過去からの呼び声(4/6)
パトカーを三回振り切ったお陰で指名手配されたことが予想されるので、行き着いた街で新しいレンタカーを借りた。
四輪駆動のごつい車だ。これから行く所には道路はない。バチカン支給のカードは使わずに、現金ですべて支払う。レンタル保証金はとんでもない値段になったが、黙って支払う。
カードは使うことはできない。バチカンをバールバナに案内するようなことはしたくないからだ。
ダークの時代に作っておいた秘密口座は今でも有効だ。その中には目を剥くような金額が眠っているのだがどれも例外なくダークが悪事で稼いだ金なのであまり触りたくはない。しかしこの場合だけは例外だ。
闇の保管庫のことは私だけが知っておくべき秘密と考えている。権力を持つ組織がその中のアイテムを知れば絶対に欲しがるし、それを持てば絶対に使いたくなる。そして一度使えばもう止められなくなる。それは保管のためというよりは封印のための場だと私は捉えていた。ただ単に戦争をしたいだけなら、もっと便利で使いやすい道具はある。
そう考えるとダークは凶暴な男であったが、賢い男でもあったと分かる。少なくともこの罠にはかからなかったのだから。
山中深く行ける所まで車を飛ばし、周囲に人気の無い場所を見つけて車を停めると、後は夜を待った。
人狼は満月の夜の大気に満ちた魔力を吸収して狼へと変身する。今日は半月だが、それでも私にはちょっとしたギミックを使っての獣化が可能だ。
神父服を脱ぎ、皺にならないように綺麗に畳んでおく。心の中に満月を浮かべ、周囲から魔力を取り込む。変身に足りない分は私の体の中奥深くに埋められた魔石から取り出す。
これはダークが自分自身に埋めたものだ。
天界との大戦を狙っていたダークは満月の晩しか獣化できないという人狼の欠点を放置しておく気はなかった。配下の魔導士たちと相談した結果、満月の晩に吸収した魔力を貯めておけるようにしたのだ。このお陰で月が出ていなくても一回か二回は変身することはできる。
全身の肉が融け、骨が歪む。苦痛と快感の間の中で変形が始まり、やがてそこには一匹の狼が生れた。
監視衛星が空の上でこの周囲を見ているかも知れないが、闇の中なら四つ足で走る私を赤外線で見ても大型の四足獣としか見えない。そのはずだ。
沖天の半月の明かりでも狼には十分だ。闇に紛れて木々の間を抜け、荒野を駆ける。驚いて飛び出して来たネズミの尻尾をわざと踏んで通り過ぎる。
不注意だぞ、お前。
こうして人の姿を捨て、疾走することの何と気持ちが良いことか。
冷たい風は気持ちが良い。
足下で撥ねる水たまりは気持ちが良い。
草の匂い、岩の感触、それらの間に息づく生き物たちの密やかな呼吸。夜間の捕食者の接近に怯えた匂いを微かに漏らしている。
古い血に問うてみたい。どうして俺たちは狼であることを捨てて人に成ったのか。
ただ今を生きる喜びを捨てて、どうして文明など持ったのか?
狼であることで十分ではないか。それですべてが満ちているのに。
月の光の下での俺たちの王国をどうして投げ捨ててしまったのか。
俺の夢想を断ち切ったのは、前方に現れた大岩の上に座っている存在だった。
それは光り輝いていた。
まるで白亜の崖から切り出して来た彫像かのような、一点の隙も無い完璧な顔。
すらりと伸びた指。黄金比を体現したような見事な体。
しかも全裸だ。その全身が光を発している。髪は炎の赤。まるでそれ自体が燃えているかのように揺れ輝きときおり何よりも深い闇がその炎の中を縞のように横切る。瞳の中央は金色に輝いている
これでもし翼があったら天使族だと判断しただろう。
私は立ち止まって身構えた。本物の狼ではないので唸りはしない。
もちろん、これは人間ではない。そして私が知る如何なる魔物でもない。この世の存在ですらない。
深い深い場所から湧き上がるガスの泡を思わせる声で、それは言った。
「やあ、ダーク」
私は人語を使うために顎の構造を少し変える。並みの人狼にはできない技だ。
「やあ、見知らぬ異邦人よ。知り合いだったかな?」
強烈な魔力の振動。例えるなら一杯に水を貯めたダムの出水口の前に立っている感覚。大気の中に何か危険なものが満ちている。
「知り合いではない」それは言った。「だがまったくの無関係というわけでもない」
「お名前を聞かせてもらえるかな?」
この感じは何だ?
この嫌な感じ。胸の中を満たすこの焦燥感。
その違和感の正体を探って、私は驚愕した。
それは私の中のダークが感じている強い恐怖だった。
「ああ、失礼した。私はデウゼロ・アン・バラマス・イフ・デ・オリオンと呼ばれている。君たちの間では別の名前の方が知られているだろう。シャビラブ・ヘルターだ」
シャビラブ・ヘルター。太古の異教の魔神。美しき災厄。すべてを食らうモノ。
私は意図せずに一歩後ずさった。この美しき魔神が放っている異様さは今まで感じたことが無いものだったからだ。
「誰もお前を召喚していないぞ。異界に棲む者は召喚されない限りこちらに来られないルールだ」
ザ・ルール。
世界を統べる最強の法則。あらゆる魔法の上にあり、あらゆる科学の上にあるもの。その昔のダークは『ザ・ルール』は神が創造したものだと思っていた。だが今やそれは違うと知っている。神よりも上にあるものなのだ。
誰が創ったルールかは知らないがこの太古のルールは今も有効だ。
ザ・ルールには何種類かあり、その一つが異界召喚に関するルールだ。これが無ければ当の昔に無数の魔神たちの侵攻によりこの世界は滅ぼされていただろう。
魔導士たちが結論づけた異界召喚に関するルールは正確にはこういうものだ。
『召喚には生贄が必要であり、その命の価値により異界の存在がこちらに留まることができる日数が制限される。その際の1日は24時間もしくはバルシャンの蝋燭が燃焼する期間として定義される』
シャビラブ・ヘルターは私の問に微かに笑ってみせた。口の端が少しだけ上がる。それだけで冷たい感じが消え、親しみやすさを感じさせる。
もちろん最後まで計算され尽くした表情の変化だ。そもそも魔神の本体が人間の姿をしていることはあり得ない。その必要がないからだ。
「召喚ならされたよ。最近、私の名前を唱えたものがいてね」
それは今度はにっこりとほほ笑んだ。
「差し出された生贄はわずかに二人。だからあまり長居はできないんだ」
背筋を怖気が走った。
最近それの名前を口にしたのは私が知る限りただ一人。とすると生贄にされた二人とは。
カーリーは仕方がない。今までにその手にかけた人間の数は千を越える。だが、あの人の好い孫娘は可哀そうだ。その事実に心が痛んだ。
「あれは召喚のための詠唱ではない。話の中でお前の名前が出ただけだ」
シャビラブ・ヘルターは指を一本私の前で振ってみせた。
「私を呼び出すにはそれだけで十分ではないかね?」
あり得ない。これは明らかにルールの拡大解釈だ。
だがそれだけでこちらに出現できるということは、ルールの解釈を捻じ曲げるだけの力がこの魔神にはあるということだ。三大悪魔ですらできぬことをこの存在は容易くやって見せた。
それの名前を口に出すだけでも命に係る。それを話題にするだけでも召喚の儀式と受け取られる。
沈黙せよ。ただ恐れよ。そは災厄なり。
「魔神が私に何の用だ?」かろうじてそれだけ言った。
「ああ、そう警戒するな。なに、大した用ではない。ちょっとした挨拶だ」
「やり残した仕事を片付けにか?」
影武者を昏睡させたのはこの魔神だ。そしてその昏睡は術師が死亡したことにより二週間前に解けている。シャビラブ・ヘルターはそこで改めて自分の間違いに気づき、その仕事を完遂させる気になったのだろうか。
「あの仕事はすでに終わったものだ。私は召喚者が示した場所に居た召喚者が見せた写真の男に力を振るった。召喚者がターゲットを間違えたのは私のせいではないし、私がフォローするべき事柄でもない」
私の表情から何を考えているかに気づいたのか、それとも私の考えを読んだのか? シャビラブ・ヘルターは私の頭の中の疑問に正確に答えてみせた。
「では何の用だ?」
ああ、質問してばかりだ。分からないことだらけだからか。
「暇でね」シャビラブ・ヘルターは欠伸の真似をして見せた。
矛盾するようだが、魔神はこんな動き一つ取っても優雅だ。
「闇大戦の間ずっと君を見ていた。君はとても興味深い。とても面白い」
それから一言だけ付け加えた。
「玩具にするにはもってこいだ」
胸の中で何かの火が灯った。自分を玩具にすると言われてダークが激怒したのだ。
「ははは、怒ったか。そうでなくては。ではまた会おうぞ。我が善きウルフよ」
シャビラブ・ヘルターは立ち上がり、その瞬間に何の痕跡も残さずに消えた。
強制的に生贄にされた二人の魂に祈りを捧げた。
せめてその魂だけはシャビラブ・ヘルターの手を逃れ、主の御許に行けますように。アーメン。
残念ながら主の玉座には誰も座ってはいないのだが。
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