邪眼(6/6)

 暖かな日差しが差すテラスで私たちは出発前の時間を潰していた。

 予定の列車の発車までまだ二時間はある。最後に皆でちょっとショッピングを楽しむかと考えていた。

「これを見てください。マスター」

 アンディが自分のスマホを私に差し出した。そこに映っていたのは何かのSNS

の映像だ。車に並んで道路を疾走する神父服姿の男が映っている。

「走る神父だそうです。新しい都市伝説になりそうですね」

 なんとも騒がしい時代だ。何でもかんでも動画に取られ、流布されてしまう。この動画をアナンシ司教が見たら何と言うだろう。お小言を食らうのはまっぴらだ。

 その時、アンディがいきなりボーンズ少年に飛び掛かり、引き倒した。

 それを見て私は集中状態に入った。訓練された人狼は集中状態に入ることでもともと高い人狼の肉体の能力を最大限まで引き上げることができる。神経が加速するにつれて、世界が私の周りで相対的にゆっくりになる。超高速の世界の中で私は周囲を見渡す。きっとエマには私の顔がブレて見えたことだろう。

 あった。ライフルの銃弾だ。空中をこちらに進んでくる。銃弾はさきほどボーンズ少年の頭があった場所を目指している。そしてその先には見知らぬ男女がお茶を飲んいる。このままでは彼らに悲劇が訪れるだろう。

 私は糖蜜のように抵抗する粘つく空気の中に手を伸ばして、空中の銃弾を指で掴んだ。指の中で回転する弾丸が暴れる。皮膚が焦げるのが分かったが無視した。やがて弾丸の動きが完全に止まるとそれを離した。ゆっくりとそれは自由落下に入る。

 銃弾が飛んで来た方向に目を向ける。視界が拡大され遥か遠くの光景が見えるようになる。

 見つけた。十階建てのビルの上だ。男がライフルを持っている。プロらしく、すぐに銃を収めて逃げ出した。その顔を記憶した所で集中を解く。

 集中状態は疲れるのだ。常時発動することはできない。

「マスター?」アンディが訊ねる。

「プロの狙撃手だな。失敗したとみてすでに撤退している。さて、アンディ。出発まで皆の面倒が見られるかな?」

 返事を待たずに私は立ち上がった。

「ちょっと出かけてくる」


 人がいる街路を人狼の速さで駆ければ大騒ぎになることは必定だ。それに万一通行人にぶつかりでもすれば惨劇がそれに追加される。

 またSNSに動画を上げられるのは困る。

 だから今度はビルの屋上を行くことにした。意外と誰も空は見ないものだ。

 屋上から次の屋上へ跳び、助走をつけてまた跳ぶ。次の屋上に届かないときは途中のビルの壁を蹴って斜めに跳んで凌いだ。これが一番速く移動できる。


 アンディは役に立つ弟子だ。アンディ自身は人間だが、能力者の家系の血が強くでているケースだ。

 予知能力。

 アンディは常に三秒先の未来の中で生きている。彼は三秒先でボーンズ少年の頭が吹き飛ばされるのを見て、現在で彼を庇った。それを私が見て何かが起きたことを知り、アンディより三秒遅れて追いついてきた現実の中の銃弾を掴んで見せたのだ。

 もちろんアンディのこの能力には大きな欠点がある。日常生活や他者とのコミュニケーションが非常に難しくなるのだ。会話一つとっても三秒先の人物への受け答えは、現在の相手に取っては異様な会話に映る。

 そしてこの能力の秘密が敵に知られれば容易に対処されてしまう。例えば近距離での爆弾の爆発に対しては三秒で対処するのは困難だ。それ故にアンディの能力は絶対的な秘密として扱っている。


 先ほどまで狙撃手がいたビルの屋上に着地する。綺麗に痕跡は拭い去っていたが、私には関係ない。男が残した臭いを辿ってビルの中を走る。

 外へ出て後は足早に追う。

 三ブロック先で追いついた。車に乗りかけている男の肩に手をかけるとびっくりした顔で振り返った。目の前にいたのが神父であることに二重に驚いた。

「やあ」私は白い歯を見せて笑った。「話を聞かせてもらえるかな?」



 ゴブリン・ボスはジェットバスから上がるとバスローブを羽織った。ゴブリンは人間の子供ぐらいの大きさしかないから、着るものはすべてオーダーメイドだ。

 それを言えばこの洋館の調度品もゴブリン向けに作らせたものが多い。ゴブリンが群れて自分たちの巣をつくりたがるのも、こういった面での影響が大きい。人間の設備はゴブリンには使い難い。その意味ではこの洋館はゴブリンたちの城なのだ。

 ゴブリン・ボスは無防備な姿で自分のちっぽけな玉座へと戻る。奇妙に廊下は静かだ。いつもは配下のゴブリンが数人はうろついているものだが。

 ボス部屋のドアを押し開ける。どこかの馬鹿が部屋の灯りを消していったらしい。電灯のスイッチをまさぐった所で、異常に気が付いた。ここにはいつもボディガードが控えているのだから、電灯が消えているのはおかしい。

 恐怖が体を走った。ぞわぞわとしたあの感じ。命の危険が迫っていることを知らせるあの嫌な感じだ。

 見たくはなかったが、それでもスイッチを押した。


 目を見開いたゴブリン・ボスを正面から見つめながら、俺は柔らかな笑みを浮かべて見せた。ゴブリン・ボスの顔に浮かんだ恐怖の表情を見ると、存外に怖い笑顔になってしまったようだ。それが俺をひどく傷つけた。

 そうだろう?

 俺はまだ獣化もしていないんだぜ?

「やあ、ボス」俺はそう言って、顎で奴のご自慢のソファーを指示した。「お前さんの王座に座りな」

 やつは大人しくいつものソファーに座った。ここまで漏らしていないのには感心した。思ったよりもガッツがある。さすがボスをやっているだけはある。

「今度はあんたに訊きたいことがあってね」

 言いながら、隅にかぶせてあった布を引きはがす。

「これはほんの手土産だ」

 うずたかく詰みあがったゴブリンとオークの首、首、首。その頂上を飾るのはあの人間の狙撃手の首だ。その首が恨めし気に宙を睨んでいる。

 別にあのまま列車に乗ってここを離れることもできた。こんな小さな組織への意趣返しなど意味がないことだ。対策局はそこまで暇じゃない。

 なのに俺は今こうしている。

 この決定を下したのがファーマソン神父なのかそれともダークなのかは判別がつかない。二人は別人であり、また同時に同一人物だ。それにしても二人はかけ離れすぎている。神の野郎め。いったい何てことをしてくれたんだ。

 この目の前のあまりの光景にゴブリン・ボスは声も出ない。その数からしてこの洋館にいたすべての手下の首がそこにある。恐怖のあまりに顔色が茶色がかる。

「列車の時間が迫っていてね、そう長話はできないから手短にいこう。俺たちはそれなりの妥協点にたどり着いたと思っていた。なのにあんたは狙撃手なんかを送り込んできて俺の庇護下にあるボーンズを殺そうとした。いったい何がやりたかったんだ?」

 ゴブリン・ボスはそっとテーブルの下に手を差し入れると、少しだけ気力を取り戻した。

「ボーンズは色々知っちゃいけないことを知っているんだ。だから口封じをしなくちゃいけねえ」

「あんたが守らなければいけない秘密か」

 俺は鼻で笑った。

「つまらん」

「そちらに取ってはそうだろうな」とゴブリン・ボス。

 手にしたもののせいで、なんとか落ち着きを取り戻している。

「で、その秘密というのはその机の中に隠していたこれかね?」

 俺は首の山の中からそれを引き出した。古い古い本だ。

 ゴブリン・ボスの顔色が茶色から黒に変わった。

「ソロモンの小さな鍵。レメゲトンの第三断片か。きちんと解読できれば大きな魔力が手に入る」

 俺は説明した。

 その通り。本来大きくなったゴブリンの群れは悪魔に統率される。だがこの魔導書を使えば逆に悪魔を使役できる。すべてのゴブリンや魔術師が喉から手が出るほど欲しがっているものの一つだ。そしてその理由からバチカンが第一級の禁書に指定しているものの一つだ。それを所有してよいのはバチカン秘密文書庫だけなのだ。対策局の役目の一つはこういった魔導書の回収だと言えば、その重要性が分かるだろう。

「返せ! それは俺のだ」ゴブリン・ボスが喚く。

「くだらん」

 俺はその古文書を引き裂いた。ゴブリン・ボスの目が驚きに丸くなる。この一冊だけでその真の値段は百億ドルにはなる。

 俺はその残骸をゴブリン・ボスに投げた。

「偽物だよ。それも分からんのか」

 ゴブリン・ボスは慌てて破られた本をかき集める。

「偽物のわけがない」

「匂いを嗅いでみな。インクが新しすぎる。それに山羊の皮で作られている。本物は信仰に準じて死んだ信徒の皮で作られている。つまり人皮だ。それになにより」と俺は続けた。「内容が違う。俺は以前にそいつの本物を持っていたからな」

「だがバイヤーはこれが本物だと言っていた。拷問までして確かめたんだぞ!」

「ではバイヤーも騙されていたということだな」俺は断じた。

「そんな!」ゴブリン・ボスが悲痛な叫びをあげた。

 値段から考えてみれば分かる。本来は組織が持つべきものであり、個人の手が届くような代物ではないのだ。それが今こうしてここにあるとすれば、それは偽物以外の何物でもない。証明終わり。

 今回の返り討ちにあった対策局の調査員たちはこの魔導書の噂を聞きつけてここに来たのだ。それは報告書を読んで分かっていた。

 そして最初にここに入ったときは、臭いでそれが偽物だと分かったので敢えて放置しておいたのだ。ゴブリンにだって夢を見る権利ぐらいはある。

 その思いやりが仇になったというわけだ。俺は心の中で苦笑いをした。慣れぬことはするものじゃない。


「アザースから俺が何者であるかは聞いていたと思っていたが違ったかな?

 まあお前はここ十年でのし上がって来た口だから知らないのも無理はない。あの大戦以前に俺と会ったことがある連中は絶対に馬鹿なことはしない。アザースのようにな。ただ頭を低くして俺が街から去るのを待つのが普通だったのだが」

 そう。嵐が去るのをじっと待つように。津波が治まるのをじっと待つように。だがここに一人だけ、待てない馬鹿がいたというわけだ。

 俺はゴブリン・ボスのテーブルの上から羽ペンを取り上げていじり出した。この行為に意味はない。何、ただの癖ってやつだ。この素敵なペンをゴブリン・ボスの手のひらに深々と刺そうなんてことは思ってもいない。

 そして私は独り言のように呟いた。

「最初は警戒していたお前もいざ俺が目の前から消えると色々と欲が出たのだろうなあ。アザースは大げさに言っているだけだ。本当は俺は大したことが無い野郎で大物ぶっているだけだ。そうに違いない。それにガキを一匹目の前で殺すだけだ。大したことにはならない。そうだそうに違いない。殺してしまえ。とまあそんなところか」

 ゴブリンも人間と同じように冷や汗を流す。俺のつぶやきを聞きながら、ゴブリン・ボスは大汗を流していた。

「まあ本当の所を言えば、お前の雇った狙撃手は失敗したのだし、あのまま街を離れても良かったんだ。そしてバチカンから綺麗な絵のついた観光ハガキを一枚お前さんに送る。ファーマソン神父ならそうしただろうな。それがあいつのスタイルだ」

 コツコツと羽ペンの先で机を叩く。

「あるいは狙撃手の生首にラッピングをしてお前に送るのもいい。それもエレガントでいい。じゃあ何で俺がこうしたかわかるかい?」

 俺は壁の前に築かれた生首の山を羽ペンで示した。

 ゴブリン・ボスは答えない。眼を大きく見開いたままだ。

「それはなこれが俺のスタイルということだ。ただそれだけ」

 手にした羽ペンを投げた。それは狙撃手の首へと飛び、その右目を見事に射抜いた。

 俺はアクビを一つすると立ち上がった。そろそろ飽きてきた。小物を揶揄っていても仕方がない。

「じゃあ、そろそろ終わりにしようか」

 俺はゴブリン・ボスに近づいた。

 必死の形相でゴブリン・ボスはテーブルの下から銃を取り出した。小さな手には余るほどの大きな銃だ。

「近寄るな。この中には」

「銀の弾丸だろ? 匂いでわかる」

 ゴブリン・ボスの動きが止まった。手の中の銃を見つめる。銃も古文書も同じ場所に入れてあったものだ。

「弾は抜いてないよ」俺は指摘した。

「どうして!?」

「あんたを揶揄って嬲るためさ。銀の武器がないと人狼は倒せない。だが銀の武器があったからと言って、人狼が倒せるとは限らない」

 俺はにやりと笑った。最近はこの笑い方が板についてきた。

「撃って見な」

 そう言いながら銃口に自分の頭を押し付ける。

 ゴブリン・ボスは躊躇わずに撃った。引き金を空になるまで撃ち続けた。


 指先の筋肉の動き。神経を流れる電位のひらめき、一瞬小さくなる瞳孔。

 どうしてこの種の生物は撃つ直前に呼吸を止めるのだろう?


 ゴブリン・ボスは全弾撃った後になって初めて、自分が何もない空間を撃っていたことに気づいた。

 ゴブリンの動態視力では集中状態にある俺の動きは捉えることができない。奴には俺が消えたように見えただろう。

 合計五発の銀の弾丸。それは全部、俺のいたはずの場所を通過し、背後の壁にかかっていた豪華なタペストリーに穴を開けただけに終わった。

 俺はゴブリン・ボスの背後から手を伸ばし、そっと拳銃を取り上げた。空の拳銃を奴の目の前で握り潰し、金属のねじくれた塊りに変えた。

「もう、気が済んだかね?」

 俺は再びゴブリン・ボスの前に立つと神父服を脱ぎ始めた。これを破るとアナンシ司教がいい顔をしないのは分かっている。バチカンの衣服課から苦情の手紙が来るのだ。奴はそれをわざわざファイリングし、俺の名前が書いてある書棚に収めている。

 全裸になる俺を見ながらゴブリン・ボスの顔がくしゃくしゃに歪む。俺が服を脱ぐ意味がやっとわかったのだ。ボスの顔から涙と鼻水がとめどなく溢れ落ちている。

「聖書によれば、神はおのれに似せて人を創り、悪魔はおのれに似せてゴブリンを作った、だったかな」

 もちろん、人間の聖書の話ではなく、闇の聖書の話だ。

 話しながらも俺の体の内部がうねる。筋肉が配置を変え、骨が変形する。ばきばきと嫌な音がする。俺の人狼の血が人狼の肉の配置換えを行っているのだ。

「だがな。その文言の後ろ半分はちょっと違う。本当のところは、悪魔は配下のエサとしてゴブリンを創った、が正しい」

 ナイフでも切れぬ剛毛が全身を覆い始める。頭が膨れ上がり巨大化する。顎の骨が厚くなり、前に伸びた口の中が鋭い牙で埋まる。成熟した人狼はちょっとした技術があれば、満月の夜でなくとも獣に変ずることができる。口の中に納まり切れなくなった舌がずるりと横からはみ出る。

 俺は口を大きく開き、発達した牙をゴブリン・ボスに見せつけた。もちろんこの行為にはこいつを脅かす以外の意図はない。あくまでも俺のスタイルというやつだ。

「さあ、ゴブリンよ。己が勤めを果たすがよい」

 ゴブリン・ボスの眼がこれ以上はないというほど見開き、近づいて来る虚無の洞窟を覗き込んだ。悲鳴は上げる暇が無かった。

 俺は血に飢えていたから。



 うずたかく積みあがった生首の山の頂上に、そっとゴブリン・ボスの首を置いた。

 テーブルから持って来た葉巻をその開いた唇の中に咥えさせたが、ポロリと落ちてしまったので、もう一度咥えさせてから上下に強く押し込む。ベキベキと音がしてボスの頭蓋骨が少し潰れたようだが、葉巻はしっかりと口に食い込んだのでよしとする。

 最後にボスの首の角度を調整して、しばらく眺めた。恨めし気な瞳が天井を睨み、配下の首の山の頂上でボスの威厳を振りまいている。

 うん、これでよい。俺の美意識が満足した。

 これで楽しいゴブリン一家のオブジェの出来上がりだ。どこかに写真機はないかな。是非ともこれを保存しておきたい。


 仕事が済むと、俺はテーブルの上の電話器を取り上げ、履歴を調べた。

 送信先のリストの中に『チクリ屋』の文字を見つけた。ボタンを押そうとして爪が引っかかり、悪態を突きながら人差し指だけ獣化を解く。鋭い爪が生えている指では電子機器はとても扱いにくいものなのだ。

 受話器の向こうでコールが鳴り響き、通話が繋がる。

「マルコーニさん。何か御用でしょうか?」

 アザースの声が聞こえた。

「やあ。アザース。久しぶりだな」俺は言った。

 電話の向こうでアザースが息を呑むのが聞こえた。電話の主が俺だと気づいたのだろう。それも先に訪れたファーマソン神父とは別の。その昔畏怖とともに聞いたことのある、忘れようにも忘れられない声。

「ダ・・ファーマソンさん」怯えた声で言った。

 一瞬それが誰を示しているのかが分からなかった。

「仕事を頼みたい。アザース」

「情報ですか?」アザースの声が震えている。何をそんなに怯えているのだろう?

「違う。掃除だ。ゴブリン・マフィアの本拠の掃除だ。ちょっと汚してしまってね」

「掃除ですか?」それは俺の仕事じゃないという口調だ。

「できないのか?」俺は優しく訊いてみた。

「できます!」どうして悲鳴で答える。コイツは?

「じゃあ頼む。代金はこの部屋の中にある金庫から貰ってくれ。金庫の扉は開けておく」

「立ち会って貰えるんで?」

 声は怯えているが仕事の手順はきちんと踏む。さすがにアザースはプロだ。

「いや、すぐに出立するのでそちらで勝手にやってくれ」

 電話の向こうの気配が明らかにほっとした。俺が街を出るのに安堵したらしい。何と失礼な。部屋の隅に積んであるゴブリンたちの生首の山を見ながら、その上にアザースの首を追加した光景を想像して楽しむ。

「でもそんなことしたら用心棒たちが黙っていません」

「大丈夫だ。この建物には文句をつける奴はもう誰もいない」

 俺が指摘するとアザースはうっと言葉に詰まった。

「不思議なことに本当に誰もいないんだ。そして誰も帰ってこない。

 じゃあ頼んだぞ。アザース。またな」

 電話の向こうでアザースは何か小さな声でこにょこにょと呟いていた。


 電話を切り、獣化を解く前に隅に設置されている大きな金庫の前に立つ。

 金庫の扉は丈夫な金属だ。だが獣化した人狼を止められるほどのものではない。特に、この俺には。

 取っ手を力任せに引くと敢え無く取れてしまった。仕方ないので三回ほど殴りつけると扉が大きく歪んだので、隙間に指を突っ込み、扉を引きはがす。金庫の扉がどれほど頑丈でも、本体と繋げている蝶番には限度がある。人狼の力には抗すべくもない。

 金庫の中には札束が詰まっていた。それと秘密の遊びに興じる上流階級の紳士方の色々な写真に動画らしきものの入った記録媒体。マルコーニのいざというときのための切り札。

 アザースならこれらを有効に活用することだろう。私はその想像ににやりとした。

 それから私は獣化を解き、神父服に着替えてから洋館を後にした。



 発車の直前に列車のコンパートメントに滑り込んだ。急いでいたので行儀は悪いとは思ったが窓からだ。

 エマとボーンズが驚く。アンディは三秒前に驚き終わっている。

「マスター。お帰りなさい」

 エマが手にしていたチキン・バスケットを差し出す。

「食べますか?」

「いや、いい。今たらふく食べて来た所だ。だが、有難う」

 私はそう断ると、エマの横の座席に身を沈めた。ゴブリンの問題点は自分たちはグルメ揃いの割にはその肉が不味いということだ。

 エマが紙ナプキンで私の口の周りを拭いた。どうやら血がついていたらしい。

「マスター」アンディが自分のスマホを差し出してきた。

 今回のSNSには空飛ぶ神父とお題がついていた。ビルの上空を跳んでいる私の写真が載っている。

 やれやれ、現代は姦しい時代だ。おまけにアナンシ司教の目を誤魔化せるものはこの世に存在しない。きっと対策局に帰ったら、バチカンの権威を傷つけたという理由でアナンシ司教は私に始末書を書かせることだろう。そしてそれをファーマソン神父と書かれたファイル棚に仕舞うのだ。


「これで仕事は終わりですか。マスター」アンディが訊いた。

「これで終わりだな」私はそう答え、ボーンズを見た。

 カトプレパスのボーンズ。闇の大戦が無ければ両親の下で何不自由なしに成長できたであろう子供たち。

 まだまだボーンズのような子供たちが居るに違いない。

 私の贖罪と本当の仕事はこれから始まるのだ。

 そう理解した。

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