは・・自分を特別な存在だと思っていた。不死身の肉体に鋼のような精神。一片の躊躇もなく、他者を滅ぼす特別な力を持った存在だと」

 隣でアラバムが驚いたような顔で私を見つめている。ダークのすべてを知っている彼にしても初めて聞く言葉だったのだ。

「だが私は学び、そして知ったのだ。私の冷酷さは特別な贈り物などではなく、むしろその逆を示すものだと。誰もが他者に示す共感、同情、優しさ。人を人たらしめるそれらすべての必須なものが、ただ私にはひどく欠けていただけなのだと」

 私は周囲に向けて手を振ってみせた。

「これもそうだ。ここにあるのは神という名の幻想、そしてそれを使って何とか世界の秩序を維持しようと頑張る天使たちの努力しかなかった。それなのに私は居もしない神を敵として大勢の者たちを巻き込みながら無意味な破壊と殺戮を行っていたのだ。まるで他者が作り上げた積み木を崩す歪んだ三歳児のように」

 私は天を仰いだ。天界の空は地上よりも深い青だ。

「私は人間の思春期にありがちな一人相撲をしていたのだ。それが分かったとき、私は自分が引き起こしたこの惨事を少しでも和らげねばならないと悟った。私が受けた経験の中には私自身の犠牲者も多く含まれていた。

 天界の勢力はそれまで見せていた姿とは異なり驚くほど弱く、崩壊寸前だった。悪魔たちは天界を征服したがっていたがそれを統治する気はなく、死と破壊の後にはすべての世界を巻き込んだ滅亡が見えていた。

 だから私は失われた均衡を取り戻すべく、天使たちの側に立ったのだ」

「我が君」アーダラクは私の腕にしがみついた。

「私も自分を見て知ったのです。無数の人々の目を通して見つけたのです。何という無意味な人生。無意味な望み。魔法など極めて何になる。ただのでっかい花火を打ち上げられるようになるだけではないか。それを共に見るべき人々は足下に倒れて死んでいるというのに」

 彼は言葉を続けた。

「私は今になって初めて、自分が真に狂っていたことに気づいたのです」


 ああ、我が友たる賢くて同時に愚かなる魔導士よ。今更それに気づいたのか。

 今まで多くの人々が彼を狂っていると評していたのに。


 ついに私たち二人は真にお互いを理解したのだ。

「よし、では君にかけたギースを解こう。君を自由にしよう」

 驚いたことにアーダラクはそれを断った。

「我が君。私はあなたに従い続けます。ギースはそのままにしておいてください。私は自分の中を覗き、そこに何があるのかを知ったのです。ふたたび私が狂ったときのために、我が手綱は付けたままにしておいてください。これ以上の罪を冒してしまう前に」

「そんなことを言って今度は私が狂ったらどうするつもりだ」

「その確率は私が狂うことよりも少ないはずです」

 私は冷たい目で彼を見て言った。

「それはどうかな?」


 沈黙が落ちた。私も魔導士も自分の頭の中の光景を覗いていたのだ。

 アラバムがこほんと咳をした。

「懺悔の時間は終わりですか?」

「ああ、たぶん」

 私は立ち上がった。周囲には誰もいないが、天使たちは間違いなく我々を見張っている。何か異常があると感じたならば助けようと飛んで来かねない。

「残る問題は一つだけだ」

 そう、もっとも重要な問題だ。

「アーダラク。昏睡した者たちを魔法から解放してくれ」

 アーダラクの動きが止まった。

「その、我が君」

「どうした?」

 アーダラクは私との従属ギースの契約の下にある。意図的に逆らうことはできないはずだ。

「その、できないのです」アーダラクはようやく言葉を結んだ。

「できないとはどういうことだ。お前がかけた魔法だろう?」

「違うのです。我が君。あれは太古の魔神ジャブ・・」

 私の手が素早く動き、彼の口を塞いだ。

「その名前を口に出すな。アーダラク。書くのもダメだ。あいつはそれを召喚の合図と捉えて自ら出現することができる」

 アーダラクの目が泳いだ。

「それは不可能です。我が君。ザ・ルールが・・」

「聞いて驚くなよ。あれはザ・ルールを無視できる。少なくともその解釈をゆがめることができる」

「バカな」

 そこで私はバー・ザー・ランの孫娘に何が起きたのかを話してやった。例の名前は抜きでだ。名前ではなくただの代名詞なら、さすがのヤツも介入できない・・はずだ。

「我が君。あれは向こうから私に連絡を取って来たのです。今は顧客を増やすためのバーゲンセールだと言っていました」

「何と、下世話な表現だ。太古の魔神だとは思えない」私は感想を漏らした。

「だから契約の条件は向こうから出して来たのです。こちらはそれに同意するだけでした」

「どんな契約だ」

 思わずアーダラクの肩を掴んで揺さぶってしまった。

「我が君。その内容はこうです。選ばれた相手を一定時間の昏睡に落とし、その後それらの魂を魔神に捧げると」

 無茶苦茶だ。つまり契約者の存在はあくまでも魔神がこちらの世界に干渉する言い訳に使っているだけで、実質魔神が勝手に動いているに等しい。明らかにザ・ルールに抵触するがあいつはそれができる。

 そして魔導士にそんな契約を持ち掛けたのは、私に対する挑発だ。私を玩具にするとはこういうことか。私に関わりのある者たちをまず破壊し、怒り狂うか泣きわめく私をどこかで眺めて楽しもうというのだ。

「その刻限が切れるのはいつだ」

 自分でも恐ろしく冷たい声になってしまった。

 額に冷や汗を浮かべた魔導士は腕を持ち上げてローブの袖をめくると、二の腕に嵌めた腕時計を見た。似合わないことに純金のロレックスだ。魔導士にロレックス。狂える魔導士の名前は伊達ではない。


「我が君。実に言いにくいことですが」アーダラクはしどろもどろになった。

「五分前にその時間が過ぎています」

 彼をその場で殺さなかったのは自制の賜物だ。今の彼は私が命令するだけでギースの力で死ぬが、そんな簡単な死は生ぬるいと思ったのも事実だ。

 エマにアンディに子供たち。その全員がたった今、死んだ。


 その事実に私は打ちのめされた。

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